マツタケ山

あべせい

マツタケ山


 午後7時過ぎの、郊外にある中華レストラン。味がいいのか、値段が安いのか、それともその両方か、とにかく駐車場も店内もたいへんな混雑だ。

 表の出入り口付近にある壁沿いの2脚のベンチは、空席待ちの客であふれている。客は、空席待ちの用紙に名前と希望の席を書いて、お呼びがあるまで待つのだが、そこに、若い女性店員の麻未(まみ)がきて、

「お一人でお待ちの佐奈田(さなた)さま」

 と、ベンチに向かって声を掛けた。

「はい、わたし」

 ベンチの端に腰掛けていた70才前後に見える老女が、立ちあがった。老女の名は、佐奈田瑠美(さなたるみ)。

 麻未は、瑠美に顔を近付け、ささやくように、

「カウンター席ですと、すぐにご案内できますが……」

 瑠美は、テーブル席でもカウンター席でも、どちらでもいいと用紙の欄に記入していたらしいのだが、

「わたし、テーブルでないと……」

 と、後は口ごもった。

 麻未は、「そうおっしゃられても用紙には……」と言おうとしたが、時間の無駄だと思い直し、

「テーブル席ですと、お時間がかかりますが、よろしいですか?」

 と、尋ねる。

 瑠美は、「はい。かまいません」と、はっきりと答えた。なら、仕方ない。麻未は、次に待っている客の名前を呼んだ。

 瑠美は同じベンチに再び腰を降ろす。

 ここは東京と隣県を結ぶ主要国道沿いにあり、周りに大きな住宅団地やマンションがあるわけではない。もっとも、車で10分ほど走れば、1棟に50世帯が入居する集合住宅が20数棟そびえる高台があるが。

 瑠美はどこから来たのか。

 それより、どうして4人掛けのテーブル席にこだわるのか。ファミレスのテーブル席は、2人掛けをくっつけて4人掛けのテーブルにすることがあるから、一人客でもすぐにテーブル席に案内できる。しかし、この中華レストランのテーブル席は2つに割ることができない一枚板のテーブルのため、一人客がテーブル席を要求するということは滅多にない。事実、麻未には初めてのことだった。

「お1人さまは、カウンター席にお願いしています」と言うことは出来る。麻未が前に勤めていたレストランは、そうだった。しかし、この店には、そういうルールはない。で、麻未は、ホールを仕切っている主任の可苗(かなえ)に確かめた。

「あのお婆さん1人客なンですが、テーブル席にして欲しいとおっしゃるンです。いいですか?」

 すると、可苗はチラッと瑠美を見て、

「麻未ちゃん、知らなかった? あのお婆さん、この辺りじゃ有名な資産家よ」

「お金持ち、ですか?」

「そォ、この辺りの土地は、みんなあのお婆さんの所有。この店も、あのお婆さんから借りている土地に建てたもので、10数年後には更地にして返すことになっている」

「ヘェーッ! それであんなわがままを通すンですか」

「わがままか。まァ、見ていらっしゃい。いまにわかるから……」

 可苗はナゾめいたことばを残して、レジに行った。

 それから20数分後、ようやく瑠美の番が来て、奥から3つ目のテーブル席に案内された。

 この店は、入り口のドアを抜けると、左にオープンキッチンがあり、右側にテーブル席が縦に10卓並んでいる。カウンター席はキッチンの前に8席、固定された止まり木が設けられている。従業員はキッチンに男性5名、ホールに女性4名。

