1、陽子

 陽子ようこの一日は遅い。

 まず七時にセットしたアラームを八時にやっと止める。そこからバタバタと準備をし、前日までに買っておいたパンをひとつ、今日はお腹が空いているので二つ鞄に突っ込む。

 家を飛び出し、鍵をかけ、近所のおばさんに挨拶をして、そのまま駅へと一直線。

 八時二十分の電車に飛び乗り、八時二十五分に駅に降り立つ。改札を出て、五分ほどすれば高校の校舎に着く。さらにそこから靴を履き替え、八時三十八分、一番手前の教室に飛び込む。

 クラスメートからの挨拶に笑顔で答えながら、今日もギリギリ間に合った、と安堵の溜息と共に一番後ろ端の特等席に腰を下ろす。

 職員室が遠いせいか担任の永井ながいはいつも五分は遅れてくる。つまりホームルーム開始の八時四十分までは二分しかないが、実質あと七分もある。

 陽子は迷わず持ってきたパンの一つを開けて齧り付く。香ばしいソースの香りが鼻に抜ける。


 「おっ、今日も二見ふたみ早弁?」

 

 にやりと意地悪な笑みを浮かべるのは隣の席の柿崎かきざき。陸上部のせいで焼けた浅黒く肌は健康的な印象を持つ。


 「おはよう柿崎くん。ちがうよ、これは朝ごはん」

 「お前いっつもそう言ってるけど朝それだけでもつの?」

 「もつよ。柿崎くんみたいに運動部に入ってるわけじゃないし」


 確かに昼前にはお腹が空くが、飴などでこっそり凌げばなんとかなる。


 「ふーん、まあ、一応女子だしな」

 「一応じゃなくて生物学上れっきとした女子だから」

 「あ、そうだったな」


 柿崎がはんと小馬鹿にしたように口元を引き上げる。

 その反応に全く失礼だなとは思うものの、ムカつくほどではない。

 柿崎とは高校に入ってからの知り合いだが、クラスが二年間同じでよく席が近くになる縁も絡んで異性の中では断トツで仲が良かった。


 「柿崎くん。わたしは慣れてるけど、そんな言い方してると女の子にモテないよ」

 「うっせぇ。余計なお世話だ」

 「あいたっ」


 小突かれた額を抑え恨めしげに睨めば、柿崎がふふと楽しそうに笑う。相変わらず、意地悪である。

 そんなことをしている間に担任がやってきた。陽子は慌ててパンに齧り付くと、残りを鞄の中へとしまった。


 結局食べ損ねてしまった。

 鞄の中に残ったパンを思い出し、小さくため息を漏らす。

 昼は朝の残りの焼きそばパンと調理部に所属する友人達がホワイトデーの試作で作ったベーコン入りマフィンとクッキーをもらって食べたため、手をつける余裕はなかった。

 しかしだからといって、朝昼晩三食ともパンで済ませるのは流石に不健康な気がしてならない。

 このパンどうするかな、とパンの行く末に想いを馳せながらバイト先への近道である裏路地を進んでいると、草むらから「きゅーん」と犬の鳴き声のような音が聞こえ足を止める。

 しゃがみ込んでみると、白い尻尾がちょろりと顔を覗かせている。さらに道路に顔がつくほど体制を低くして見ると、真っ白なわたあめみたいなふわふわのボールがいた。


 「・・・ポメラニアン?」


 陽子の声に反応してボールがぱっとこちらを向く。顔の中心についた目は真っ赤で、一瞬小学校にいたうさぎを思い出したが、やはりその風貌は陽子の知っている犬と同じである。

 犬はじっと陽子を見つめる。陽子もじっと見つめる。互いに見つめ合い、陽子が何もしないと判断したのか、犬はまた顔をそっぽ向ける。その一連の動きはどことなく元気を感じられない。普通犬とは人間を見たら逃げるか、近寄ってくるかのどちらかだ。


 もしかしてお腹をすかしているのかも。


 現時点で飼い犬か、野良犬か判断はつかない。野良犬だった場合、餌付けをせずに保健所に連絡するのが市民の義務であるが─。


 「おいで、パンあげるよ」


 陽子が鞄からパンを取り出すと、犬がピクリと反応する。

 

 「あっ、ちょっと待ってて」


 陽子はポケットからスマホを取り出すと、手早く文字を打ち込む。

 以前友人の犬が謝ってチョコを食べて病院に行く羽目になった話を思い出した。パンは大丈夫だとは思うが、確証がないのにあげて病院送りなんてもってのほかだ。


 「うん、食パンなら大丈夫だって。ほら」


 陽子がパンをちぎって手前に置くと、犬はのろのろとした動きでパンを口にする。一瞬動きが止まり、残りのパンもガツガツと頬張り始め、陽子が持っていたパンはすぐになくなってしまった。


 「ふふ、美味しかった?」


 手を伸ばすとぺろりと犬が舐めてきた。

 調子に乗って頭を撫でると、嬉しそうに目を細める。


 「はぁ〜かわいいなぁ」


 うりうりと首あたりを撫でて探るが、首輪の類は見当たらない。


 「うーん、やっぱり野良なのかな?でも野良にしては毛並みが綺麗なんだよね・・・」


 しっとりと手に吸い付くような艶やかさは、犬を飼ったことのない陽子でもよく手入れされているとわかる。


 「どうしよう。やっぱり警察に連れて行った方がいいかな・・・」


 そう陽子が呟いた瞬間、急に犬が「うゔーっ」と牙を剥く。そのあまりの変貌に驚いていると、ポケットの中のスマホが激しく震え始めた。取り出してみると、画面にはバイト先である『弁当まこと屋』の文字が。


 「あっ、あー!しまったー!」


 すっかり犬に夢中になって忘れていたが、十六時半からシフトに入っていた。店主の花房は基本的に適当なのだが、時間にだけは厳しい。たぶん、五分前になっても現れない陽子を心配─という名のプレッシャー─して電話してきたのだろう。

 幸い、ここから猛ダッシュすれば三分で着く。

 

 「ごめん!ちょっと今急いでるからまたあとでね!」


 陽子は犬の返事を待たずに走り出す。

 そもそも犬って返事してくれるのだろうか、なんてことを考えている間にバイト先に到着した。

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