主成分は夢

和毛玉久

ウォータードーム・グッバイララバイ


 私は写真コンペ用の撮影のために浦泊うらどまり海岸を訪れていた。ここは獲鳥えちょう市の中でもかなり東の方にあり、岩場や小さな海岸洞窟の美しさから自然公園にも登録されている。しかし、私はとうてい楽しみとは遠い気持ちで、修行僧のごとく砂浜の上で暑さにじっと耐えていた。

十六時頃に撮影を始めてから、既に二時間ほど経っている。十日前にふと思いついた「砂浜に設置した手鏡に映る月と、反対側の空で沈みゆく太陽を同時に写真に収める」という試みは、今のところ完遂されていない。というのも、七月の日が長い時期とあって、なかなか日が降りないのだ。今日は終日晴れ、夕日を撮るには打ってつけの日だ。しかし、交通渋滞や雲行きという不確定要素を考慮して早めに家を出たのが裏目に出た。初日とはいえ、もう少し遅く出発しても良かったなと何回思ったことだろう。

 それに、夕方でも七月の海は暑い。日除けに持ってきたタープで日光は遮られているものの、そもそもの空気がかなりの熱を含んでいる。夏の野外撮影は消耗戦だ。

ポコンという通知音が鳴る。点灯したスマートフォンの画面には、ルームシェアをしている美咲からのメッセージが届いていた。

「コイー、写真はどうよー?」

「日が沈まないので待機中。クソ暑い」

「アイス食ってるアタシは勝ち組」

 再び、間抜けな通知音と共に、黒髪赤メッシュの女の自撮りが送られてきた。コンビニなどのアイス売り場で売られているソフトクリームをドヤ顔で食べているが、手の中にあるのは円錐形のプラスチックカバーの方で、逆さまにされたアイス部分にはスプーンが突き刺さっている。コーン部分は背後の座卓の上にあった。その様子に思わずツッコミを送る。

「また盛大に開けるの失敗してんじゃん」

「腹に入れれば一緒よう!」

 豪胆な返信が返ってきた。さあ何を言い返してやろうかと考えていると、汗が額から流れ落ち、同居人への仄かな恨みを募らせる。こいつ、後日に頼まれているジャケ写の撮影でバンド仲間と共に真夏の炎天下を連れまわしてやろうか。仲間の方は完全なとばっちりだが、ちょっとはこちらの気持ちを味わわせてやりたい。せめて日が落ちればと顔を上げると、視界の端に海岸を散歩しているらしい女性が入った。

 女性の齢は二十代から三十代前半に見える。自分よりは年上だろうか。青みがかっているようにも見える、肩まで伸びた艶のある黒い髪に、色白の肌が目を引く。黒いノースリーブのワンピースを着た彼女は、この暑い中を涼しい表情で歩いている。

おそらく街中で彼女を見たら、百人中九十九人は「美人」だと評価するだろう。しかし、私には彼女の姿以上に魅力的なものが見え、そちらに目を奪われた。

 水風船だ。私はそのように呼んでいるが、彼女の右隣には、直径一メートル以上はありそうな、非常に巨大な水風船が浮いていた。その中には、鈍い銀色の鱗が生えた皮、長い脊椎骨、青い半透明の尾鰭などがとぐろを巻いて収まっている。彼女の本性は魚に違いない、と私は判断を下す。

 徐々に女性が近づいてくる。それにつれて、水風船の中身もよりはっきりと見えた。鱗は非常に細かいのか、角度によってCDのように光り方が変わって見えた。なかなかの大きさのある尾鰭も不思議な色合いをしており、ワンポイントの飾りのようである。その下に白い脊椎骨が美しく丸まっており、籠のように皮と鰭を支えていた。

――美しい。こんなに海辺に似つかわしい水風船は初めて見た。

「はあ」

 無意識にため息が出てしまい、女性がこちらに目を向けた。しまった。そう思い、私は慌てて下を向く。いいや、これでは余計に不審者っぽいだろうか。おまけに私はカメラを持っていて、手鏡も持っている。スカートの中身を撮影しようとなど思われたら一溜まりもない。同性だが断りを入れておく。

「……す、すみません、突然人に出くわしたものですから驚いてしまって。ただ夕日を見ようとしているだけなので、ご心配なく」

 私はどうにか言葉を絞り出した。すると、女性はキョトンとした顔で立ち止まり、次に静かにほほ笑んだ。

「へえ、写真がご趣味なんですか?」

「はい、写真コンテスト用にずっと日が沈むのを待っているんです。こ、この鏡はただの小道具で……、決して怪しい用途では……」

 喋りながら舌がもつれ、ますます私は焦る。ああ、なぜそう言ってしまうんだ私。余計に怪しくなったんじゃないか。私はばつの悪い気持ちで彼女に会釈した。

「いえいえ、大丈夫ですよ。ここで写真を撮っている人なんてよく見かけるので。私もよく散歩に来るんですよ。この海岸は綺麗ですから、ね?」

 ざあっと風が吹き、彼女の髪がなびいた。同時に、水風船も揺れ、地球儀のようにこちらから見える向きがゆっくりと変わっていく。すると、私はとんでもないものを目にした。

 水風船の中には、皮・尾鰭・脊椎骨の他のパーツが何も入っていなかったのだ。本来魚の体に存在すべき頭骨や鰭上骨、内臓などが見当たらない。もしかしたら隠れているのかもれしれないが、これまで見た水風船の中身なら、彼らの「人」体と入れ替えられている生物のパーツは全て入っており、頭に近いパーツほど上に入っているのが常だった。

「は、はあ……」

 相槌ともため息ともつかぬ声を出しながら、私はこれが現実なのか、それとも知らないうちに熱中症になって見ている幻覚なのかと困惑し、手を握りしめ爪を食い込ませてみた。しかし痛みがあり、現実であることを理解する。