 麻未は急いで瑠美のテーブルに行った。

「奥さま、ご注文はお決まりでしょうか?」

 すると、瑠美は手に持っていたメニューから小さな顔をあげ、

「奥さま、ねェ……」

 気に障ったのか。麻未は、大富豪夫人だと思うから、そう言っただけだ。夫は家で寝ているのだろう。とすると、夫婦仲はあまりよくない。それとも……、

「わたしは独りものです。連れ合いには、5年前に先立たれました」

「それは失礼しました」

 でも、奥さまではいけないのか。わたしは気難しい老女を相手にしているのか。麻未は、ちょっと面倒な気持ちになった。

「ご注文ですが……」

「いつもの……」

 そこまで言ってから、瑠美は改めて麻未を見て、

「と言ってもおわかりにならないでしょう。あなた、ここに来てどれくらいですか?」

「もうすぐ、2ヵ月目に入ります」

 まだ1ヵ月だが、少しでも長く勤めているように思われたいのだ。

「そォ、では、野菜あんかけチャーハンをお願いします」

 瑠美はそう言ったが、この店にはそんなメニューはない。ないが、相手は大地主だ。この店の土地の所有者だ。

「かしこまりました」

 麻未は万事心得たという風に、深々と頭を下げた。

「あなた、お名前は?」

 引き下がろうとする麻未に、瑠美から再び声がかかった。麻未は慌てて振り返り、

「豊島麻未(てじままみ)といいます」

「麻未さん、ね。わたしは、佐奈田瑠美。73才です」

「失礼しました。わたしは、ことし28才になります」

「ありがとう。ご返答いただいて……」

 瑠美は、若い頃はさぞかし美人だったろうと思われる整った顔に笑みを浮かべて言った。

 麻未はキッチンの前に行くと、「野菜あんかけチャーハンですが、そんなのできるンですか?」とキッチン主任の小山内に尋ねた。

 すると、小山内は、

「ご隠居が来たンだな……」

 と言いながら、伸びをして調理台からホールのほうを見る。

「主任、佐奈田のお婆さんをご存知なンですか?」

「知らないでどうする。月に一度は独りで必ずお見えになる。きょうはそうでもないみたいだが……。最近の好みは、野菜あんかけチャーハンだな」

「でも、それって、うちのメニューにないでしょう?」

「ご隠居が考えた料理だから、なくて当然だ。しかし、2週に1度くらいは、賄いで出しているゾ」

 そういえば……、麻未は気がついた。従業員の賄いメシに、野菜のあんかけが乗ったチャーハンが出ることがある。飛びきりうまいッ。

「あの賄いは、瑠美さんの考案ですか……」

「ご隠居、瑠美さん、っていうのか」

「ええ……」

 そのとき、正面のドアが開いて、2人の年配の男性が入ってきた。年齢はどちらも40前後といったところ。2人は空席待ちのベンチには目もくれず、ホールの通路を進む。待ち客がたくさんいるにもかかわらずだ。

 麻未は慌ててキッチンを離れて、2人の前に立ち塞がった。

「失礼ですが、あちらでお待ちいただけますか?」

 空席待ちベンチを促す麻未に対して、2人連れの年かさのほうが、

「連れが先に来ているはずだ」

 と行って前に進む。すると、もう1人が、瑠美のほうを見て、

「お待たせェッ」

 と言って手を上げた。そして、麻未に向かって、

「ネエちゃん、彼女と同じものを3つ、頼んだよ」

 と注文してから年かさの後を追った。

「は、はいッ。エッ、でも3つ、って?」

 追加するなら、2つのはずだ。麻未は間違いだろうと思って、瑠美のテーブルに行こうとすると、

「ごめんなさい。遅くなって……」

 と、30才になったかならない、先の2人に比べれば、はるかに若く、感じのいい男性が、麻未の脇を通って瑠美のテーブルに行く。

「もし、お客さん……」

 麻未は思わず声をかけた。

 男性は振り返り、

「ごめんなさい。ぼくは、あのテーブルと一緒です」

 と言って瑠美たちに合流した。

 麻未は改めてキッチンに、「野菜あんかけチャーハン、3つ」と注文を通してから考えた。あの4人はいったいどういう関係なンだろうか、と。


 瑠美に合流した3人の男は、瑠美の息子たちだった。上から、松太郎(まつたろう)、武次(たけじ)、三男が羽三朗(うさぶろう)。年齢は順に、43才、40才、33才。

 羽三朗だけ少し年が離れているのは、彼だけが瑠美の亡夫が愛人につくらせた子どもだからだ。そして、3人はともに独身だった。

 この日、この店に4人がやってきたのは、花嫁探し。もっともそれは瑠美の考えであり、息子たちはそのことを知らない。瑠美が持つ国道沿いの土地約1万坪には、飲食店が20数店舗ある。いつまでも女遊びばかりして結婚しない息子に業を煮やした瑠美が、自分の手で相手を選び結婚させようと決意したのが、昨秋の彼岸に訪れた亡夫の墓前だった。このままでは、佐奈田家は途絶えてしまう。しかし、息子が気に入らなければ、結婚してもすぐに離婚するだろう。跡取りも出来ない。そこで、思いついたのが、20数店舗の飲食店で働く女性従業員だった。女性従業員は数にしてざっと150人いるが、独身で適齢期となると、その1割。瑠美は、月に一度ひとりで来るこの中華レストランとは別に、毎週土曜の夜には、親子の食事会と称して、3人の息子たちと一緒に20数店舗のうちの一店を訪れ、息子たちがウエイトレスや仲居のなかに気に入った女性を見つけないかと反応をこっそりうかがっているのである。そして、この夜は、自分が楽しみに来るこの中華レストランが、花嫁探しの店とダブったというわけだ。

