手を握り返した死にぞこない

黒鉦サクヤ

◆◇◆

「死ぬつもりなら、まずは私に話してご覧なさいな」

 身なりの整った妙齢の女性に、飛び降りようとしていたところを引き止められた。美しい着物の種類は僕にはわからないけど、それがとても高価で良いものだということくらいは分かる。

 最期だしこれも記録しておくかと、飛ばしておいたドローンで艶のある黒髪を結い上げた女性の姿を捉える。僕は自分が飛び降りる姿を撮影しておくつもりで、ドローンを飛ばしていた。

 ただで飛び降りるなんて嫌だった。遺書にも書いたが、僕を死にたくなるくらいいびり倒した奴らの心に、残された映像が傷痕として少しでも引っかかればいい。何も思わないかもしれないけれど、僕の最期は映像として記録される。

 女性はドローンを無視し、僕の側へと近づいてきた。手を差し出し、柵の内側へ戻るよう促す。けれど、僕はそれを首を左右に振って拒絶した。

「そう。でも話す気はあるのでしょう? 立ち止まってくれた」

 花がほころぶように笑う女性は柔らかな雰囲気で、まるでこの世の穢れを知らぬようだ。蝶よ花よと育てられ、苦労など知らずに過ごしてきたのではないだろうかと勝手な想像をする。

 途端に僕は死のうとしている自分の人生がみすぼらしく思え、話そうとしていたことが恥ずかしくなる。話したところで僕が死にたいと思っていることは覆ることはないし、なんの意味もないのだ。

 僕は女性に顔を見られるのも恥ずかしく、俯いたままスマホでドローンを操作し始めた。これまでの人生で楽しいと思えたことは、ドローンでの撮影だけだった。

 まずは僕が飛び降りようとしている場所を遠目で映し、徐々に近付いて飛び降りる場所を映そう。女性が僕に声をかけているけれど、それを無視しドローンを操作し続ける。

 建物に近付いてくるのを眺めているとき、ある一点で目が止まった。思わずドローンを止め、それをよく眺める。今いる建物の近くの木だ。もっと言うと、僕が飛び降りようとしているところの真下の木である。

 その色に見覚えがあった。

 木に引っかかっている布切れは、僕の目の前にいる女性の着物と瓜ふたつだった。

 これから死のうとしている僕に、恐怖なんてものはないと思っていた。この世界に心を動かすようなものなんてないと思っていた。

 けれど、僕は今とても恐ろしかった。目の前にいるこの優しそうに見える女性は、生きている人ではない。人間ではない何かだった。

 歯の噛み合わない状態で、僕は後ずさる。僕の後ろには崖しかないが、それでも女性から少しでも遠ざかりたかった。もうこのまま飛び降りてしまおうと思った瞬間、凍りついたような手が僕を引き止めた。

 喉の奥で、声にならぬ声が上がる。

 落ちようとする僕を女性とは思えない力で掴み、僕を柵の内側へと引きずりあげた。地面に手をつき、喘ぐような息をしていると目の前に女性の足が見える。人間ではない何者かにも足はあるのか、と恐怖の限界を超えた頭でぼんやりと思った。

 そんな僕の上から女性の声が降る。

「勘違いをされているようだけど、あれは私ではありません」

「は?」

 その言葉に僕は勢い良く顔を上げた。

 自殺現場にそぐわぬ、鈴の転がるような軽やかな笑い声が響く。

 僕は呆けたまま女性の顔を見つめるしかない。普通、自殺した人と同じ着物を身につけた人が同じ場所に来るだろうか。

「幽霊でも見たような顔をしていたけれど、私は残念ながら生きています。あれはここから身を投げた義妹のもの」

着物はおそろいなんですか、と聞こうとしたけれど何故か口にしてはいけない気がして言葉を飲み込む。こういうときの勘はよく当たる。

「兄がこの着物をくれたのよ。そして、結婚するんだと言ってあの子にも同じ柄の着物を作ってあげていたの」

 その言葉を聞いた僕は言わなくてよかったと安堵し、そしてさっき一思いに死んでいればよかったと思う。話してご覧なさいな、と僕に言っていたけれど、これは自分が話したいの間違いではないか。けれど、女性はそれ以上語ろうとせず微笑んでいるだけだった。