 どうやら、彼女の正体は人魚かもしれないらしい。



 私はつい三ヶ月ほど前から、奇妙な「水風船」が視えるようになっていた。きっかけがなんであったかはさっぱり分からないし、覚えがない。しかし、二月の夜のバイトの帰り道、バス停で最終便を待っている女性の横に黒い毛と骨とドドメ色の内臓と緑色の眼球が入った直径五十センチほどの水風船を見た時。あれが最初だった。あの時はあまりの衝撃に、思わず左手に持っていたコンビニ袋を取り落としてしまったものだ。おかげで帰宅後に食べようと買っていたプリンがグシャグシャになった。

 バイト先が中心市街地から多少離れた住宅街にあるため、その場には私とその女性しかおらず確かめようがなかったが、のちに私はそれが自分にしか見えないらしいことを理解した。

 美咲と繁華街へ出かけ、喫茶店で休憩している際に、隣のテーブルに案内された男性が水風船を浮かべていたのだ。その男は私がいるソファー席の方に座ったため、もし見えるのなら、向かいの椅子の美咲は否が応でも水風船を目にしたはずだ。しかし、彼女の顔色は全く変わらず、それどころか普段のマシンガントークを止め、私に「コイ……なんかボーッとしてね? 大丈夫かよ?」と心配気に訊いてきた。店内にいる他の人々の様子も全く変わらず、赤茶けた毛やその他の入った球を浮かべている細面の男本人も涼しい顔でメニューを眺めていた。

 ただ、しばらく過ごすうち、私もこの「視える」という自らの変化に慣れてしまったようで、最近は大した驚きが無くなってしまった。それどころか、図書館や博物館に入り浸っては動物の骨格や体内構造を学び、すれ違った人物の本性が何の動物であるか推定することを楽しんですらいる。おそらく私だけが知っている、「人々」の真実。私だけに見えている、蠱惑的ですらある奇妙な世界。この不思議な水風船の存在は、これまで味気なかった私の日常をむしろ愉快にした。



 ぼうっと海を眺める私の目に、ついにオレンジがかってきた空が見えた。今、手鏡を動かせばどこかで月が入るポイントが分かるかもしれないが、私の心はそれどころではなくなっていた。こんな経験は初めてだ。

 女性はその後、散歩を続けると言って去っていった。水風船が見えるという時点で私の世界観は相当に狂っていると思うが、こんな形で、童話やファンタジー世界の住人だと思っていた人魚の存在を(おそらくだが)知ることになるとは予想などしなかった。そうだと確定したわけではないが、これまで見たことがある魚の本性を持つ「人」の水風船とは違っていた。あんな大きさで内臓やその他の骨は小さいということはあまり無いだろうし、何よりこの目で見たのだ。

 陸上の哺乳類や両生類、爬虫類、時には虫など多くの水風船の中身を目にしてきたが、あの水風船は今まで見たどれよりも興味深く、美しい。以前に写真に収めようと試して不可能だったので、誠に残念ながら水風船を写真に残すことはできない。あの水風船を見るには、再び彼女に会うほかはないだろう。

 私はタープを畳んで背負える状態にしてから、ロケーション探しも兼ねて彼女が行った方向へと歩き始めた。まるでストーカーだが、好奇心が抑えられなかった。砂浜には足跡が残っており、どちらへ向かったかよく分かる。

 足跡を追う。足跡は海と並行に長く続いており、私はどきどきしながら歩き続けた。歩いて、歩いて、歩いて、歩く。足取りはずっとまっすぐだ。私はずっと下を見ながら歩くが、段々と日が落ちてきたのか、砂を照らす光が弱くなってきた。

 そろそろ疲れてきたなと思い、立ち止まり、水を飲む。一口でペットボトルは空になった。まずい。これではそのうち、こちらが本当に熱中症で倒れる。やめようかと思いながら、私はあと少しだけ足跡を追う。すると唐突に、ずっとまっすぐだった足跡が曲がった。

 その方向は、海に向かっていた。足跡はそのまま、波打ち際へとつながっていく。思わず、私はそちらへ駆け寄ったが、足跡はそこで途切れていた。立ち尽くす私の眼下で、残された足跡が波で消えていく。ちなみにこの海では二年前から遊泳が禁止されている。よって、普通は泳ぎに入りなどしないはずなのだが。

「本当に、人魚だったのか……?」

 私の静かな独り言は、波音によって打ち消された。



 初日は特に収穫がなく終わった。いや、本来ならば習作を何枚か撮って帰ることはできたのだろうが、今日は人魚かもしれない女性に会った衝撃と暑さによる消耗でそれどころではなくなってしまったのだ。八時半頃、ようやく帰宅した私を出迎えた美咲は、そのことを聞いて呆れた顔をした。

「なんだよー、あんなに天気も良かったのに収穫なしかーい」

「諸事情あって歩きすぎたわけ」

「とりあえず水分取れよなー?」

「うん……」

 美咲から麦茶のコップを受け取り、体を反らしながら一気に喉に流し込む。冷えた麦茶をこんなにありがたく思ったのは初めてだった。まったく、彼女の正体は結局ただの大型の魚なのか、本当に人魚なのか。その疑問と、あの水風船がどうしても頭から離れないのだ。私はコップを口から離し、顔は天井に向けたまま考える。その様子を見てか、ギターを抱えて練習を再開しようとした美咲は訝しげに目を細めた。

「なーんか、やけに疲れてない? 用意周到な小井侑里らしくねーぞ」

「あー……、まあ暑さが堪えたんだと思う。今日はちと早く出過ぎたからさ。ロケ探しと炎天下待ちぼうけのセットで危うく熱中症」

 これはあながち嘘ではないが、根本的原因としてはそうではなかった。しかし、実は人ならざる者の本性が見えていて、今日は推定人魚の女性を見かけましたなど、言えるわけがない。

