眠り姫の夢遊病事件
金時るるの
眠り姫の夢遊病事件
俺のクラスには眠り姫がいる。
その眠りっぷりたるや、見事と言うほかない。一度睡眠状態に陥れば、授業中であろうとも関係ない。身体を揺すられようが、耳元で叫ばれようが全く動じることなく、マイペースを保って眠り続けるのだ。
その結果、ついたあだ名は「眠り姫」
そんな眠り姫こと
けれど、そんな特別扱いも同然な一条さんを、面白く思わない連中が存在するのも当然の事といえよう。
「
その日の放課後。眠り姫……もとい一条さんは俺の名を呼びながら、華奢な身体に長い黒髪をなびかせて美術室に駆け込んできた。俺が何事かと一瞥すると、彼女は自身のひたいを指差す。
「ここになんて書いてあるか見えますか?」
問われて彼女の顔に目を向ける。白い肌。薄いくちびるに小ぶりな鼻、長い睫毛に縁取られた大きな瞳。そして問題のひたいに視線を移せば――
「……おにく」
そう、そこには確かに黒いマジックペンで「おにく」と書かれていたのだ。
俺の答えを聞いた一条さんは唸る。
「むむむ。やっぱり私の見間違いじゃないんですね。お手洗いで鏡を見てびっくりしました。いつのまにこんな落書きをされたんでしょう。全然気がつきませんでした。は! もしかしてこれは霊のしわざとか……!?」
どんな霊だ。
一条さんの妄想はともかく、俺は彼女にそんな事をした人物達に心当たりがあった。
昼休みにいつも通り自分の机に突っ伏して睡眠を貪る一条さんの周りを、ソフトボール部の女子達が取り囲んでいたのだ。おそらくその時にいたずらされたんだろう。
なんでもソフトボール部は、最近部室でボヤ騒ぎを起こしたらしく、一ヶ月間の部活動禁止を言い渡されたという。
そんな彼女達のストレスのはけ口が、滅多に目を覚まさない一条さんに向いた結果のひたいの「おにく」なんだろう。ずいぶんと幼稚な嫌がらせだが。
「もう! 乙女のおでこに落書きするなんて万死に値しますよ!」
再びトイレから戻ってきた一条さんのひたいには、もう「おにく」の文字はない。どうやら無事に洗い落とす事ができたようだ。
そのまま俺のそばまでやってくると、なぜか偉そうに仁王立ち。
「さて、それでは気を取り直して部活動を始めましょうか。香坂くんは何を描くんですか?」
「今日はパイナップルだな」
「なるほど。それでは私も部活動を開始します」
鉛筆を削る俺の背後から、がさごそと音が聞こえてくる。一条さんがいつものように毛布を床に広げる音だ。
彼女はアイボリー色のマイ毛布をこの部室のロッカーに置いてある。それにくるまって床で眠る事が一条さんにとっての「部活動」なのだ。彼女はそれを
「自らの肉体を使用した前衛芸術です」
だとか言い張って、こうして毎日堂々と眠っている。
部活動の名のもと、おおやけに眠る事ができる。それに加えて顧問の教師が放任主義というか、滅多に顔を見せない。おまけに部員は俺と一条さんの二人だけ。こんなに睡眠に適した部活が他にあるだろうか。いや、ない。
そういうわけで、一条さんは放課後になっても毎日美術室の片隅で睡眠を貪っている。
毛布にくるまった直後、さっそく聞こえてきた一条さんの軽い寝息をBGMに、俺は鉛筆片手に絵を描き始めた。
翌日の放課後、美術部へと向かう途中、階段の踊り場から何気なく外を見ると、今はもう使われていない古い運動部の部室棟が見える。なんでも、取り壊すにも色々費用がかかるとかで、その費用を確保できない学校側の事情で今もそのままになっているとか。
もしも一条さんが運動部なんかに入部していたら、どうなっていたんだろうか。などと考えつつ階段をのぼりきって廊下の角を曲がる。
と、その時、美術室の前の廊下に何か大きなものが置かれているのが目に入った。
見覚えのあるアイボリー色の物体。
「一条さん……?」
駆け寄ってその物体を確認した俺の口からそんな言葉が漏れる。
