あと少し

あるふぁべっと

あと少し

 時計を見るともう夜の十一時を過ぎていた。窓の外には部屋の灯りの照らせる限りに、雪の降り積もっているのがぼんやり見えた。私はこういう景色を眺めながら、かつて近所に住んでいた松宏まつひろくんと初めて知り合った日のことを覚えた。


 小学二年生の冬、今日のような大雪の積もったある日の午後、家の近くの公園で妹と雪遊びをしていた私の背中に、誰か雪玉を投げつけた。驚いて振り向くと、見知らぬ男の子が抱えるほどの雪玉を持て余したまま、


「おまえ、だれ?」


 と、さも不思議そうな顔をした。


 私が呆気にとられていると、そこへ彼の母親が慌てて飛んできて、すぐさま彼の頭を抑えて深々と謝った。私の母はそんな二人をなだめるのに努めたが、向こうの母親もなかなか強情な人らしく、攻撃した理由わけを話さなければ許さないと言い出した。そんな母親の厳しい詰問に、彼はなかなか答えを言わなかったが、いつかは結局、


「友達とまちがえた」


 と気まずそうに口にした。


 友達とまちがえた? ――そんな彼の言葉が、彼にとって私は友達ではないという事実として聞こえた時、私は幼心に妙な悔しさを起こして――あるいは居心地の悪い場を治める為に、私なりの小賢しい頓智とんちを試したくなったからかも知れないが――ああだこうだと怒鳴る母親を遮る調子で、


「じゃあ、友達になろうよ」


 と言った。今度呆気にとられたのは私のほかの皆だった。


「友達なら悪いことじゃないんでしょ?」


 そうしてそれから、私はその男の子とのみならず、その友達とも一緒になって日が暮れるまで雪遊びをした。いよいよ家に帰る頃になり、遠くの空に浮かんだ夕日が雪に沈む町並みを菫色すみれいろに照らす中、私らは初めて互いに名前を明かし、私は彼の松宏くんであることを知った。やがて私達は、降り積もった雪さえいつの間にか春の日射しに溶けゆくように、いつからともなく暇さえあれば家を行き来するような懇意の仲となったのだ。


 夏は川遊び、肝試し、虫捕りをした。山の神社に祭があって、私は初めて線香花火をした。「牡丹」も「菊」も知らなかったが、私は綺麗に散る火の粉をじっと見つめていた。その時、燃え尽きた火玉がたまたま松宏くんの足に落っこちて、物凄い悲鳴を聞いたのが懐かしい。


 秋に焼き芋をやった時、私と松宏くんは焚き火に手をかざしながら、寒さを凌ぐために互いの身を寄せていた。曇天に枯れ木が真っ黒に見え、私は松宏くんと知り合ってもうすぐ一年が経つことを思い知り、どこか嬉しい気持ちになって、より松宏くんに体を寄せた。


 しかし松宏くんはその年の新雪の降るより前に引っ越してしまった。私はその理由を母に尋ねたが、「栄転」とか「転勤」という言葉の意味が分からず、きっとすぐ帰ってくるんだろうと飲み込んでいた。 ――それから今まで、松宏くんは帰ってこない。私は曇りをぬぐった窓ガラスに垂れゆく水滴の、垂れゆくままを呆然ぼうっと眺めていた。


 今、松宏くんは東京に近い関東の高校に居るらしい。それを知った私は、また松宏くんに会いたいが為に勉強に励んだ。けれども、――ああ、私の何が変わってしまったのだろう? 私の成績は松宏くんがいる高校の求める水準を越してしまって、「海川さんならもっと良い高校を目指すべき」と先生に説かれるのを、それが当然もっともだと思わずにはいられなかった。両親は人生がいかに長いか、そして後悔や犠牲のない人生などないと言うのみならず、「松宏くんは忘れてるかもしれないよ」と言う。私はそれが当然もっともだという気がしてならなかった。


「あと少し……」


 私は小さな声で呟いた。何が「あと少し」なのかは知らない。けれども、たしかに「あと少し」だったような気がする。あと少し、私が愚かだったら? 度胸があったら? ……時計を見るともう夜の零時を過ぎていた。私はもう寝なくてはならないと思って、机を離れた。しかし雪はいっこう降り止みそうになかった。

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