「まあ今日はちゃっちゃと飯食って風呂入って寝ろや、写真家さん」

「お前は私の母さんか」

「おーう! 伊達に大学の寮暮らし時代からアンタの面倒見てるわけじゃないからさ! こういう空気のコイは、言われねーと寝食を忘れる」

「はいはい」

 物言いは蓮っ葉だし大雑把な性格だが、美咲は世話好きなやつだ。こうやって私が疲れているときには率先して世話を焼いてくれる。大学時代からの腐れ縁な付き合いで、互いに親に進路のことで親から半ば勘当された立場ゆえに同居を続けているが、私はこいつのこういう人柄が気に入っている。

 そうしてありがたくも同居人の手料理を腹に入れ、風呂場に押し込まれるがままにシャワーを浴び、私は十時には床に就いた。疲れのせいか、横になるとどっと眠気が襲ってきたが、それでも頭は彼女のことでいっぱいだった。

 どうにか再び水風船の中身を確認し、正体を突き止めることはできないか。そのためには、またあの「推定人魚さん」に会わなければならない。よし、明日以降も続けて浦泊海岸に行くとしよう。それにうまくいけば、初めて水風船持ちの知り合いを作る機会にもなるかもしれない。私にはまだそういう知り合いがいなかった。



 それから推定人魚さんを見かけたのは、二日後だった。この日までは晴れが続き、コンペに出す作品になりそうなものも撮れた。しかし、まだ納得の行く出来のものが撮れていないのと、再び水風船の中身を見るまではやめられないのとで、初日と同じ辺りを歩いているうちに念願の片方は果たされようというところまで来た。

 通りすがりに私に気が付いたとき、彼女は立ち止まって会釈し、そのまま私に話しかけてきた。

「あ、この前のカメラのお姉さん。どうですか、あれから良いお写真は撮れましたか?」

「ぼちぼちというところですね。まだ納得の行くものが撮れていないので、こうして連日来ています。もう三日目です」

「へえ、ずいぶん熱心にされてるんですね。私だって毎日は来ないというのに」

「それは言い過ぎじゃないですかね……。私は今集中的に来ているだけですから、にわか雨みたいなものですよ」

「あと、決まって夕方に来るから、夕立とも言えますね」

 彼女は得意気に右手の人差し指を立てながら言った。ふむ、夕立か。言葉を反芻しつつ、私はふとある言葉を思いつく。

「それなら貴方は、暮雨ぼうってところですか。季節関係なく夕暮れ時に来るということで」

「ほう」

 私がそう返すと、彼女は感心したような声を出し、それきり沈黙が続いた。なにかまずいことでも言ったのだろうか。そう思った矢先に、突然彼女は笑い出した。私はよく分からず、動揺するままに理由を訊く。

「ど、どうしたんですか。なにか変なこと言いましたかね……」

「ふふ、いやあ、見事に当てられちゃったなって思うと可笑しくなってしまって。そうなんです、確かに、私は季節関係なく夕方に歩きに来てますね」

 そのまま彼女は、くつくつと笑う。不思議な人だ。私はそう思いつつ、水風船をちらりと見やる。今日は既に日が沈み始めているからか、その表面は背後の日を受けて、僅かにオレンジ色に染まっている。その中でリボンのように丸まっている皮の鱗も金色に光っており、初めて見たときよりも綺麗だと感じた。――このまま角度を変えて中身を見たい。私は思うままに、ふらりと水風船の裏の方に回り込もうとする。

「あっ、行っちゃうんですか?」

 すると、彼女が笑うのを止めて、私を追おうと体ごとこちらに向いた。同時に、水風船もふい、と彼女の背の方に流れてしまう。しまった、挨拶をすれば自然だったか。自分の戦略の無さを嘆きながら、私は誤魔化しの言葉を考える。いや、まさか彼女は本性を見られていることに気づいたのか。ここはひとつ鎌をかけてみようか。

「……すみません、つい後ろの方が気になって」

「え……、ああ! 写真撮影中でしたね。お邪魔してすみません」

 彼女は申し訳なさそうに謝った。その返答は普通だ。やっぱり見えているのは私の方だけのようだが、もう少しで見えそうだったのにと歯がゆい気持ちになる。

「では私はこれで……」

 そのまま推定人魚さんは去ろうとする。いけない、これじゃあチャンスを逃してしまうではないか。会える確率はそれなりにあるとしても、もっと自然に水風船を観察させてもらいたい。それに、私は彼女本人にも興味が湧いていた。こうなったら最終手段だ。遠ざかる彼女に向かって呼びかける。

「待ってください!」

「はい?」

「あ、あの……! もし良かったら、今度またお会いしませんか? もっとお話してみたいんです。それに、もしよくここに来られるのなら、おすすめの場所とか、教えてほしいんです……」

 会ってたった二回目なのに、グイグイ行きすぎだと自分でも思った。発言して少し恥ずかしくなってしまって、顔が熱くなるのを感じた。普段ならこんなことは絶対に言わない。それでも、どうしても彼女のことを知りたかった。ぐっと堪えて返答を待つ。その時間はひどく長く感じた。私は恐る恐る顔を上げる。

 その視線の先には、涼やかに微笑んでいる推定人魚さんがいた。

「ええ、いいですよ。いつにしましょうか?」

 そうして、私は明日の夕方に彼女と会う約束を取り付けた。



「ここなんか、いかがでしょうか?」

「おおー」

 私はまた昨日と同じ時刻に浦泊海岸を訪れた。しかし今日は普段とは違った。推定人魚さんと待ち合わせして合流、そして一緒に海岸を歩いて彼女のおすすめの場所を紹介してもらうことになったのだ。

 推定人魚さんの名は、瑠璃さんというようだ。年齢は二十八歳、普段は海岸から歩いて二十分ぐらいのところにあるレストランで働いているらしい。まあ、本当は人ではないのだということを考えれば、このプロフィールは全て出まかせなのだろうが、私にとってはさほど重要な問題ではない。

 瑠璃さんに案内された場所は、一見人が立ち入らなさそうな小さな林を抜けた先にあった。目の前には、決して広くはないがゴミひとつない砂浜と岩場に飾られた、とても澄んだ海があった。

