第3話 天使


 ガシッっと、不意に背後から腕をつかまれ、力強い引きで、リナは全身を後ろに持っていかれた。


 否応もなく、そのままバランスを崩して、背中から地面に倒れ込みそうになるが、誰かにやさしく抱き止められる。


 断頭台のギロチンを思わせ下りた遮断機の奥を、轟々とうなりを上げて最終列車が通り過ぎていく。

 最終、つまり始業式の始まる時間までに学校にたどり着くことの出来る、あれが最後の列車だ。


 危うく、高速移動する金属の塊に、全身をグシャグシャのバラバラにされかけたかもしれない、そんなおぞましい場面を、紙一重で避けられたのだという現実を、彼女の脳は未だ理解しきれないパニック状態。



 あっ、と思わずよろけズッコケて飛び出し、あわやトラックか暴れ馬に轢き殺されそうになった時、さりげなく、背後から差し伸べられる紳士の手。


 このシチュエーション! 少女漫画であれば……後ろをそっと振り向くと、思わず息がかかりそうな近距離に、憧れの先輩の『なにしてるんだ……相変わらず……君は、おちょっこちょいだな』って、言いたげな笑顔が眼前に広がるはず。



 リナは、今の状況を整理できないまま、心臓をドキドキと脈動させ……もちろん恋のドキドキではない。



 振り向くと、……ん? ちょっと振り向きにくい。


 「?」


 リナの倒れ込む角度が、普通の想定より低い、少なくとも自分ほどの背丈があるジェントルマンに助けられたと想定するならば、考えにくい角度。

 なんたって、水平とは言わないが、それに近い角度なのだから。


 横を振り向くというより、仰ぎ見なければならない。



 大空をバックに、ニッコリと笑顔が見える。



 テカテカと光る……唇……も見える。


 ガハハと笑うあなたから、美味しそうなミルクとフルーティな香りがする。




 リナは慌てて、両手をぐるぐるまわすようにジタバタと、自ら体勢をなんとか立て直して、命の恩人? と向かい合った。


 真っ白い艶髪の、小さな女の子。


 (え!? 何これ……夢?)


 リナは目をあからさまに何度かパチパチさせる。


 妖精か何かが立っている、ファンタジー世界にでも紛れ込んだかの錯覚に一瞬陥る。


 (つ、ついに…わたし、死んで転生しちゃった……!!?)


 いやいや人間だ、人間の女の子、よく見ると学生服を着ている、それも、まさしく自分と同じ制服、月詠(ツクヨミ)学園の……。


 (……お、お人形さんみたい)



 ともあれ。


 今更どんなに後悔しても遅い、9時の始業式に間に合う電車の便は、無情にも目の前を通り過ぎた。

 眞元(サナモト)リナにとって、学園生活初の、遅刻が決定づけられた……。




 時は戻る。彼女を救ったヒーローの活躍を見るがために。



 朝食を咥えたまま家を飛び出した、妹子(イモコ)。


 並の人間ならば、ここで最初の危機が訪れる……お分かりだろうか?



 そう!

 分厚い3層の食パンによって、一気に口の中の水分を持っていかれ、せっかく時間短縮のためそんな無謀な行動をとったはいいが、現実、結局なかなか飲み込むことも、咀嚼することさえも出来ず、死にそうになるのだ!


 だが、美波羅(ビバラノ)妹子様は違う。


 玄関を駆け抜け過ぎる、たった数歩の間で! 可愛らしい真っ白い指が並ぶ広げた手のひらで、大きく開いた口からはみ出たサンドイッチを押すと、ハムスターの様に膨らませたほっぺに、あっという間にむしゃむしゃとしまい込んだ。


 住宅が並ぶ一角を曲がる、数秒後には、すっかり胃の中に収めた。


 お、恐ろしい……神業だ。

 決して良い子、いやどんな子もマネしてはいけない!



 大通りに躍り出て、口の端についたジャムをぺろりと舐めると、ニッコリ笑う。


 「駅まで……5分あれば、余裕だぜぃ」


 彼女の進む、そのわずか先、隣の車道を静かな走行音を立て、目立つピカピカの大きな黒い車がスムーズに走って行く。


 「!!!」


 妹子はハッとして、キキキーっと急ブレーキをかけ立ち止まった。


 その車を目撃したことで、思い出した!