 しかし、これまでこれといった成果はない。訪れるのは週に1店舗だから、月に4店、20数店舗すべてを一回りするには、少なくても5ヵ月かかる。実際、息子たちの都合がつかなかったりして、ここまで8ヵ月かかっている。

 しかし、20数店舗を一巡しても、実りはなかった。この日の中華レストランが2巡目の最初になる。前回に比べ、新しい若い女性店員が入っているだろうという期待はあった。

 4人が集まると、話題は自然と女性のことになった。3人とも、瑠美のもとを離れてひとり暮らしをしている。それぞれ車で5分から10分ほどの距離だ。松太郎はバッティングセンターを経営している。次男の武次は釣り堀。羽三朗は予備校の講師をしている。しかし、羽三朗は予備校に通う傍ら、車椅子の母を介護しなければならないハンディがあった。そのため、結婚には最も縁遠く、本人も結婚は諦めている節が見える。

 瑠美が息子たちと週に1度夕食をともにする表向きの理由は、相続だった。佐奈田家の資産のうち、最も価値があるとされているのは、家名と同じ名前がついた標高525メートルの佐奈田山だった、山全体が赤松に覆われ、周囲の住民からはマツタケ山と呼ばれるほど、毎年秋には大量のマツタケが収穫できる。その量ざっと500キロ。市場価格にすると5千万円を下らない。毎年、それだけの現金収入になるのだから、何よりも佐奈田山が欲しい。上の2人の息子はそう考えている。しかし、三男の羽三朗は、山の管理のことを考えると、煩わしさが先に立つ。相続よりも、母だった。68才になる母は、2年前脳梗塞を患い、医師からは、次に発作が起きれば命の保証はないと言われている。一命はとりとめたが、下半身に重い障害が残った。そのため、車椅子が手放せない。介護ヘルパーを常時お願いしたいが、それには金がかかる。羽三朗は、相続ができるのなら、現金がいいと考えていた。