「すごい……、こんな穴場があるとは」

「場所が見つけ辛いので滅多に人は来ないんですよ。こんな時間なら、ほとんど私だけのプライベートビーチです」

 海の方へ歩きながら、瑠璃さんはいたずらっぽい笑顔を見せた。お淑やかそうに見えて、案外活発な部分もあるのだな、と思う。さらに、ここまで来るときに、彼女はサンダルを脱いでロングスカートでひょいひょいと坂を進んでいくのだから驚かされた。

「手鏡も置いてみたらどうですか?」

「ここなら月も写るかもですね」

 ファッションショーのランウェイのように海に一際長く伸びた岩場の上にしゃがむと、私は手鏡を置いた。林から一番距離があり、なおかつ海に一番近い場所のため、ベストに思える。

「よし。あとは日没まで待つだけです」

「ふふ、待ち遠しいですね」

 私はそのまま岩場に腰掛ける。この岩場はそんなに高さがなく、あと少しで海にも足が届きそうだった。瑠璃さんも隣に同じように腰かけた。

「しかし、侑里さんはどうして写真家を目指してるんですか。大学を出ているぐらいなら、就職を勧められたでしょうに」

 瑠璃さんのことを訊くに当たって、私は自分の経歴も話したのだが、瑠璃さんも当然ながら私が写真家を目指す理由が気になったようだ。その口調には今まで会った多くの年上の人間のような「どうしてそんな不安定な進路を希望するんだ」という意は込められていなかった。

「そうですね……。理由があるとすれば、試行錯誤をすることが好きだし、自分の足で探索するのが好きだから――ですかね。もっと具体的に言うなら……、デジタルカメラっていう限られた機能を持つ機械を使って、設定技術と時の運で、これだ! っていう一枚を撮る。そのための苦労が楽しいと思ったんです。あんまり上手く説明はできませんけど……」

 話しながら意外と饒舌になっている自分にびっくりする。まあこれまで幾度となく説明を要求されたことなので、前半は常套句のようなものだったが、後半については今、浮かんだことだった。自分でもよく分からない説明だったが、瑠璃さんはなんだか楽しそうに聞いていた。

「そんなに語れるのなら、きっと侑里さんに合っている道なんだと思いますよ。だって、どんなこともそれを「好き」な人が話す方が内容も楽しそうに聞こえる。今の侑里さん楽しそうですもの」

「そ、そうですか?」

「いいなあ、羨ましいですよ。私はどうにか人並みに働いて家に帰って、こうして気が向いたら歩きに来て……の繰り返しですから。なんだか同じ毎日ばっかりなので。世間の多くの人ってそうなのかもですけど」

 本性が人間でないとしても、人間の社会で暮らすというのはそういうことなのかもしれない。むしろ、野生児や狼っ子の例もあるように、社会がホモサピエンスでもそれ以外でもお構いなしに、その者を「人間」たらしめるのだろうか。人間の私がこうして一般的なレールを外れていて、推定人魚の瑠璃さんがレールに乗った生活を(多分)送っているというのは不思議な感覚だった。

「とは言え、まあ私も普段はバイト三昧ですから。今だけですよ、こんな浮世離れした生活は。いつかは永遠にものにしたいですけどねー」

「ふふ、応援してますよ」

 瑠璃さんは暖かに微笑んだ。その後ろでは水風船が相変わらず、最初に会ったときと同じような角度で浮かんでいる。どんな物理法則か知らないが、もっと風とかで不規則に回転してくれたらいいのにと思う。林を抜けるときは瑠璃さんの後ろを歩いていたが、暗さもあってよく見えなかったのだ。それに、この海辺に出たとき、ついに後ろから見ることができた中身は正面からとさして変わりがなかった。やっぱり魚の上半身パーツは見えない場所にあるか、本当にないかのどちらかだ。また、水風船の大きさもこのもどかしさに一役買っている。私はあまり背が高くはないので、上の方は高台にでも登らないと見えないのだ。生憎、登れるような岩場はここにはないようだったため、今日も謎は謎のままに終わりそうである。

 それでも、なんだか悪い気はしていなかった。自分の生き方が出会って間もない相手に肯定されたのは久しぶりであり、さらに私は瑠璃さんの人柄が気に入っていたのだ。それからも他愛のない話を続けたが、とても居心地がよく、日の入りのための待ち時間など、全く苦にならなかった。

「あ、日が沈み始めましたよ。侑里さん」

「よし、これから鏡の位置の調整に入ります。これで月と太陽とが写真に入ると完璧なんですがね」

 そして段々と水平線の先の空が濃い朱色に近づき、反対側の空が暗くなっていき、月が昇る。その時、瑠璃さんが突然「あっ」と声を出した。

「どうしたんですか!」

「侑里さん、あそこ、海に月が反射して映ってます!」

「本当だ!」

 瑠璃さんが指さす先には、水面に歪んで浮かぶ月があった。今日は上弦の月だ。満月とまでは行かないが、それなりにくっきりとした光が出ている。私はすかさずカメラを構え、シャッターを夢中で切った。これなら手鏡なんてなくったっていい。シャッタースピードや光感度を調整しながら、何枚も何枚も撮っていく。シャッターを切り、画像を一瞬だけ確認しまた設定を調整し、を繰り返すと、やっと理想の一枚が撮れた。

「やった、できました! これは絶対にコンペに出します」

「すごい、こんなのが撮れるんですね……」

 一眼レフの液晶を一緒に覗きながら、瑠璃さんは感心したようにため息をついた。そこで私は思ったより顔が近いことに気づき、思わず彼女の顔に見入る。最初から美人だとは思っていたが、この人は特に目が綺麗だ。二重だとか、目の幅が縦に大きくてぱっちりしているとかではなく、少し緑がかった茶褐色の瞳が宝石のようにキラキラして見える。