それは、まぎれもなく毛布にくるまった一条さんだった。
「一条さん。起きてくれ」
俺の懇願もむなしく、一条さんは規則正しい寝息を立てつつ爆睡モードだ。
まあ、さすがにこの程度で目覚めるとは想定していなかったが。なにせ教師でさえ一条さんの爆睡っぷりに匙を投げるほどなんだからな。
仕方なく俺は、気持ちよさそうに眠っている一条さんの鼻をつまむ。
さて何秒もつか。1、2、3、4、5、6、7……
「んぐっ」
妙な声とともに、一条さんはぱちりとまぶたを開けて飛び起きた。同時に俺は彼女の鼻から素早く手を離す。何もしてませんよというふうを装って。
「香坂くん! 私、今、おっきなパンケーキに顔を埋めて、窒息しそうになる夢を見ました!」
「それは災難だったな」
まあ、その夢の原因は十中八九俺の行動によるものなのだろうが、そこは黙っておく。
「それより一条さん。どうしてこんなところで寝てるんだ?」
「え?」
問われて一条さんは、そこで初めて気づいたとでもいうように辺りを見回す。
「あれ? ほんとだ。私ってば、どうして廊下で寝てるんですか? 不思議ですね。いつも通り美術室の中で部活動中だったはずなのに」
つまりいつも通り爆睡してたって事だな。
「まさか……霊のしわざ!?」
また出た。霊のしわざ。一条さんは霊に何かこだわりでもあるのか?
「それとも私、夢遊病になってしまったんでしょうか? 眠っている間に一人でこの場所までやってきてしまったとか……」
そっちのほうが霊よりはまだ現実味がある。けれど違和感もあった。
「だが、今まで部活中にそんな事なかったじゃないか。授業中にだって。それとも今日になって突然夢遊病が発症したとでも?」
そう。一条さんはいつもただひたすら眠っているだけ。実に静かに、平和的に。それがこんなに唐突に奇行に及ぶだなんて、にわかには信じられない。
「とりあえず部室に行こう。何が原因だとしても、こんなところで座り込んでいたら目立つ」
そうして美術室に入ると、深刻な顔をした一条さんがおずおずと切り出してきた。
「あの、香坂くん。お願いがあるんです」
「なんだ?」
「私、もしかするとまたさっきみたいな事をしてしまうかも。自分でもどうして廊下で寝てたのか記憶が無いし」
「夢遊病の事か?」
「はい。だから香坂くん。私が本当に夢遊病なのかどうか確かめてもらえませんか? あ、もちろん香坂くんはいつも通り過ごしてもらってかまいません。ただ、私が部活動中に妙な行動を取らないか時々見て欲しいんです」
「まあ、それくらいならかまわないが。ただ、本当に夢遊病だった場合に、突拍子もない事をしようとしたら全力で止めるからな」
「ありがとうございます! それで構いません! それではさっそくよろしくお願いしますね!」
言うなり一条さんは毛布を床に広げて、入眠の準備を始める。
そんなに夢遊病が心配なら、いっその事学校内で眠らなければいいのに。とは思ったが、彼女にはそんな選択肢は無いらしい。
芋虫のように毛布にくるまると、さっそく寝息を立て始めた。
俺はパイナップルの絵に着彩しようと、紙パレットに黄色い絵の具を絞り出す。
そのついでに背後で部活動中の一条さんに目を向ける。
あの出来事から3日。一条さんと約束した通りに彼女の様子を伺うが、時折寝返りをうつくらいで、特に奇行に走ったりなどという事もない。もちろん授業中にも。
結局あの出来事はなんだったのか。
もやもやとした思いを抱えながら絵具を混ぜ合わせていた時、ふいに美術室のドアが静かに開き、髪をポニーテールにまとめた女子が姿を現した。同じクラスの
彼女は猫のように静かに近づいてくると俺に囁く。
「あの、香坂君、ちょっといいかな?」
「なんだ?」
「ええと、その、一緒に来て欲しいの」
「ここじゃ話せない用件なのか?」
「うん、あの、一条さんに関する事で、できれば本人には聞かれたくなくて……」
一条さんに関する事……?