「母さん、この店、新しい娘が入ったみたいだね」

 長男の松太郎が、忙しく動き回っている麻未のほうを見て言った。息子たち3人は、瑠美の向かい側に並び、窓側から年上の順に松太郎、武次、羽三朗と腰掛けている。

「マツ、わかったかい」

 瑠美が目を細めて松太郎を見る。

「兄さん、ずるいな。あの娘はおれが先に目をつけたンだ」

 と、次男の武次。

「でも、おまえたちには若すぎる。あの娘はまだ28才だよ。羽三朗にはぴったりだけどね……」

 瑠美は羽三朗に振り向けたが、返事がない。

「ウ、どうした?」

 松太郎が、下を向いてパンフレットを繰っている羽三朗に注意を促す。それでも、羽三朗は下を向いたまま。次男の武次は、左隣にいる羽三朗の脇を肘で軽く突いた。

 羽三朗はようやく、ハッとして顔を上げる。

「ごめんなさい」

「三朗、また奈良さんのかい?」

 と、瑠美が尋ねる。奈良は羽三朗の母の名前だ。羽三朗にとっては大切な母親だが、瑠美にとっては、昔憎悪を抱いた夫の愛人だ。

「うん。車椅子の調子が悪くて、買い換えるのだけど、なかなか思い通りのが見つからなくて……」

「ウの結婚は、当分無理だな。お袋さんがいる限り、だれも来やしないや」

 武次が揶揄するように言う。

「タケ、おまえはどうなンだい? この前、つきあっていた娘はどうした? またふられたのかい?」

「母さん、あの娘は、そんなンじゃない。鉄工所の娘で、身持ちが堅いンだ。堅過ぎるンだ」

「堅いの、けっこうじゃないか。おまえが、すぐに妙なことをしたからじゃないのかい」

 すると、長男の松太郎が、

「母さん、タケは若い娘ばかり追いかけているンだ。鉄工所の娘だって、あれでいくつだと思う。18だよ。タケより、22才も下だ。反りが合うわけがない」

「マツ、そういうおまえはどうなンだ。市会議員の娘さんとデートしたそうじゃないか」

「母さん。あれはダメだ。向こうはすぐにでも結婚したいそうなンだけど、あの体じゃ、とてもこっちの身が持たない」

「どういうことだい?」

「顔は年相応にかわいいンだけれど、周囲の話じゃもうすぐ90キロを超えるっていうンだ。本人は、うちの量りは80キロまでですが、まだ量れますからって、自慢なンだか、謙遜なンだかわからないようなことを言っている。でも、あれは絶対に針が振りきれているよ」

「太っていてもいいじゃないか。女は器量や体型じゃない。気立てだよ。それで一生を台無しにしている男を、わたしは何人も見てきているからね」

「母さんはそういうけれど、毎日顔をつきあわせなければならないおれのことも考えてくれよ。おれはやっばり、あの娘がいい」

 松太郎はそう言って、再び麻未のほうを見た。麻未は明るい笑顔でお客に応対をしている。

 瑠美は、バッグから地図を取り出してテーブルに広げた。いつもの動作らしく、松太郎と武次の顔が緊張する。

「この前も言ったけれど、この国道沿いの土地は、きっちり3等分する。畑は3反が3つあるから、分けやすい。マンションも3棟あるから、ケンカせずに済む。あとは……」

 すると武次が言葉を継いだ。

「母さん、佐奈田山だよ。山は3等分できないからね」

 松太郎は、

「母さん。こんなことはあまり言いたくないけれど、ウは除外すべきだよ。ウは母さんが生んだ子じゃないから。おれたちと同じというのは、世間が納得しない」

 瑠美が笑みを浮かべて、

「マツの考えは前に聞いた。タケ、おまえもそうかい?」

 武次は頷く。

「おまえたちの考えは、遺言書を書くときに、考えに入れる。あとは、株券と預貯金、蔵にある書画骨董だが……」

 瑠美はそう言いながら、羽三朗の反応をうかがった。しかし、羽三朗は、膝の上に介護用品のパンフレットを開いたまま、目は天井に向け、浮かない顔をしている。

「三朗、どうした? また、何か困り事かい?」

「明日、予備校で模擬試験があるンだけれど、同僚の講師からいまメールが来て、明日欠勤するって。彼女、認知症の父親がいて、たいへんらしいンだ」

「試験の日に、一人欠けるとおまえの仕事がそれだけ負担になるンだろう?」

 と、瑠美。

「いやそういうことじゃなくて、彼女のことが心配なンだ」

 瑠美も2人の兄も、そのことばから、羽三朗には職場に愛し合っている恋人がいるのだと察知した。

「母さん、佐奈田山はおれにくれないかな。ご先祖が守ってきた大切な山だから、おれが責任をもって、守り抜くから」

「兄さん、待ってよ。国道沿いの土地と畠はくれてやるから、山はおれが欲しい」

「タケ。それはおかしいだろッ。佐奈田山は佐奈田家のシンボル的存在だ。シンボルは長男が受け継がないと、世間さまが承知しない」

 瑠美は、またいつものやりとりになったと言いたげに、渋い顔になった。

「マツにタケ、その前に結婚だろッ! 結婚もできない息子に、佐奈田家の財産は、土ひと握りだって、相続させるものじゃないからねッ」

 ピシャリと言い放った。


 3ヵ月後。佐奈田家に動きがあった。

 長男の松太郎は、市会議員の一人娘と婚約した。大女だが、愛くるしい美女だ。年齢も38才と、松太郎と5つしか離れていない。ちょうど釣り合いがとれるし、まだこどもが出来る年齢でもある。

 次男の武次は、中華レストランの麻未に交際を申し込み、ひと月デートした。ただし、デート回数は2回。麻未が2度目のデートのとき、

「もうお別れしましょ。お客さんでお店においでになれば、いくらでもお相手しますが、こんな形で一緒にいても、わたしちっとも楽しくないもの」

 武次は、頭脳の浅さを見抜かれて、袖にされた。しかし、彼はその程度のことではへこたれない。これまでは、保険や車のセールスの女性を恋愛対象にしてきたが、やり方を変えた。まず釣り堀で扱う魚を川から海に変えた。タイ、平目、サバ、アジなど、海水の交換をはじめ、魚の仕入れと管理に手間と金はかかるが、お客は物珍しさも手伝ったか、大幅にふえた。さらに利用料金を女性半額にしたことが効を奏し、武次がターゲットにできる若い女性客も大幅にふえた。営業時間は会社帰りに利用できるようにと、土曜日曜は朝から開店するが、平日は午後4時から10時までとした。いまのところ、これがうまくいっている。