 私がじっと見ていると、視線に気が付いたらしい瑠璃さんと目が合って、どきりとした。私は顔が熱くなるのを感じたが、瑠璃さんはきょとんとした表情だ。

「どうしたんですか」

「あ、ええと、なんでもないです! それより、いい写真が撮れたのも瑠璃さんがここに案内してくれたからですよ! 本当に、ありがとうございます」

「いえいえ、そんなにかしこまらなくったっていいんですよ」

「なにかお礼をしなくちゃなってぐらいですよ……。だって私と会ったのなんてたった数日前で、今日は三回目ですよ? 初対面にも等しい相手にここまでしてもらって、なんにも無しじゃあ悪いです」

 私がこう返すと、瑠璃さんはあらあら、と困った顔をした。そしてしばらく考えたのち、私にある提案をしてきた。

「それなら、今度は侑里さんがどこか素敵な場所に連れてってくださいな。私も非日常を体験してみたいです」

「は、はい! 任せておいてください」

 


 隠れ海岸に行った日の次に会ったのは、あれから四日後だった。瑠璃さんの仕事が休みだという日を空けてもらい、駅前で待ち合わせをしてから私のお気に入りの喫茶店に行こうという予定だ。

 そういえばスマートフォンでの連絡手段さえも交換していない相手のことを思いながら、駅の東口で待つ。そもそも、相手がスマートフォンを持っているかどうかも私は知らないが、少なくとも約束はできているのだから、きっと大丈夫だ。

しっかし、これは鬱陶しいなあ。待ちながら、私は美咲にコーディネートと称して着けられた首元のチョーカーを引っ張る。普段は撮影で動き回るため、Tシャツ短パンスニーカーを貫いている私も、街に行くとなると服装に気を遣った。お洒落などにはどちらかといえば疎い方だが、瑠璃さんに会うとなれば何となく気が抜けない気がして、今日は普段ならば付けないリップまでしている。せめて並んで歩くのに恥ずかしくないようにと思ってのことだが、美咲に変じゃないかと何度聞いたことだろう。彼女は「いいじゃん」と「可愛いー」を連呼していたのだが。

 駅ビルのガラスをちらりと見やる。すると、長いスカートを履いた女性と大きな丸のシルエットが映っており、それは段々と大きくなっていく。前を向くと、瑠璃さんが立っていた。

「お待たせしちゃいましたかね」

 今日の彼女の服装は、白い半袖のブラウスに、ネイビーに細かい白の水玉模様のスカートを合わせていた。腰にはスカートと同じ素材のリボンが巻かれており、落ち着いた上品な組み合わせは彼女の美貌を一層際立たせていた。目元には僅かにグリーンのアイシャドウが塗られており、よりトーンの暗い瞳の色がよりはっきりして見える。

「……瑠璃さん、綺麗ですね」

「あら……、ふふ、褒められちゃいました。なんだか恥ずかしいです」

 私が思わず感想を述べると。瑠璃さんは照れくさそうに人差し指で頬をかいた。その仕草に今度は少女のような可愛らしさを見出す。綺麗で可愛いなんて反則じゃないか。どうしようもない感情が沸き起こる。静まれ、静まるんだ。私は平静を装おうとする。

「じゃ、じゃあそろそろ目的地に行きましょうか。この近くのアーケード街にあるんです」

「はい! 楽しみだなあ」

 そうして私が彼女を案内したのは、老舗喫茶店のチャーリーだ。看板にはかの有名なちょび髭の俳優の顔が書かれているが、メジャーなファミリーネームの方でなく、割とありふれたファーストネームの方を付けたのはなぜなのだろう。いつかマスターに理由を訊こうと思っている。

「こんにちはー」

「おう、小井さんじゃないか。いらっしゃい」

 夏用の黒いベストを身につけたマスターが厨房のカウンター越しに出迎えてくれた。彼は四十年ほど前からずっとここでチャーリーを切り盛りしている。その長い歴史もあって、店の壁にはかつての中高生が残した相合傘やスマイリーマークなどの落書きが満載だ。今となっては書き足すスペースもないので、各テーブルの上に大学ノートが置かれている。

「その人は? いつもの派手な髪のお姉ちゃんじゃない人を連れてくるなんて珍しいね」

「最近会ったんです」

「へえー、随分な別嬪さんを連れてきたもんだ。おっと、最近は女性の容姿に関してコメントするのは失礼なんだっけね。すまんすまん」

「まあ私も思いましたけどねー」

 そんなやり取りをしながら、私はいつもの席に座る。レトロな机椅子の横の壁には、ボッティチェリのヴィーナスのジグソーパズルがかけられている。私はメニューを瑠璃さんに渡す。

「さ、瑠璃さん。お先に選んでくださいな」

「わあ、色々なメニューがあるんですね」

「ここは昔からパフェが有名なんです。ホットケーキとか餡蜜も美味しいですよ」

「迷うなあ」

 しばらく悩んだあと、私はプリン餡蜜とアイスコーヒーを、瑠璃さんはフルーツパフェとレモン入りのアイスティーを注文した。フルーツパフェはこの店の看板メニューだ。それに、実は初見のお客が驚くサプライズもついている。

「はい、お待ちどう」

程なくして、注文した品が運ばれてきた。それを見た瑠璃さんは、思わずテーブルから身を引いた。

「わっ、侑里さん! これはなんですか」

「チャーリー名物、花火付きフルーツパフェです」

 フルーツパフェには小さな花火が付いており、パチパチとスパークを放っていた。マスターお気に入りの昔からのサプライズらしい。花火は短いため、すぐに燃え尽きる。

「はあぁ、びっくりしちゃいました。でも綺麗ですね」

「でしょう。これが見たくて来る人も時々いるぐらいです」

 そうして二人で甘いものを食べながら、話をした。私のお節介な同居人のことや、瑠璃さんの職場に来た客の面白い話や、私がこれまでに撮った写真を見せることもあった。中でも、瑠璃さんが興味を持ったのは水族館で撮った珍しい熱帯魚たちの写真で、特にそこから話が発展したわけではないのだが、彼女は一眼レフに保存された写真を次々に眺めていた。何か思うところがあったのだろうか。