俺はちらりと一条さんを見やる。俺達の話に気づくことなく、いつも通り部活動にはげんでいる様子だ。
この3日間、彼女が危惧するような事は何も起こらなかった。それどころか以前と同じように、実に静かに行儀よく過ごしている。
この分なら少しの間は放っておいても大丈夫なのでは? 俺が小田原さんの話を聞いて戻ってくる間くらいは。
しばらく考えたのち、俺は立ち上がり、代わりに持っていたパレットを椅子に置いた。
「それで、一条さんに関する話っていうのは?」
屋上の手前の狭いスペース。薄暗くて狭いここは内緒話をするにはうってつけだ。
俺の問いに、小田原さんはしばらくもじもじとしていたが、やがて口を開く。
「あのさ、一条さん、怒ってなかった?」
「怒るって?」
「ほら、あたし達がおでこに落書きした事」
なるほど。小田原さんも一応はあの件に関して罪悪感というものを抱いていたようだ。けれど一条さん本人には聞けずに、こうして俺を通して様子を探りに来たと。
「別に君達に対しては怒ってなかったぞ」
むしろ霊のしわざだと憤っていた。
「ほんと!? よかった」
「そんな事を聞くために、こんなところにまで呼び出したのか?」
「う、うん。ごめんね。ほら、一条さんっていつも寝てるから、話しかけるタイミングがつかめなくて……」
「そんなに深刻に考えなくてもいいと思うが。とりあえずそれが用事だったって言うなら、もうこの話は終わりだな。俺は部活に戻るから」
「あっ、ま、待って……!」
立ち去ろうとした俺を小田原さんは引き留める。
「まだ何か?」
「え、えっとね、その……あ、そうそう、香坂君の好きな食べ物って何かなーと思って」
「は?」
戸惑っていると、スマホのバイブ音が響いた。俺のじゃない。小田原さんのだ。
彼女はスマホを確認すると
「あ、ごめん。友達に呼び出されたから行くね。それじゃ、ばいばーい」
先程までのおどおどした様子はどこへやら、小田原さんは軽い足取りで去っていった。
一体何だったんだ?
頭をかきながら、俺も美術室へと戻ろうと階段を下りる。
廊下を歩いていると、ふと、黄色い点々が一定の間隔で床についているのが目に入った。それは美術室に近づくにつれ鮮明で大きくなってゆき、まるで足跡のよう……いや、これは足跡そのものだ。
気づいた瞬間、美術室に向かって走り出していた。
勢いよくドアを開けると、いつもはそこにあるはずのアイボリーの塊が無かった。
毛布ごと一条さんが消えていたのだ。
代わりに椅子から落ちて踏みつけられたであろう紙パレット。そこにあった黄色の絵具を踏んだ結果、足跡として床に残ったのだ。
まさか、このタイミングで夢遊病が発症したのか?
俺はきびすを返すと、黄色い足跡を追いかける。
一条さんは無事だろうか?
なんで俺はさっきあの場から離れてしまったんだろう。完全に油断していた。
徐々に薄くなる足跡を頼りに廊下を曲がり、階段を駆け下りようとしたところで、踊り場に人影が見えた。
足を止めると、そこには何名かの生徒達。一体なんだ?
「一条、おい、起きろ一条」
野太い男の声に我に返った。よく見れば、踊り場の真ん中には、見覚えのあるアイボリー。
生徒たちの隙間をすり抜けると、そこには毛布の上に横たわる一条さんの姿が。靴が片方脱げている。その底面には、こびりついた黄色の絵具。おそらくパレットを踏んだのはこの靴だ。
そして一条さんの周囲には散乱しているガラスの破片。見れば、踊り場の窓ガラスが割れ、大きな穴が開いていた。
まさか、一条さんがやったのか……?
