第10話 天使のように
「それで、何処へ行っていたのです」
アグノティタはカウチに背をあずけた。
長く体を起こしているのに疲れたのだ。ただでさえ今日は疲れている。
「店の名前はわかりません。ネブラ叔父様が連れて行ってくれました」
「ネブラ叔父様が?」
「はい」
サフィラスは天使のように愛らしい顔でニコニコとうなずいた。
(怒られているというのに、この子は何がそんなに嬉しいのかしら?)
アグノティタは呆れた。
(それとも、そんなに楽しいところへ行ってきたのかしら?)
だとしたら、一緒に行きたかったと思った。楽しいことをしている時のサフィラスは、本当に可愛いのだ。
「楽しかったですか?」
「いいえ、ちっとも。ネブラ叔父様が冒険だと言ったのです。でも冒険なんてひとつもありませんでした。車で食堂みたいなところへ行って、ご飯を食べただけです。叔父様はお酒を呑んでいました」
「あなたは呑んでいないでしょうね?」
「もちろんです。そんなことをしたら姉様に叱られます」
アグノティタはため息をついた。
「私に怒られるとか怒られないとか、そんなことは関係ありません。してはならぬことを、してはならぬのです」
「はい。勿論承知しております」
サフィラスは微笑んだまま、両手を後ろに組んでうなずいた。
(まったく、この子は……)
アグノティタは心配して損をしたと思った。
アグノティタは、披露宴の途中で姿を消したサフィラスをずっと探していたのだ。
主賓なので、何度も抜け出すことは許されない。
しかし、傷ついた顔をして控え室を去ったサフィラスの顔が忘れられず、何度もサフィラスを探しに出た。
そして頼んでいた従者からサフィラスが戻ったと聞き、急いで抜け出したのだ。
ちょうど宴もたけなわになり、主賓を置き去りに盛り上がってきたところだ。今なら抜け出したところで、誰も気付かないだろう。
そう思い、必死に抜け出してきたというのに──
怒られている時に、もじもじするのは幼い頃からの癖だ。
ちっとも治っていないので、幼い頃の姿と重なり、思わず笑ってしまった。
「外の料理に興味があったのですか?」
アグノティタに聞かれ、サフィラスは困った。別にそういうわけではないからだ。
しかしそれなら何故ネブラに付いて行ったかと聞かれると困る。
皆に祝福されるアグノティタを見るのが辛くなったなどと、答えられない。
「はい、そうです」
サフィラスは満面の笑みで答えた。
「サフィラス。王宮で出される料理を食べるのは、王族としての義務のひとつです。良いルヅラを作る為に必要なことです」
「はい、わかっています」
「出された料理は全て食べなければなりません。でも、それを食べた上でなら、何を食べてもかまいません」
サフィラスはアグノティタの言いたいことがわからず、首をかしげた。
「城の中でです。城の中ででしたら、どんな料理でも食べさせてあげましょう。どんな大衆的な料理であっても」
「はぁ……」
「希望があるならおっしゃいなさい。厨房に話をつけましょう」
(うーん。困ったなぁ。食べたいものなんて特にないのに……)
サフィラスは少し考えたが、しばらくして名案が浮かんだ。
「そうだ! 姉様は、どんな料理が好きですか?」
「わたくしですか?」
「はい!」
アグノティタの眉間に皺がよる。
「わたくしの食べたい物ではありません」
「どのような料理があるのか知らないのです。希望の出しようがありません」
アグノティタの眉間から、皺が消える。
「そういえば……そうですね」
「じつを言うと、外の料理、あまり美味しくありませんでした。だからどんな物が美味しいか、教えて下さい!」
アグノティタはしばし考えるそぶりをみせた。
「わたくしは甘い物が好きです。でもサフィラスは男の子ですから、お肉の方が良いかしら?」
「甘い物ですか!」
アグノティタと好きな料理の話をするのは初めてだ。
好きな人の好みを知れるのは、大変楽しい。
しかし、ふと気付く。
王宮の料理はどれも不味くて、食事の時間はいつも拷問のようだった。
「姉様は、どこで甘い物など食べたのですか?」
アグノティタは、小さな声で「うっ!」と言った。
「両方用意させましょう。きっと気に入りますよ」
アグノティタはにっこり微笑んだ。
それだけで、サフィラスは天にも昇るほど嬉しくなった。
「でも今日はもう遅いですからね。また今度です」
「はい。姉様」
最後にアグノティタは釘を刺すように言った。
「勝手に城の外へ出てはいけませんよ。例え他の王族が一緒でもです。城の外は、あなたの知らない危険で溢れているのですから」
アグノティタはカウチから起き上がると、サフィラスの額にキスをした。
「おやすみさない、サフィラス」
サフィラスがうっとりと見上げる。
「おやすみなさい、姉様」
サフィラスはいつまでも額の余韻に浸り続けた。
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