その間、私はこっそり水風船を見やっていた。狭い店内ではイミテーションの木に押しのけられ、いつもよりも高い位置に浮かんでいる。店のドアに入るときは、ドア枠に引っかかるように一瞬止まってから、ぷよんと歪んだ。それからここに至るまで様々なものにぶつかっていたが、店内のものには何も影響がない。したがって、私の目に物理法則が作用しているように見えるだけで、実際には物理的質量はないのだろうと考えた。



 チャーリーを出た後、私たちは近くにある小洒落た雑貨店に入った。ここで自分用に物を購入することはあまりないが、人へのプレゼント探しや比較的安価な紅茶やコーヒーを買いに時々訪れている店だ。普段あまり駅の方に来ないらしい瑠璃さんは、様々な商品を楽しげに見ていた。

「侑里さん、これって何ですかね」

 瑠璃さんが指さしたのは銀色をした、やけに短いスプーンだ。これは確か雑誌で見たことがある。

「これはアイスクリーム専用のスプーンですね。アルミでできているから手の熱がよく伝わって、アイスがちょっと溶けてなめらかになるとか」

「へえ、ではこれは?」

「これはソムリエナイフですね。スクリューが長い方がコルクを上手く抜けるとか」

「じゃあこれは?」

「おろし金のようですが、やさいしりしりという沖縄の調理道具です。ささがきが簡単に作れる便利グッズです」

「やさいしりしり」

「やさいしりしりです」

 とぼけた感じの語感になんだか可笑しくなって、二人揃ってくつくつと笑う。

「いいなあ、これうちの厨房にも欲しいです」

「店に経費で買わせましょう、経費で」

「というか、侑里さん何でも知ってますね」

「かつてはプロダクトデザインにも興味があったので……。色々と勉強していたんですよ」

「まるで道具博士ですね」

 そんな話をしながら店の中を進んでいると、視界の端に薄い青色が入った。それは僅かに透ける素材で作られたショールだった。私の目には素材が何なのかは分からないが、ほとんど白に近い青から、両端に向かって濃くなっていくグラデーションが綺麗だ。それに、瑠璃さんに似合いそうだと思った。

「瑠璃さん瑠璃さん」

 見てください、と見本で飾られているショールを指さす。

「これ似合いそうですよ、ちょっと肩に掛けてみてください」

「こうですか?」

 ショールを私から受け取った瑠璃さんは、長方形のそれをふわりと羽織った。ほぼモノトーンに近かった服装に、一気に様々な青が加わる。

「……良い」

「そうですか?」

 うんうん、と私は腕組みして頷く。なんとなく、今朝の美咲もこういう気分だったのだろうかと思った。相手は自分の姿が見えないのでピンと来ていない様子だが、こちらにはとても魅力的に見えている。こういう感覚ってなかなか良いな。しかし、写真に収めたいぐらいの完成度だ。このショールはいくらぐらいするのだろう。私は端に紐づけされた値札を手に取る。

「うわ、七千円もするのか」

「肌触りもいいですし、やっぱりそれぐらいしますよねえ」

「くそー、私がお金持ちなら今すぐ瑠璃さんにこれをプレゼントしたいぐらいなのに」

 これは本音だった。それぐらいあまりに似合っていたのだ。ぐぬぬ、と私が歯ぎしりしていると、瑠璃さんはそっと肩に掛けたショールを外した。

「……私、これ買って帰っちゃおうかな」

「えっ」

「侑里さんに褒めていただいたなら良いかなって。それに、私ここに来るのって初めてで。なんか記念に欲しくなっちゃいました」

「大丈夫ですか? 私、押し売りしたみたいになってません?」

「大丈夫です! お金ならこういう時のために貯めてあるので」

 あっけらかんと言うと、瑠璃さんは見本と同じショールを陳列棚から取って、あちこちにぶつかって細かくバウンドする水風船を従えながら、レジに向かっていく。なんだか(年齢はあくまで公称だが)大人の余裕を見た気がする。フリーターの我が身が恨めしい。

 ちょっと苦々しい気持ちでレジの方から視線を逸らす。すると視界にちょうどアクセサリーコーナーが入った。ここには様々な作家の作品が置かれている。中高生が変えそうな値段のものもあれば、一点物で五桁の値段になるものもある。その中になんとなく目を魅かれるものがあった。

 ――これだ。台紙の裏に貼られた値札を見ても、私が買える程度でなおかつ安すぎないということが分かった。瑠璃さんに気づかれないよう、わざと食品コーナーでちょっと高級な煎茶を手に取りつつ、もう一つのレジに行く。

瑠璃さんは、ショールが袋詰めされるのを静かに待っているようだった。その間に素早く会計を済ます。そして私は商品の入った小さな紙袋を受け取って、出入口の方で待つことにした。紙袋を受け取った瑠璃さんもこちらに歩いてくる。

「良い買い物でした。あ、侑里さんもなにか買われたんですか?」

「お高めのお茶を少々……。記念を噛みしめて飲みます」

「ふふ、お茶は噛めませんよ」

「ひ、比喩的表現です!」

 そう言って、私はこっそり買ったプレゼントを隠しておくことにした。これを渡すのは、最後、別れる前だ。私の頭には、ある考えが浮かんでいたのだ。これはそのための、大切な担保である(言い方は悪いが)。

 雑貨店を後にして、私たちは駅ビルで服などを見て回ったが、お別れの時間は案外すぐに来てしまった。地方で鉄道のダイヤも多くはないため、車を持っていない瑠璃さんはそろそろ帰らなくてはならないのだ。改札前で別れる時になって、私は「そうだ」と言い、先ほど用意したプレゼントを鞄から取り出した。煎茶の方は宣言通り自分用なので鞄にしまう。