「おい、一条。いい加減に目を覚ませ」
野太い声の正体は、俺達のクラスの担任教師。どうにか一条さんを目覚めさせようとしているようだ。
「先生、俺に代わってください」
教師をなかば強引に押しのけると、一条さんの鼻をつまむ。
数秒後
「んぐっ」
という声と共に一条さんは飛び起きた。
「香坂くん! 私、今、おっきなどら焼きに顔を埋めて、窒息しそうになる夢を見ました!」
「わかった。わかったから落ち着け。あと、危ないから動くな」
なにしろあたりにはガラスの破片が散乱しているのだ。下手に動いて怪我でもしたらおおごとだ。
俺の言葉に一条さんは我に返ったように顔をめぐらせる。そして周囲の生徒たちの視線にさらされながらも首を傾げた。
「あの……ここはどこですか?」
野次馬の生徒達はその場から追い払われ、踊り場には俺と一条さん、それに担任教師が残される。
靴を履き直した一条さんは、ガラスの破片を避けて慎重に立ち上がる。
「まったく、面倒な事してくれたな。一条」
担任教師がじろりと睨むと、一条さんが身をすくめる。
「す、すみません。でも、私、自分が何をしたのか全然覚えてなくて……」
「覚えてないだぁ? まさか寝ぼけてたんじゃないだろうな?」
「それもわからなくて……気づいたらここにいたんです。その時にはもうガラスは割れていて……」
教師は深くため息をつく。
「……もういい。とりあえずこの惨状を何とかしとけよ。処遇については後々考えるから」
意外にも怒られる事は無く、呆れたような言葉を残して教師は去っていった。少々気まずい空気の中、一条さんが控えめに声を上げる。
「えっと、私、掃除用具取ってきますね。とりあえず片付けないと」
そうして階段を駆け上がろうとした時、一条さんがバランスを崩した。
「わあっ!?」
悲鳴をあげたものの、とっさに手すりに掴まったために転ばずにすんだらしい。
「大丈夫か?」
「ええ。はい。なんとか……上履きが脱げそうになって、それで転びそうになってしまいました。でも、おかしいな……」
「おかしいって、何が?」
「うーん……なんとなくこの上履きに違和感を覚えるというか。サイズが合わないような。気のせいかな……?」
一条さんは靴のつま先でとんとんと床を叩いたりしながら首を傾げている。
「悪かった、一条さん。俺が目を離したせいで」
謝ると、一条さんは首を横に振る。
「いえ、いいんです。これで私が夢遊病だって証明されたようなものですから。ある意味すっきりしました」
「違う。そういう意味じゃない」
「え?」
不思議そうな声を上げる一条さんを横目に、俺はスマホを取り出す。
「俺が君から目を離していなければ、この事件はまったく違うものになっていたかもしれないって事だ」
言いながらガラス片の散らばった踊り場の様子をスマホのカメラに収めた。
翌日の放課後。
学校の敷地の片隅。古びた部室棟。普段だったら誰も足を踏み入れないような目立たない建物の陰。
そこにそぐわないような明るい声が聞こえる。
「おっす小田原っち。昨日はおつおつー。ちょー助かったよ」
「いやー、みんなこそグッジョブだよ。おかげでアイツのせいって事にできそうだしぃ」
「ねー、あれだけして起きないとかほんとウケるー」
「ていうか、この靴きついんですけど」
「なっちゃん足デカすぎー。かかと潰れてるじゃん」
ひとしきり盛り上がった後で、カチッという音がした。
「あ、あたしにも火ちょうだい」
それを聞いた俺は、建物の陰から彼女達の前に姿をあらわす。
「そこまでだ。君達、タバコは成人してからだ。常識だろ?」
そこには小田原さんふくめ5人の女子が、上履きのまましゃがみこんでいた。いずれもソフトボール部所属の連中だ。唐突な俺の登場に驚いたのか、みんな一様に目を瞠って俺を凝視している。
そしておのおのの手にはタバコが。まだ火をつける前の状態だ。
「この光景は録画してある。出るところに出たらどうなるか。さすがに君達だってわかるだろ?」
俺が手元のスマホを見せつけると、目の前の彼女たちは慌てだした。
「ち、ちがっ! これはその、今日が初めてっていうか、魔がさして……香坂君だって、そういうのあるでしょ?」
「初めて? それならどうしてソフトボール部でボヤ騒ぎなんて起こったんだ?」
「え?」
「ソフトボールに火なんて使わないはずだ。それなら火元はどこか。今みたいにタバコが原因じゃないのか? 吸い殻の火の不始末からボヤ騒ぎにまで発展したんだ。その結果の部活動禁止処分なんだろ? つまり、君たちは今日が初めてどころか、常習的に喫煙をしている」
