第2話 アグノティタの寝室
「姉様! アグノティタ姉様!」
晩餐の間に現れたアグノティタを見て、サフィラスはすぐさま駆け寄った。
「サフィラス。いつまで経っても甘ん坊ですね」
アグノティタに抱きつき、サフィラスが笑う。
「だって、久しぶりです」
アグノティタが晩餐の間に現れるのは、久しぶりのことだった。体調を崩し、ベッドから起き上がれぬ日々が続いていたからだ。
「部屋に会いに来ていたではありませんか」
「でもずっと寝ていたでしょう。ベッドに寝ていたら、抱きつけません」
「まぁ。本当にこの子は……」
「もう起きて大丈夫ですか?」
「ええ」
抱きしめる腕に力をこめ、甘い匂いを吸い込む。
香水をつけている訳でも、化粧をしている訳でもないのに、アグノティタからはいつも甘い匂いがする。サフィラスはこの匂いが大好きだ。
体から腕を離し、手を握る。テーブルまで進み、椅子に座らせる。それからサフィラスもアグノティタの隣に座った。
すぐさま給仕が来て、料理を並べる。
食前の祈りを捧げ終えると、アグノティタはそっと注意した。
「残してはいけませんよ」
サフィラスの顔が嫌そうに歪む。
「はぁい」
しぶしぶフォークを手に取ると、海藻サラダを口に入れる。
テーブルの上には、3つの皿が並んでいる。
ひとつはレバーパテと、ほうれん草のソテー。もうひとつはイワシのマリネと、海藻のサラダ。最後は青菜のクルミ和えだ。
この中でサフィラスが好きなのは、海藻サラダだけだ。
中央に置いてあるパン籠から、ライ麦のパンを取る。
「パンを食べてもいいですが、他のものもちゃんと食べなさい」
アグノティタが少し怖い顔をする。
「わかってます」
「あなたは、ただでさえ小さいのだから」
サフィラスはレバーパテをフォークでつついた。これが1番嫌いなのだ。
サフィラスは晩餐の間を見渡した。
全ての王族が集っている。
人数はそれほど多くない。皆、白に近い金髪に、紅い瞳をしている。
一様に小柄で、顔色が悪く、覇気のない顔だ。
各々好きな場所に席を取り、同じメニューを食べている。
サフィラスは小柄な王族の中でも、特に小柄だった。身長は低く体重も軽い。9歳になるというのに、少年というより幼子のようだ。
レバーパテを口の中に放り込み、噛まずに飲み込む。すぐさま水で口を漱ぐ。
「お利口でした」
アグノティタが微笑む。この微笑みを見る為に食べていると言っても過言ではない。アグノティタがいない日は、ほとんど残している。
サフィラスは皿が空になるまで格闘した。
食事が終わり、アグノティタは自室へ戻った。サフィラスも自室に入る。
シャワーを浴び、眠る準備を整える。しかしベッドに入っても、サフィラスは眠ることが出来なかった。
サフィラスたちカルディア王家には秘密がある。
血液がルヅラに変わることだ。
ルズラは金や銀と同様に、貨幣として用いられる。展延性が高く装飾品や美術工芸品としても利用される。
血のように紅い色をしていることと、希少価値が高すぎることから『悪魔の血』の異名を持つが、本当に血液から出来ていることは、王族だけの絶対の秘密だ。
ルヅラに変わる血を守る為、王族は近親婚を繰り返す。両親のうち、どちらかがルヅラに変わる血を持たない場合、子どもの血液もルヅラに変わらないからだ。
太古の昔から、ルヅラはカルディア王朝の財政を支えてきた。
王家はひとりでも多くルヅラに変わる血を持つ子を増やす為、成人を迎えるとすぐに結婚する。成人は15歳だ。
アグノティタは明日、15歳になる。
明日になると、公式に兄イーオンとの婚約が発表され、数ヶ月後には婚姻の儀が行われるだろう。
サフィラスの胸はざわつき、締め付けられた。
言うなら今しかない。
今日を逃すと、婚約が発表されてしまう。
頭の中をそればかりが駆け巡る。
ついにサフィラスはベッドから起き上がった。
部屋から抜け出し、薄暗い廊下を進む。
アグノティタの部屋は、サフィラスの部屋からそう遠くない。
ノックをすると、アグノティタが返事をした。
サフィラスがこの部屋を訪れることが出来るのは、今日が最後だろう。
成人を迎えると、婚約者や配偶者以外の異性の立ち入りは禁止される。
例えそれが姉弟であっても、9歳の少年であってもだ。
サフィラスは扉を開けた。部屋の中には甘い匂いが充満している。
(これは、何の匂いだろう……)
不思議に思いつつも、胸いっぱいに吸い込む。
「サフィラス、どうしました?」
アグノティタはドレッサーの前に腰掛けていた。ゆっくりと丁寧に髪を梳かしている。
鏡ごしに目が合う。
白い肌によく似合う、薄いピンクのナイトウェアを着ている。
晩餐の時に着ていたドレスも綺麗だったが、アグノティタはどんな格好をしていても美しい。
サフィラスはそう思った。
「姉様……。本当に、イーオンと結婚するつもりですか?」
「ええ。それが王家の勤めですもの」
「でもイーオンは、姉様のことを愛していないよ?」
櫛を持つ手が止まる。
アグノティタは櫛を置き振り返った。青白く痩せた顔に、大きな瞳だけが輝いている。
その瞳は驚くほど深く澄んだ紅色だ。
「王家の結婚に、愛など必要ないのです」
アグノティタはきっぱりと言った。
サフィラスはアグノティタを見つめた。
愛が必要ないのなら、自分のこの感情は何なのだろう。何の為に、このような気持ちが生まれるのだろう。
「でも姉様。姉様もイーオンのこと、愛していないでしょう?」
アグノティタは首を横に振った。
「サフィラス。私は、この神聖なるカルディア王朝の血を繋げなくてはならないのです。ルヅラを持つ者を絶やしてはならない。ルヅラが絶えるということは、カルディア王朝の滅亡を意味するのです」
「だったら……」
サフィラスは「だったら自分でもいいじゃないか」と言いたかった。
アグノティタのことが好きだ。産まれてきた時から好きだった。それがいつ愛に変わったのかわからない。
しかしサフィラスの魂は、アグノティタを求めてやまないのだ。
「サフィラス。もっと利口になりなさい」
アグノティタは諭すように言った。
「私はイーオンの子を産まねばならぬのです。正統な血族を絶やしてはならぬのです。そこに意思は必要ないのです」
サフィラスは自分の気持ちを伝えたかった。「愛している」と伝えるだけで良かった。イーオンのものになる前に。
しかし、王家の結婚に愛が必要ないのであれば、自分のアグノティタに対する気持ちもまた、必要ないものなのだろう。
サフィラスはぐっと拳を握りしめ、踵を返した。
扉を開けた時、アグノティタは言った。
「兄様のこと、呼び捨てにするのはおやめなさい」
サフィラスは答えずドアを閉めた。
本当に呼び捨てにしたい相手はイーオンではなかった。アグノティタの名を呼びたかった。
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