「瑠璃さん、これどうぞ。ちょっと開けてみてください」

「えっ、そんな、いいんですか? なんだろう……」

 そして瑠璃さんの手の中に現れたのは、アクリル製の雫型をしたイヤリングだ。これもまた青系の色で、ソーダ味のアイスのような明るい水色の板に、真珠のような透明の層が被せてある。波のようで綺麗だし、あのショールに合うだろうなと思ってのチョイスだ。

「素敵……。でもなんでこれを私に?」

「そうですね……、この前の海でのお礼と、ちょっとしたお願いへの前金ってところでしょうか」

「お願い。と言いますと?」

 瑠璃さんの目がじっと私を捉える。やだなあ、そんな目で見つめられると言い辛くなってしまう。でもこれを言わなきゃ始まらない。

「あの、瑠璃さん! 私の写真の……モデルになってくれませんか?」

 これはコンペのためではなく、もはや私自身の勝手な欲そのものだった。水風船は写真には写らないが、そんなことはどうでもよかった。とにかくこの人の姿を残しておきたい、絵にしてしまいたい。それだけの思いに駆られていた。

 瑠璃さんは私の唐突なお願いに頷いてくれた。

「断る理由もないですし…、いいですよ。どこで撮りますか?」

「あの海岸で、今日のショールも持って、です。いつも通り夕暮れ時に撮りましょう」

「ええ、分かりました。私、写真に撮られるのって初めてかもしれません」

「そうだったんですか! じゃあ念を入れて綺麗に撮ってみせます」

「せっかくなので、侑里さんから頂いたイヤリングも着けてきちゃおうっと」

「最高です」

 私の気分はここで小躍りしたいぐらいに高揚した。楽しみで仕方がない。そんなところで、もうすぐ列車が来ることを告げるメロディが鳴る。

「おっと、そろそろですね。今日は楽しかったです。では次は二日後に会いましょう。浦泊で待ってますから」

 そう言って微笑むと、侑里さんはプラットホームの方に消えていった。



 私が帰宅すると、やけにニヤニヤしながら、美咲が出迎えた。右手にはお気に入りのハイネケンの缶がある。彼女は完全に酔っ払いのテンションで私がドアを閉めるなり、肩を組んでマシンガントークを始めた。

「おーう、コイちゃん。珍しくお洒落をして出掛けて行くからと思えば……、いったいあんな美人にどこで会ったんだー! あの人誰? 誰! モデルさんとか?」

「げ、見てたのか……」

「うんー、バンド練帰りに。一緒に服見てただろー。ユピテルでビール買いながらチラ見しちゃったんだぞ。いいなーいいなーアタシも混ざりたかったー! で、誰なわけ?」

「あの人は……、瑠璃さんって言って、浦泊でよく会う人。ただの一般人だよ」

「そっかー。モデルさんではないんだな。あんな美人が獲鳥市にいるとは驚きじゃねーの」

「私もそう思う。でも今度、写真の被写体になってもらう約束した」

「えー! 最高じゃん! それっていついつ? 暇だったらアタシも便乗させてもらお」

「息が酒臭い……。来週の火曜日」

「火曜日かーッ! ざんねーん、この日は夜にライブ入れてるわー」

 美咲は大袈裟に廊下をフラフラ進むと、共用の居間にドスンと座った。そのまま座卓に突っ伏してしまう。

「ん~……」

「もう眠くなってんじゃん」

「コイー、お布団かけてー」

「はいはい」

 座椅子を枕にして寝ようとする美咲に、私は甲斐甲斐しく昼寝用のタオルケットをかけてやる。一昔前のずんぐりした電気ネズミの絵が書かれたそれに、美咲はモソモソとくるまった。

「おやすみ」

 そのまま私は荷物を置いて、自分用の夕飯を簡単に作ろうとする。冷蔵庫には何があっただろうか。

「あー」

「どうした?」

 背後から美咲の声がかかった。

「そういえば、確か天気予報で火曜はあっちの方降るかもって言ってたー。確率は低かったけどー」

 それならば少し注意が必要だな。後でネットで詳しい予報を見ておこう。私は冷蔵庫の中に魚肉ソーセージと卵があるのを見て、今日はチャーハンと決めた。



 私は車で浦泊海岸に向かっていた。カーステレオの時刻は十七時十四分。家で出発したころは大粒の雨がフロントガラスを叩いていたが、高架道路を進んでいる間にそれも止んだ。少し天候を心配していたが、これならしばらくは大丈夫だろうかと思う。気を付けるべきことがあるとしたら、濡れた岩場だろう。目当ての隠れ海岸には、落ちてそのまま溺れるような深い瀬は無いが、もしカメラごと落ちたらそれはとても困る。大学一回生の時に購入したミラーレスは低グレードなので防水機能など付いていない。まあ正直な話、より大切なのはカメラに挿しているSDカードの方であるのだが。

 高架道路を抜け、しばらく住宅街を走ると、海岸が見えてくる。私は海岸に下りる階段の向かいの通りにある駐車場に車を停め、カメラをたすき掛けにした。そして歩道の方に出たのだが、これをずっと行った先には、観光客向けの案内所や瑠璃さんが働いているだろうレストランなどがある。いつかレストランの方にも行ってみたいな、と思いながら横断歩道の方に歩いていると、向かいの歩道を日傘を差した女性が歩いてくるのが小さく見えた。今日も丈の長い黒のワンピース、それと横に浮かんだ大きな水風船から、確実に瑠璃さんだと分かる。顔がはっきり見える程度の距離まで近づいたところで、私は手を振った。気づいたらしい瑠璃さんは、片手を挙げた。肩にはこの前のショール、黒髪の隙間からは私がプレゼントしたイヤリングが覗いている。私は横断歩道を急いで渡った。