女子達はぐっと言葉を詰まらせる。その顔を見渡しながら俺は続ける。
「部活動ができない間、ありあまる体力やらストレスを持て余した君達は、あるいたずらを仕掛けた。一条さんに対して。美術室で眠る彼女を毛布ごと運んで、廊下に寝かせたんだ。それでも目を覚まさない一条さんにどんな気持ちを抱いた? 楽しかったか? でも、それだけならまあ、少々悪趣味でもたわいのないいたずらとも言えるだろう。けれど問題はその一週間後に起こった」
俺は例の踊り場の窓を見上げる。割れた窓には今は段ボールを張りつけて簡易的に対処してある。
「その日、君達は踊り場の下のこの場所で、キャッチボールでもしていたんじゃないか? いや、ボールでなくてもいい。石でもなんでも。けれどコントロールが狂ったのか、投げたものは踊り場の窓に当たってガラスが割れてしまった。君達は焦っただろうね。また不祥事を起こせば、部活動に更なる悪影響が及ぶかもしれない。それで君達は考えたんだ。一条さんにその罪をなすりつけてしまおうと」
俺は小田原さんの顔を見つめる。
「小田原さん。君があの日俺を屋上へ続くあの場所へ呼び出したのは、俺を美術室から遠ざけるため。その間に残りのメンバーが一条さんを毛布ごと踊り場へ運んだ。あたかも彼女がガラスを割ったように見せかけるために。小田原さん、君のあの時の携帯のバイブ音は、計画通り一条さんを踊り場へ運び終わったという仲間からの合図だったんじゃないのか?」
「……ふうん。香坂君て、結構妄想力たくましいね」
「それはどうも。だが、あの踊り場の状況には俺の妄想を裏付けるような違和感があった」
「違和感って、なにがよ」
「あの時もしも一条さんがガラスを割ったとしたら、破片は校舎の外側へ落ちるはず。けれどガラスの破片は校舎の内側である踊り場に散らばっていた。つまり、外から割られたという証拠だ。その時の踊り場の状況も、もちろんこのスマホに記録してある。それに、そこの君」
俺は茶髪の女子に目を移す。先程「なっちゃん」と呼ばれてた女子だ。彼女は俺の声になぜかびくりとした。
「君は上履きのかかとを潰してスリッパのようにして履いているな。靴のサイズが足に合っていないようだ。それはそうだろう。だってその上履きはもともと一条さんのものだったんだから。君は美術室から一条さんを運ぶ際に、椅子に載っていた紙パレットを落とした上に思い切り踏んずけてしまったんだ。結果、踊り場まで黄色い絵具の足跡がついてしまった。だが、そのままでは一条さんが誰かに運ばれた事がバレてしまう。足跡はあるのに上履きの底はきれいなままだからな。だから上履きを取り換えたんだ。まるで一条さんが自身の足で踊り場までやって来たように見せかけるために」
一条さんが言っていた。「靴のサイズが合わない」と。あの言葉は上履きをすり替えられたための違和感によるものだったんだろう。
「どうだろう? 俺の妄想はどこか間違ってるか?」
女子達の顔を見回しながら問うと、小田原さんが立ち上がった。
「そうだよ。全部妄想だよ。妄想じゃないのなら、あたしたちがやったって証拠は?」
「証拠か……」
俺は再度茶髪の女子に目を向ける。
「一条さんが言ってた。上履きのインソールの裏に自分の名前を書いてるって。君、今すぐ靴を脱いで確かめて貰えないか? 君が今回の件に無関係ならできるだろ?」
その言葉に、茶髪女子はたちまち紙のように白い顔になると、俺の視線から逃れるように無言でうつむく。
その行動が、俺の言葉を裏付けているようだった。
「なんてね」
俺は肩をすくめる。
「嘘だ。名前を書いてるなんて、たった今俺が考えたでたらめだ」
「な!? 香坂! あんたねえ……!」
「まあ待てよ。さっきも言っただろ。この光景は録画してるって。この一連の映像を第三者が見たらどう思う? しかも冒頭には君達がタバコを手にしているシーンまでばっちり映ってる」
小田原さんは俺の襟元に伸ばしかけた手をひっこめる。
「……何が目的なわけ?」
「俺だって悪魔じゃない。下手に君達に逆恨みされても怖いからな。ただ、今回の踊り場のガラスを割ったのは自分達だと名乗り出る事。それと、一条さんを利用しようとした事を彼女に謝って欲しい。そして今後二度とタバコに手を出さない事。それが俺の要求だ。そうすればこの映像は誰の目にも触れないようにすると誓う。君達だって今日は実際に喫煙していたわけでもないしな」
