第26話 親娘



 親次が騎乗するキングフィッシャーが、先頭でゴールを駆け抜けた。



 スタンドで観戦していた志賀葵は、声も出せずにいた。



 短い時間で代役だったとはいえ、寝る間も惜しんで世話をした競翔龍が無事にレースに出翔し、幼馴染の手で勝利を飾った。感慨深いどころではない。頭は真っ白になり、奥底から震えがやってきて現実に引き戻される。そうして、ようやく嬉しさが込み上げてきた。



「おめでとう、葵」



 母の声が隣から聞こえた。今日の為に仕事を休んでもらってまでここに呼んだのだ。葵は気を引き締め直して口を開いた。



「……ありがとう」



 午前中の老人ばかりが集まった競龍場は、親次の渾身の騎乗に爆発するような歓声を上げている。その中にあって、葵と母の周りは静まり返っていた。



「ねえ、お母さん……厩務員の仕事をして、実際に龍の世話をして、気付いた事があるんだ。今勝ったキングフィッシャーって龍、ほんと子供みたいでね、世話をしてると親みたいな気分になるの。それでさ、思ったんだ。お母さんもこんな気持ちだったのかなって」



 母は何も言わない。日傘の陰に隠れて、じっと葵の言葉を待っている。



「お母さんは龍が危険だからって競龍に反対してるけど、競龍が廃止になれば大勢の人が仕事を失うし、行く当てのない龍たちは殺される。それを分かってる筈なのに、なんで競龍に反対するの?」



「子供たちの為よ」



 母は、きっぱりと言った。



「葵、貴方だけじゃない、地域の子供たちの安全の為に、この街から競龍を、龍を追い出さないといけないの。龍は象の躰を持つ空飛ぶ猛獣、普段はいくら大人しくても、暴れだしたら殺さないと止められない生き物。そんな生き物が、子供たちの近くにいて良いわけがないでしょう?」



 子供の為、葵の為、母は競龍に反対していた。そんな事も分からずに、いや、考えようともせずに葵は家を飛び出し、競龍の厩務員になった。



「お母さん……私、自分勝手だったね」



 大学をサボっていたのもそうだ。学費を両親に出してもらっていながら、自分の将来の為という名目で両親の金をドブに捨てていた。



「直ぐには無理だけど、競龍の厩務員は辞めようと思う。お母さんはもう知ってると思うけど、大学にもちゃんと行く」



 母は表情を変えない。やはり、葵が大学の講義をサボっていたのは知っていたか。



「でも、競龍からは離れない」



 母の眼が、大きく見開かれた。



「私、競龍に関わる仕事がしたい」



 母が口を開く。しかし声を出す寸前、ぐっと堪えるように一度口を閉じた。



「……また、厩務員になるの?」



「厩務員はしない、それは安心して。でも、厩務員と同じぐらい龍の事を考え続ける仕事をしようと思ってる」



 競龍は、龍は危険だ。部外者である母は勿論、内部にいる重連や三砂まで口を揃えてそう言う。葵も厩務員という仕事をしてみて、改めてそれを実感した。



 しかし危険という言葉は同じでも、部外者の母と関係者の重連や三砂とでは、明らかに言葉に籠る意味が違っていた。



 部外者のいう危険とは、龍の持つ能力だけを見て言っている。対して競龍関係者の危険は、龍の能力だけでなく、尊重するような響きを持って言っている。



 龍は危険、それは事実だ。龍の機嫌次第で人間は蟻のようにあっさり殺される。空だけでなく全ての生物の上に君臨する王者で、ヒトに次いで頭も良い。



 だからこそ、競翔龍は滅多に人に危害を加えない。自分の強さと立場を分かっているからだ。言うなれば彼らにとっての厩務員を始めとした人間とは、召使いに過ぎない。



 圧倒的な力を持つ王者が、どうして召使いを傷つける。競龍業界は競龍を助けるという、人間が上で龍が下だというような理屈を掲げているが、実態はその逆だ。



 そして、その違いが両者の溝を生んでいる。



 競龍は、銃の普及による狩りと農薬による悪影響から絶滅寸前にまで数を減らした龍を守る為、興業化して資金面の問題をクリアする目的で始まった。



 つまり、何かを守る為に始まったものだ。それは母を始めとした競龍反対派と同じではないのか。どちらも何かを守る為に働いている。それなのにどうして、両者が敵対しなければならないのか。



「私は、龍への誤解を解く仕事がしたい」



「誤解が解けても、龍が危険なのは同じなのよ。それで全てが良くなると思ってるのなら、葵、それは理想論よ」



 理想論。間違いなくその通りだ。しかし理想論とは、絶対に叶わない夢物語という意味ではない。



「当たり前だよ。だって競龍は発展途上なんだよ。現状だけ見れば全ての人に不利益で、何も良い事がないのかもしれない。でもそこで辞めたら何も変わらない。一番最初は、とにかくやってみる事が大事なんだよ。それで少しでも人間と龍、お互いが住みやすい環境を作る手助けがしたい。だから」



 葵は頭を下げた。



「競龍に接する事を許してください」



 何分でも何時間でも、許しが出るまで頭を上げないつもりだった。今まで自分勝手にしてきたからこそ、快く背中を押してもらうまでこの道には進めない。



 かち、という日傘を閉じる音が鳴った。



「……葵の事、お父さんに相談したの」



 母は独り言のような調子で言った。



「そうしたら子供はいつまでも子供じゃない、今は取り合えず見守ってみろ、そう言われてね」



 父がそんな事を言っていたのか。思えば一番迷惑を掛けていたのは母ではなく、父かもしれない。



「それで競龍についてもう一度調べてみたり、一萬田さんに話を聞いてみたり、葵の小さい頃の写真をみたり、色んな事を見つめ直してみたの。それで当たり前の事だけど、葵も子供じゃないって気付いた。……葵、頭を上げて」



 言う通りにする。母は微笑み、葵の頭を優しく撫でた。



「頑張れる範囲で頑張りなさい」



 葵の胸に、じんわりとした温かさが広がった。



「うん。できるだけ頑張るね、お母さん」



 初めは、親次が競龍に命を懸ける理由が知りたかった。それが分かれば、漫然と生きている人生にも活が入り、目標ができるのではないかと考えた。



 厩務員の仕事を始めて、キングフィッシャーの世話をして、親次が乗るキングフィッシャーがレースに出翔して、親次が競龍に命を懸ける理由が分かった。



 親次は競龍に魅了されたのだ。



 それは最初から分かっていたと言えば分かっていた。だが、魅了されただけで命まで懸けるのかと疑問だった。結論は単純、競龍の魅力は命を懸けるほど強烈なものだった。



 厩務員からすれば我が子のように世話をした龍が空を飛び、ライバルたちとぶつかり合う。騎手からすれば恐竜のような龍に乗り、凄まじい速さで飛翔して他龍たちと勝負する。そして、無事な姿で帰ってくる。



 その素晴らしさを知った志賀葵という人間は、競龍からもう離れられない。

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