第2話 果たせなかった思い 

 多恵は部屋のドアをそっと開けた。

 そこには、囲炉裏が残る土間と、農機具が置かれた玄関があった。

 戸を開けると、目の前にはジャガイモや大根を植えた畑が広がり、畑の向こうからは、隣の家で飼っている牛の鳴き声が聞こえてきた。


「懐かしいなあ……」


 久し振りに帰ってきた実家を見て、多恵はしばらくの間思い出に耽っていた。

 その時、バイクに乗った少年が、エンジン音を上げながら迫ってきた。

 少年はバイクを止め、ヘルメットを上げると、多恵の顔を見て微笑んだ。


「信雄?」


 多恵は、目の前にいる少年を見て、手に口を当てて驚いた。


「なんだよ姉ちゃん、まるで久しぶりにあったかのような顔して」

「だって、本当に久し振りだもん」

「はあ?何言ってんの?俺たち姉弟だろ?」

「あ、そ、そうだったよね」

「変なの」


 多恵は、驚きを隠すかのように笑ってごまかした。

 多恵の弟・信雄のぶおは、この頃はまだ高校生だった。

 信雄は社会人になり上京した直後、バイク事故に遭いこの世を去っていたので、まさかここで再会できるとは夢にも思わなかった。


「ところで姉ちゃん、畑の草刈りは終わったのかい?母ちゃんからも言われただろう?」

「そ、そうだっけ?」

「朝ごはんの時に言われただろ?その後は、豆の皮むきもやっとけよって。父ちゃんも母ちゃんも、今日は農協の旅行があるからお前らだけでやれって言ってたじゃないか」

「ごめん、何一つやってないや」


 すると信雄はため息をつき、

「ちゃんとやっておかないと後で怒られるぞ!俺もこれからやるから、早く準備しろよ」

 と言うと、そそくさと自分の部屋の中に戻っていった。

 多恵は、とりあえず物置から鎌を取り出すと、畑の周りの草刈りを始めた。


 その時、多恵と同じ位の歳と思われる若い男性が、砂利道を通って家の敷地に入って来たのが目に入った。

 男性は肩に掛かる位の長い髪を七三分けにし、高価そうなジャケットと黒の細身のジーンズを着こなし、この田舎に似つかわしくない垢抜けた雰囲気があった。

 男性は不安そうな表情で、しばらくの間、庭の辺りをうろついていた。


「誰?私の家に用があるのかな?」


 多恵は草刈りの手を止めて、男性に近寄ろうとした。

 男性の手には、チケットらしきものが二枚握りしめられていた。


「あれ?まさかあの男性……仁平?」


 男性は当時、多恵が勤めていた縫製工場の同僚・斎藤仁平さいとう じんぺいだった。

 特徴的な深い彫のある顔は、多恵も良く覚えていた。


 しばらくすると、仁平はため息をつき、多恵の家に背中を向けてとぼとぼと歩き出した。


「仁平、私に何か用があったんじゃ?」


 多恵は、慌てて仁平を追いかけた。


「仁平!仁平!何しに来たの?」


 すると、仁平は多恵の方を振り返った。


「多恵……!まさかお前、忘れてるのか?」

「はあ?」

「今日はこの町にグループサウンズのオーケーズが来るんだよ。今日はお前の誕生日だし、お前はオーケーズ好きだって言うから、一緒に見に行こうって約束したよな?」


 仁平が持っていたのは、オーケーズのコンサートのチケットだった。しかし、いくら約束したとは言え、親の言いつけを中途半端にしたまま出かけることに、多恵は強い罪悪感を感じた。

 どうしようか悩んでいたその時、突然、多恵の頭の中に当時の思い出が怒涛のように蘇ってきた。


 当時、仁平と多恵はひそかに付き合っていた。

 仁平の実家は明治時代から続く商家であり、両親は貧しい農家の娘である多恵を交際相手として認めていなかった。

 二人は双方の実家に隠れ、仕事帰りに一緒に食事をするなどして、少しずつ愛を育んでいた。

 このコンサートは、仁平から多恵への誕生日プレゼントであり、多恵はこの日が来るをずっと心待ちにしていた。

 しかし、当時の多恵は、親との約束を守らず、二度と仁平とデートに行かせてもらえなくなるのが怖くて、結局コンサートに行く約束を断ってしまった。

 その後仁平は、多恵と再びデートすることもないまま、仕事の同僚である礼子れいこと結ばれた。

 多恵は、親の紹介した農協職員の健三けんぞうとお見合いし、結婚した。

 健三との間に守が生まれたが、見合い結婚で元々気持ちの通じ合わなかった二人の結婚生活は長続きせず、守が幼い頃に別れてしまった。

 あの時、どうして仁平と一緒にコンサートに行かなかったのか?70歳を迎えた今も、多恵の中には拭いきれない後悔が残っていた。

 だからこそ多恵は、戻りたい過去の一日として、この日を選んだのだ。


「仁平、待って!私、今からコンサートに行く準備して来るから」


 多恵は慌てて仁平の手を掴み、一人でコンサートに行くのを引き留めようとした。


「……だったら、ちゃんと着替えて来いよ。そんな汚れた格好じゃ、浮くぞ」


 仁平は多恵の着ていたポロシャツをつまむと、シャツに付いた泥がボロボロと剥がれ落ちた。


「そ……そうだね。ハハハ」


 多恵は自分の服を見ながら苦笑いすると、慌てて家の中に駆け込んでいった。


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