ソフトボール部の面々は、暫く顔を寄せて話し合っていたが、やがて結論が出たのか、小田原さんが代表するように一歩近づく。
「わかった。その条件をのむよ」
交渉成立だ。俺は振り返ると
「一条さん、出てきていいぞ」
と呼びかける。だが、いつまで経っても彼女は姿を現さない。おかしいな。声を掛けるまで建物の陰で待っていて欲しいと伝えたはずなんだが。
不思議に思いながらも一条さんのいるはずの場所へ向かうと、彼女は地面に座り込んで建物に寄りかかるように眠っていた。
「はー。相変わらず眠り姫様はマイペースでいらっしゃる」
背後で呆れたように呟く小田原さん。
「悪いが、謝罪はまた今度にしてくれないか? 一条さんがこんな状態じゃまともに話もできない」
「ふうん。まあいいよ。約束は必ず守る。とりあえずあたし達はもう行くから。あんたも約束守りなさいよ。絶対だからね」
そうして小田原さん達が去った後、俺はいつものように一条さんの鼻をつまむ。
「んぐっ」
一条さんがぱちりと目を開ける。
「香坂くん! 私、今、おっきなカステラに顔を挟まれて窒息する夢を……!」
「わかったわかった。災難だったな」
「はい。あれ? 私、またいつの間にか寝てました……?」
一条さんはしばらくきょろきょろしていたが、何かに気づいたようにこちらを見上げる。
「は! それよりも小田原さん達とのお話は終わったんですか?」
「ああ、無事に終わった。だから部活に行こう」
手を差し伸べると、状況を把握できないという様子ながらも、それに掴まって一条さんは立ち上がった。
道中、小田原さん達の事を説明すると
「それじゃあ私、夢遊病じゃなかったんですね? よかったあ」
胸を撫でおろす一条さん。どうやら彼女の懸念を取り除く事ができたようだ。
そうして美術室に入ると
「あ、そうだ。今日は新しい毛布を持ってきたんですよ。どうですか?」
と言いながら、一条さんは手さげ鞄から真新しいパステルグリーンの毛布を引っ張り出して、肩からマントのようにはおる。今までのアイボリーの毛布はガラスの破片の上に敷かれてしまったので、危ないからと処分したのだ。
「いいんじゃないか? その、色とか……あと、素材とか」
毛布なんて褒めようがない。適当にそれらしい言葉を吐く。
けれど、それを聞いた一条さんは嬉しそうにさっそく毛布を床に敷きはじめた。
その姿を見ながら、俺はある疑いを抱いていた。
「なあ一条さん」
「はい? なんでしょう」
「もしかして一条さんは一種の睡眠障害、たとえばナルコレプシーなんじゃないか?」
ナルコレプシーの中には、眠ってはいけない場合でも、睡魔に逆らえず眠ってしまうという症状があると聞く。俺は一条さんがその症状に当てはまるのではと思っていた。
教師たちが彼女の爆睡状態をなかば黙認しているのも、それに関係があるのでは? そして、彼女自身は他の生徒達に対してそれを隠している。
少しの間無言になる一条さん。
「あー……バレちゃいました? さすが香坂くんですね。その通り。私はナルコレプシーなんです」
「どうして黙ってたんだ?」
「それは……他の人から変な目で見られたくなくて……」
「顔に落書きされても?」
一条さんは目を伏せて頷いた。
「考えすぎだ」
「そうでしょうか……?」
「ああ。少なくとも俺に関しては」
「え?」
顔を上げる一条さんに、俺は軽く笑ってみせる。
「つまり、君がナルコレプシーであろうとも、俺は別に気にしないって事だ」
「香坂くん……」
一条さんの瞳がかすかに潤んだような気がした。けれどそれはすぐに笑顔に変わる。
「私、今日は今までで一番気分良く部活動ができる気がします! 香坂くん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
一条さんはさっそく毛布に包まり寝息をたて始める。
いつか彼女自身からナルコレプシーの事を周囲に打ち明けられるだろうか。そうなってくれるといいんだが。
そんな事を考えながら、俺はパイナップルを描くのを中断し、傍らのスケッチブックを取り上げると、一条さんの幸せそうな寝顔をこっそりとスケッチする事にした。
眠り姫の夢遊病事件 金時るるの @ruru10000
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