 「ちぃぃ! あたしとしたことが! なんていう、とんでもないミスを!」

 漫画の吹き出しが、今にもそこに見えそうなセリフを、ごく自然に発する。


 クルリと体を180度回転させ、我が家へと駆け戻る。



 それはダメだ! 忘れ物を取りに引き返す!? 何を考えているのだろう、ただでさえギリギリなのに、もう絶対に間に合わない。



 彼女は玄関ドアをガバッと開け……、鍵をかけないことが幸いしたか、この点、時間のロスは一切ない。

 スニーカーを器用に足先で脱ぎ捨てると、再び、愛しのダイニングに足を踏み入れる。

 おもむろに、冷蔵庫という宝物庫を開け、輝きを放つ白い瓶に手を伸ばした。


 スポン! 瓶のキャップを指で跳ね飛ばし外す。

 腰に左手を当て、そやつをガッシと握り持った手を口元に運ぶ。


 ぐびぐびぐびぃ、美味しそうに咽喉を鳴らし、特選濃厚低温殺菌ジャージー牛乳DXを飲んだ!


 この彼女の奇妙な行動を推測できたあなた、お見事ご明察、彼女は『黒』い車を見て『白』い牛乳を思い出したのだ。


 「ぷは~~ぁ」


 大変満足そうな顔をしながら、まつ毛を寝かせ遠くを見つめて一言。


 「~ん。…………間に合いそうに……ないな」




 妹子は、ジョギングポーズで腰に手を当てながらホッホッホッっと軽やかに走り、駅への道のりを、もはや軽~く流していた。


 向かう前方に線路と交わる十字路、踏切が下りて、列車が通り過ぎるのが見える。

 あれが、確か学園前駅に9時までに着く最後の便。


 「んンン?」


 彼女は思わず、ニンマリ喜んでしまう。


 なんと、思いもよらぬ事があるものだ、お仲間がいるではないか。

 同じ制服を着た女子が、ドでかい絶望を背負ったような後ろ姿で、呆然と踏切前で立っている。



 スキップで後ろから近づくと、絶望娘のスカートから延びる、スラリとしたスタイルの良い健康そうな長い脚が目を引く。


 「ぐふふ」


 スケベな中年オヤジよろしく、笑いを浮かべ、妹子はポンと彼女のお尻をたたいて言った。


 「お・は・よ・う・さん!」


 挨拶をされた少女は思いのほかバランスを崩し、ワタワタ前につんのめる。


 妹子は、どんくさいやっちゃな、とでも呆れるような表情を浮かべながら、腕を素早くつかんで軽々と引き戻した。


 そして、自分の映る、びっくり眼の両目をのぞき込むように挨拶した。


 「あたし、妹子、美波羅妹子。あんたは?」



 やっとの動作で立ち、妹子と向かい合うことができたリナ。

 訳も分からないまま、戸惑いながらも何とか必死に、咽喉から言葉を絞り出し答える。


 「…リナ、眞元」


 「『リナ~、サナモト』って、あんた、外国人~、ガハハハッ」


 妖精のような少女は、とてつもなく面白いギャグでも聞いたかのように、一人でうけて笑いだす。


 首を振り、思わず顔を真っ赤にしてリナは否定する。


 「ち、ちがう、わたし、日本人。月詠学園の…二年生」


 なんだか、まだちょっと片言で話す外国人のような話し方。


 「フフフ、やっぱりね。あたしも二年生だよ~」


 いつの間にか踏切が上がり切り、周りの流れが再び起動する。


 「さあ、行こ!」


 妹子が手ぶりでリナを促した。


 彼女は足元に置いていたカバンを手に取り、自然と……一歩を踏み出せた。

 妹子のお尻へのひと叩きが、神聖な力士の平手打ちの如く邪気を払ったのか、リナの心をいつの間にかスッキリさせていた。



 陽光にキラキラ光る髪の房を尻尾の様に揺らして、少し前を歩く、ちんちくりんなエンジェルの後ろ。

 何故だろう……気づくと軽やかな気持ちで追いかけていた。

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