地図を広げてみて
紫鳥コウ
もう、会って、話したいよね
大学生の時の記憶はあいまいで、正確性を欠いてしまうのですが、古文書を読む授業を受けていたのは間違いありません。わたしは日本の古文書の読み方を習っていました。
しかし、たった半年の授業で、解読の技術が身につくはずもなく、いま目の前に古文書を出されても、「なんですかこれ……」という感じになるでしょう。悲しいかな。別の授業をとっていたほうがよかったかもしれません。
それでも、いまでも読めるであろう字はあって、それが「
その授業の先生いわく、江戸時代になると、たくさんの文書が作られるようになるので、末尾につけられる「候」も、かなり簡略化されてしまうらしいのです。そういえば、「い」とか「り」のような見た目だった気がするのですが……それもまた、あいまいな記憶です。いっぱい書かないといけないから、しゃっしゃと書いてしまう。
わたしは日本近世史を専門としていないので、「間違っているぞ!」と言われるかもしれませんね。もしよろしければ、ご教示いただきたいです。
――――――
大学生になって、まず戸惑うのが、「ノートの取り方」だと思います。先生たちの黒板の使い方は(個人差はあるのですが)色とりどりで、キーワードを書いたりするだけの方もいれば、スライドを作ってくる方もいます。高校までのように、黒板を丸写しすればいい、というようなものではないのです。「ノートになにを書けば……」と、最初は戸惑います。
「よく話を聴き」、その中で、「重要だと思うことを書く」しかないのですが、これを習得するのはなかなか難しく、中には、大学卒業までノートの取り方がわからないひとはいるんです。
わたしは、あとで調べればいいや精神で、よくわからないところとか、聴いてて思考のヒントになりそうなことを書きとめるくらいだったので、ほとんど先生の話にうなずいているだけでした。案外、その方が覚えているものです。
しかし、そのせいで、「走り書き癖」ができてしまいました。さっさとメモって話を聴くという姿勢でいると、あとで見直したときに、ぐちゃってて読めないんです。画数の多い漢字を簡略化していたり、ささっと思い出せない漢字はひらがなで書いていたりしているので、ある種の古文書のようになっています。
そして、ここ数年は、パソコンでレポートを書いたり、書類を作ったりする生活が続いてしまい、もう「綺麗な字」が書けなくなってしまいました。「まあ、いいか……」とあきらめていたのですが、「綺麗な字」を書かなければならない事態が、二回も(!)訪れたのです。
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わたしは、ある大好きな漫画家さんがいて、その方の作品で絶版になっていないものは、すべて揃えています(はずです)。わたしは、漫画雑誌を購入せず、単行本になってから買うタイプなのですが、その漫画家さんの作品を読むために、かなり久しぶりに連載を追うようになりました。
そしてある日、「ファンレターを送りたい!」と思って、
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そして、もうひとつ。これは先日の話です。
ある書類を大学の事務室に提出する必要があったのですが、その書類には「綺麗に、正確に」書くよう指示された箇所がありました。常識的に考えれば、書類に記入する文字は、「綺麗」で「正確」であることは当然なので、あえてそう指示されているからには、読み手としては、「汚く、不正確に書いたら、どんなペナルティが待っているんだ……」と思ってしまうのもしかたないですよね。
書き出しは完璧でした。「こんな綺麗な字も書けるんや……!」と、ほくそえんだくらいです。しかし、書き切ってみると、たいへんなミスに気づいたんです。
○○○〈××××△△△……
「あれ? 『〉』は……△の前の『〉』は……」――わたしは、ないはずの『〉』を探しましたが、あろうはずもありません。下のようにしなければならなかったのですが。
○○○〈××××〉△△△……
苦肉の策で、「×」と「△」の境目に、無理やり『〉』を挿入しました。すると……「汚く」て「不正確」な文章になったんです。ひとつの脱字を加え直すことで、こんなに不格好になってしまうんだと、ゾッとしました。
冷や冷やしましたが、通りました。ありがとう、優しい職員さん……!
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わたしはいま、少しこころの不調があって、創作に身が入らないことがままあり、「毎日更新」が嘘になったり、SNSでの「今日掲載します」が有言不実行になることがあります。なぜ、あらかじめ宣言するのか、自分でも不思議なのですが、おそらく「自分を奮い立たせる」という意図が無意識に働くのだと思います。
そんな不調にあえぐ日々、「今日一日」の調子をはかるバロメーターになっているのが、「朝と夜に外出できるか」です。外出できれば、「比較的に調子はいい」という感じです。外出といっても、アパートの近くを少し歩いて、ごはんを買うだけなのですが。
これを書いているいま、ふと思ったのが、「外には手書きのものが、あまりないなあ」ということなんです。お店の看板も、標識も、「~はこちらです」の案内版も、手書きではない。これは、「必ず読めるようにする」ためなのでしょうか。よくわかりません。手書きでない方が、さまざまな装飾(アレンジ)を施すことができるからかもしれませんね。
そういえば、このエッセイだって、読みやすいフォントに、自動的になっていますね。
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もちろん、手書きのものは、あるんですよ。例えば、自分が
わたしは、必ず決まったものを食べてしまうので、そのオススメの定食を頼んだことはないのですが、それでも、あのメッセージを読むと、ほっこりするんです。なんでだろうと思って、考えていたら、ちょっとここで筆が進まなくなったのですが、こうした心理的なことは、あまり深く考えず、直感のまま済ませてもいいのかもしれませんね。
――――――
わたしは、あのメッセージのような文章を、書いてみたいと思っているんです。うらやましい。文章というのは、それを読むひとに、書いたこと以上のものを伝えたとき、はじめて記号の域をこえてしまう。
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「書く」と「読む」は、まったく違う営為です。一番の違いは、文章を「書く」のは、ひとりの手で一回きりしか行われないのに、「書かれたもの」を「読む」のは、複数人が何度でも繰り返すことができるのです。このエッセイは、(訂正可能とはいえ)わたしの手によって、ひとつの作品(文章)としてあり続ける一方で、たくさんの方に読んでもらえている(はずです!)。
しかし、この
――――――
しかし、この解決は簡単だと思うんです。
《実際、会って、話す》
それだけです。表情、声のトーン、身ぶり手ぶり……は、伝えたいことの意味を、完全に近い形にしてくれます。わたしはよく、「オフラインの重要性」を熱弁するのですが、その意図のひとつは、このことによります。
でも、こうしたことって、たくさんのひとが気づいていて、たくさんのひとがそれぞれの形で発信していると思うんですよ。しかし、なぜか広まっていかない。いま、わたしの関心はそこにあります。
――――――
それでも、「良い誤読」はあると思うんです。書かれたことが、書き手の思わないところで、良いように解釈される。そして、ひとを勇気づけたり、元気づけたり、がんばろうと思わせたりできる。
そうした「良い誤読」は、計算してできるものではないのですが、「せめてできること」があるとするならば、「前向きなことを書き続ける」しかないんだと思います。かんたんに言い換えるなら、「悪意のあることを書かない」ということです。
――――――
近所を散歩していると、「悪意のある文章」になんて出会いません。だから、近所を歩けるのでしょうね。
しかし、お金のない院生にとって、「安売り」などの文章は、ちょっと「悪意」があります。
安いものをいっぱい買うと、お金がかかる、という当たり前のことを学習するのって、いつになるんでしょう。古文書の解読のように、けっきょく、身につかないんでしょうか。わたしだけですかね……?
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