 武次がリニューアルして最初に釣り上げた女性は、意外にも、麻未の上司でもあるホール主任の可苗だった。バツイチだが、こどもはなく、年齢も32才と、まだまだ出産可能年齢にある。可苗は、武次の軽さを、教育すれば1人前になると踏んだ。そして何よりも、自分には欠けている、明るい、社交的な武次の性格を好んだ。そして、2人はつきあって2ヵ月もたたないうちに深い関係になった。

 羽三朗は、母の介護の負担が少し和らいだ気分でいる。麻未が母の昼食と、羽三朗と母の2人分の夕食を届けてくれるからだ。

 きっかけは、麻未が瑠美と羽三朗ら3人の息子に初めて会ったあの日に遡る。瑠美らが夕食を終え帰宅する際、ちょっとしたトラブルが発生した。羽三朗が麻未に別に注文していた持ち帰り用のチャーハンがまだ出来ていなかった。麻未が忙しさのあまり、ついキッチンに通し忘れたらしい。羽三朗はそうだと知ると、「いいよ。またにするから」と言って帰ろうとした。

 そこで麻未は、「わたしの責任です。ご自宅に届けさせてください」と言って深く頭を下げた。すると瑠美が間に入って、

「それがいい。麻未さん、三朗の住所は、可苗さんに聞けばわかるから」

 とうまく裁いた。もっとも、これにはウラがあるのだが……。

 この店では、デリバリーもやっていて、それ用の三輪バイクがある。麻未は、20分後、チャーハンと、お詫びに自前で用意したデザートのマンゴープリン2つをバイクの荷台に積んで、羽三朗の自宅に走った。

 羽三朗の自宅は、古いマンションの一室だった。内部は3LDK。奈良は車椅子に腰掛けテレビを見ていた。羽三朗は、浴室の掃除をして母の入浴の準備をしていた。

 羽三朗は、麻未を改めて見て、いい女だと思った。

「ありがとう。母が無理を言って、申し訳ない。もし、よかったら、あがってコーヒーでも飲んでいきませんか?」

 麻未はすぐに承知した。店を出る前、店長の指示があったのだ。「もし、ゆっくりしていって欲しいと言われたら、応じるように。瑠美さんから、そう言われている」

 実は、麻未が持ち帰り用の注文をキッチンに通し忘れたというのも、瑠美がこっそり可苗に告げていたのであり、麻未の落ち度ではなかった。羽三朗も勿論承知していた。彼は瑠美の心遣いを無碍に断ることはできなかった。

 麻未も羽三朗に対しては悪い感情は持っていない。ただ、瑠美の真意がどこにあるのかは、図りかねた。しかし、麻未はその夜、羽三朗と奈良の生活を垣間見てから、昼間一人になる奈良の昼食も店から届けたいと申し出た。それまで奈良の昼食は、羽三朗が予備校に出かける前に冷蔵庫に準備していた。羽三朗はありがたく受け入れた。そして、昼食のデリバリーが軌道に乗ってひと月がたつと、こんどは麻未の退出時刻が、羽三朗の帰宅時刻と重なる日には、羽三朗の分を含めた夕食も、届けるようになった。そして、さらにひと月がたつと、麻未自身の分も含めた夕食を持ち、羽三朗の自宅を訪れるようになっていた。

 その後、何も知らない次男武次が麻未にデートを申し込むという横槍は入ったが、麻未の心はすでに決まっていた。

 麻未は武次とのデートを2度目で拒否したあと、羽三郎に対しては積極的になった。

 麻未と羽三朗の関係が、より親密になるのはいつのことなのか。それを最も気にかけているのが、瑠美だった。瑠美は、佐奈田山をどの息子に譲るべきか、いまだ決めかねている。羽三朗が例え愛人の子であっても、羽三朗には責任がない。亡夫の血を受け継いでいる点では、2人の兄と何ら変わりがないからだ。むしろ、幼い頃、貧しく、引け目を感じながら育ったことを思えば不憫であり、その分、相続では手厚くしてあげたいという気持ちが強くあった。