「こんにちは、いやこんばんはの時間ですかね」

「こんばんは侑里さん。それでは行きましょうか」

 すぐに例の林に向かい、私は木々の間に入ろうとした。すると、手で除けた枝から雨水が落ちてきたので、慌てて手を引っ込める。

「あらら、これは傘を差しながら行った方が良さそうですね。あと、地面も濡れているので、このさい靴も脱いで行きましょう」

 そう言うと、瑠璃さんはすぐにサンダルを脱ぎだした。慌てて、私も同じことをする。私が裸足になったのを確認すると、瑠璃さんは自分のサンダルを渡してきた。

「ちょっとすみませんが、持っていてくれますか。私は傘を差すので侑里さんも入ってください」

「あ、はい。失礼します……」

 言われるままに、サンダル二足を抱え、瑠璃さんの右横に入る。水風船はもとより傘には入らないので、私の背後を浮かんでついてきた。そして林を進んでいく。快晴とまでは行かないが、青く澄み渡っている空が葉の間から見える。この程度の明るさがあれば、夕日が出るころには綺麗な影が出るようになるだろう。

 そして林を抜けていくと、あの隠れ海岸を目にすることになった。相変わらず、ここには私たち以外、人間も人外もいない。絶好のシチュエーションだ。私はサンダルを地面に置くと、カメラをポーチから取り出した。

「さあ、早速始めましょう。まずは傘なしの状態で浜辺を歩いてください」

 私はそれから何枚も何枚も、瑠璃さんの写真を撮った。歩いている姿を、海を眺めている横顔を、風になびくショールを纏って波打ち際に佇んでいる姿を、日傘を傾けてアンニュイに微笑む顔を――どれを切り取っても、そこらのストリートスナップなんか目じゃないぐらいに様になった。それでも、彼女を写していて一番綺麗に感じたのは、気取ったポーズではなく、何気ない自然な立ち姿や表情だった。私も元々、人物を撮る場合は指定された表情やポーズから絵を作るよりも、自然な状態を上手く写して絵にすることを好んでいた。撮られた自分の姿を見た瑠璃さんは何だか驚いた様子だった。

「すごい、私はこんな風に見えてるんですね。自分が歩く姿とかを見るのって新鮮な感じです」

「私が最初に瑠璃さんを見たときの印象そのまんまです。こう、超自然的なゾクゾクする感じがあったんですよ」

「……それって、褒めてるんですか?」

「も、もちろんですよ!」

 そのゾクゾクする美しさ、というのには瑠璃さんの姿だけでなく、本性の入った水風船のことも含まれていた。まあこれは私だけの秘密なのだが。時間が進み、いよいよ橙に染まってきた夕日を受けて、瑠璃さんの白い頬がほんのりと赤く染まっている。背後の水風船も照らされて、青い海との色彩の差が綺麗だ。

「……そうか、海か」

「うん?」

「瑠璃さん、今度はあの岩場の方に行ってみましょう。くれぐれも足場には気を付けて……です」

「はい、かしこまりました」

 私たちは、あのランウェイのように伸びた岩場の方に歩いていった。長い岩場の上を歩いている姿も、私はカメラに収めていく。一瞬だけプレビューで表示される写真を見て、これは今日撮った中で一番いいものが出来上がるぞ、と思った。

 そして岩場の突き当たりまで来て、瑠璃さんはゆっくりとこちらを振り返った。風が吹き、青いショールがふわりと靡く。その瞬間、濃い色の岩礁に空のような色に染まった影が落ち、私は夢中でシャッターを切った。

「そうだ、瑠璃さん。ちょっと私と位置を入れ替えてみましょうか」

 今度は私の方が岩場の突き当たりの方に立つ。こちら側からだと、林、砂浜、空が背景になった。背景の色は多くなったが、その中でも瑠璃さんの存在感は負けることがない。良い感じだ。

 自分の立ち位置も調整しながら、様々なアングルで彼女を撮る。そうしていると、突如として、デジタルファインダーに映る景色が変わった。

「え?」

 見えたのは、オレンジの空、雲、そして無数の細かい泡だった。

 ――しまった、足を滑らせたようだ。突然のことで頭がパニックになる。水深はどれくらいだっけ、カメラの中のデータは無事に救出できるだろうか、無様だなぁ小井侑里、それより息は? それが頭に浮かんだときにはもう遅かった。無意識のうちに海水を飲んでしまっていたようだ。

 苦しい、と思ったところで、目の前にまた、細かい泡がたくさん見えた。その向こうに見えたのは瑠璃さんだった。なりふり構わず私を助けに飛び込んできてくれたんだ。沈みそうになっている私に瑠璃さんの腕が伸ばされ、私の手を掴んだ。そして、ぐっと引き寄せられて、抱きしめられる。ああ、水中だけど暖かいなあ。私はそう思いながら思わず目を閉じかけたが、そうする直前に、ふと目の前に何かが見えるのに気づいた。

 それは、着物の帯のように丸まった、鈍く光る鱗に覆われた魚の皮だった。あの水風船は水の中で屈折率がゼロになって見えなくなり、今では中身が至近距離でくっきりと見えた。皮、骨、尾鰭。それ以外には何も入っていない。瑠璃さんは正真正銘の人魚だったのだ。これが分かったなら、もう死んでもいいかな。とさえ思ってしまった。

 それにしても、中身だけでも綺麗なものだ。私はぼんやりして瑠璃さんに抱きしめられたまま、近くにあった尾鰭に手を伸ばした。手が触れる。

 次の瞬間、私はごぽん、という水音と共に、急激な力で海面へと押し上げられた。

「……ぷはっ! はぁ、はあ……」

 肺がやっと与えられた酸素を求めて、必死で呼吸を繰り返す。そして意識がはっきりしてきて、さっきまで自分の首にしっかりと巻き付けられていた腕の間隔が無いことに気が付く。そうだ、瑠璃さんは? 瑠璃さんはどこに行ったんだ?

 まだ息が苦しかったが、私はそれを我慢して、再び水の中に潜った。そして浸透圧がきついのをこらえて、両目を開ける。ぼんやりと霞んだ視界が、段々とクリアーになっていく。

 見わたすかぎり見えた海の中には、もうすでに誰の姿もなかった。ただ、青く澄んだ世界だけが、広がっていた。

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