 拍子抜けしてしまった僕は、先程まで感じていた恐怖も忘れ、引っかかっている着物の近くまでドローンを動かし観察する。同じ着物の柄でまだ真新しく見えること以外、特に不思議なところはなかったが、僕はその下も見てしまった。正確には見えてしまった。

 今まさに落下したばかりといった様子の二人の遺体がある。女性の言っていた義妹と兄ではないだろうか。折り重なるようにして、先の尖った枝に串刺しになっていた。まだ血が滴り落ちていることから、落ちてからそれほど時間がたっていないのだろうことは推測できる。

 もし、さっき僕も落ちていたらあそこに混ざることになったのだろうか。勘弁してほしい。

 死ぬときまで他の人に邪魔されたくないし、仲良く串刺しとかあり得ない。

 恐怖心が限界に達し、すでに感覚が麻痺しているのかもしれない。目の前に遺体があっても心は動かなかった。

 さっきまで僕は死にたいと思う気持ちが覆ることはないと思っていたけど訂正する。死にたい気持ちが生きたいという気持ちに変わることもあるし、今僕が女性に話すことには意味がある。

「僕、以前の仕事や人間関係が死にたくなるほど嫌でここに来たんですけど、良い仕事を紹介してもらうことはできますか」

「あら、思いとどまってくれたのね。良かったわ。私、あなたとは仲良くできそうな気がしていたの」

 女性が差し出す手を取り、僕はゆっくりと立ち上がる。相変わらず女性の手は冷たく血の気がなかったが、しっかりとこの世に存在していると確信する。

 きっとこの手があの串刺しになった二人を押したのだろう。でも、僕はそれに触れずに話を続ける。

「奇遇ですね。僕もそう思っていたところです」

 崖下の二人の姿をドローンはしっかりと映し、空へと舞い上がる。女性はやはりドローンに見向きもしない。

「仕事を探しているのよね。そうねぇ、いくつかあるけれど私の秘書なんていかが?」

 僕を近くに置いておきたいのはドローンの映像があるからだろう。脅されるにしても近くに置いておいたほうが、都合がいいに違いない。

 最初に思ったのは、僕を呼び止めずにいたほうが弱みも握られず目撃者も消すことができ良かったということだ。でも、先ほど下を見たときに気が付いた。僕が落ちてはすべてが台無しになってしまうのだ。だから、女性は僕を呼び止めた。

 彼らが落ちた先にあった複雑に展開されていた呪術に支障が出るため、僕があのまま身を投げてはいけなかったのだ、きっと。それが、どんな呪術で女性にとってどんな意味をなすのか知らないし、知りたくもない。

 ドローンを確認して見ないと分からないが、もしかしたら二人が落ちる瞬間も撮れているかもしれない。ドローンが目撃者だなんて滑稽だ。

 ああ、愉快だ。

 先程まで世界に絶望していた自分も、死ぬのをやめた自分も、共犯者になろうとしている自分も。穢れを知らぬような女性の手が真っ赤に染まっていることも何もかも。

 一番人生で楽しいと思えたドローンの撮影が、自分の人生を変えるのだ。

 僕の口元は弧を描き、女性の申し出に大きく頷く。

 そして女性とともに、自殺未遂と殺人の舞台に背を向けた。手元に戻ってきたドローンを大切に持ちながら、静々と歩く女性の後ろを歩き始める。女性がどんな仕事をしていて、どんな身分でどんな仕事をすることになるのか。そんなことはどうでも良かった。

 おそらくこのまま二人の遺体も見つからないことだろう。あんなに大掛かりな呪術を施すくらいだ。最後の仕上げだってお手の物だろう。

 僕は以前の仕事や人間関係を捨てて、ここからまた人生をやり直す。

 崖の下から吹き上がった風が、一瞬、悲鳴のような音を立てた。

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