 ところが、事態は思いがけない方向に進んだ。麻未が手首を切って自殺を図ったのだ。幸い発見が早く、未遂に終わった。自殺の原因は、羽三朗の優柔不断さにあった。彼は予備校の同僚、沙羅と深い関係にあったが、そのことを秘したまま、麻未が母に昼食や夕食を届けてくれる思いやりを当然のように受け取っていた。麻未がなぜそうするのか、その真意を知りながら、である。その一方で、羽三朗は沙羅ともつきあいを続けていた。やがて、羽三朗の自宅で、麻未と沙羅が鉢合わせする事態が起こり、麻未は初めて彼に恋人がいることを知った。

 羽三朗は麻未の強い意思を知ると、急速に麻未に心が傾いていった。それとともに、まもなく沙羅は煮え切らない羽三朗の態度を嫌い、離れていった。

 瑠美はそうなることを前もって予想していた。というのも麻未の自殺未遂は、瑠美の指図だった。手首を切ったことにして、瑠美が懇意にしている病院に緊急搬送させ入院させる。あとは、そのことを知った羽三朗がどう出るかだが、彼は女の底意を探る性格ではない。手もなく、乗せられたというわけだ。

 瑠美は3人の息子たちが一日も早く結婚して、同じ土俵に立って欲しいと願っている。そのうえで相続の配分を考える。どのような伴侶を得るかで、息子たちの生活が変わるだろう。それを見たうえでないと、佐奈田家の財産が子々孫々までどのように伝えられていくか、確信が持てないからだ。

 瑠美は考えている。佐奈田家のシンボルである佐奈田山は、最も欲のない息子に継いでもらいたい、と。欲の深い人間は、すぐに売り払い、金に換えるだろう。佐奈田家の財産はすぐに消えてしまう。そんなことになったら、亡夫に申し訳が立たない。例え、佐奈田山が愛人の子にいっても、いい。佐奈田山が佐奈田家の山として残ることが大切なのだ。

 さらに1年が経過した。長男の松太郎に待望の跡取り息子が誕生した。前後して、次男武次にも、男の子が生まれた。2人とも、いまのところ夫婦仲は良好だ。

 問題は羽三朗と麻未の家庭だ。麻未は結婚と同時に、彼の家に入った。義母の奈良がいる。これがいけなかった。世に言う嫁と姑の折り合いが悪かった。夫婦仲は兄弟のなかでは、最もいいのだが。

 瑠美は3人が結婚した頃から、佐奈田山を継がせる息子たちをランク付けしてきた。最高がAで、次にB、Cと続く。当初、羽三朗はAだったが、嫁姑問題が災いして、いまでは最も継がせたくないCランクになっている。いまはAの付く息子はいない。松太郎も武次もともにBランクだ。

 しかし、欲がないという点では、羽三郎と麻未の夫婦が最も優れている。ただ、家庭不和は離婚の原因になり、離婚となれば、瑠美の頭の中では、羽三朗は相続の資格ナシとなる。

 嫁姑の確執をどうにかしなければ、と瑠美は羽三朗以上にいま頭を悩ませている。しかしだ。義母の奈良に万一のことがあれば、問題は一挙に解消する。事実、奈良には脳梗塞の前科がある。こんど強い発作が起これば、確実に亡くなると医者は見ている。

 瑠美はかつて、奈良の存在を憎く思ったことがあった。羽三朗が生まれたときは、その憎悪は最高潮に達した。その日のことを思い出すと、いまでも怒りが沸々とこみあげてくる。

 脳梗塞の予防にはコレステロールを下げなければいけない。逆に、コレステロール値があがる食事をすれば危険といえる。玉子、しらす、レバー、雲丹などがコレステロール値をあげる食品とされている。

 瑠美は3人の息子たちの家に、毎週続けて来た食事会に代わるものとして、月に1度、老舗菓子店の銘菓を贈ることを思いついた。そして、最初に贈る菓子をシュークリームに決めた。シュークリームは菓子のなかでは最もコレステロール値が高いとされている。そして、ついに、その日が来る……。

                     (了)

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マツタケ山 あべせい @abesei

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