嘘と本当

 すっかり気候が秋めいてきた、十一月の終わり。中庭に植わったイチョウが木々が色を変える頃のこと。王子こと、朝比奈碧に彼女ができたという噂は、またたくまに学校中を駆け巡った。

 朝比奈は一年生のあいだだけでなく、他の学年にも名を轟かせているイケメン超人である。噂には尾ひれも背びれもついて、もはや脚まで生えてきそうな勢いだ。相手はナントカ大学のミスコン優勝者だとか、某地下アイドルのメンバーだとか、女と見紛うほどの美少年だとか、バリエーションが多彩すぎて枚挙にいとまがない。


「なあなあ、聞いた? 七組の朝比奈王子、めちゃくちゃエロい年上の家庭教師と付き合ってるって」


 ニヤニヤと下世話な笑みを浮かべて話しかけてきたクラスメイトを「あっそう」と一蹴して、おれは席を立った。これ以上、信憑性の薄い噂話に振り回されるつもりはない。教室を出ると、朝比奈のいる七組へと向かった。

 七組の教室を覗き込むと、朝比奈が数人の女子に囲まれていた。あれやこれやと質問されているのを、「いやあ、どうかなあ」と笑ってはぐらかしているようだ。

 せっかく来たものの、この状況で朝比奈を呼び出すのは気が引ける。引き返すべきか悩んでいると、こちらに気付いた朝比奈がぱっと表情を輝かせた。


「あっ、高辻くん!」


 朝比奈は「ちょっとごめんねー」と女子たちに断ってから、おれの元へと駆け寄ってきた。残された女生徒がこちらを見ながら「まさか」「いやでも」と目配せをしているのを見て、なんとなく居た堪れない気持ちになる。妙な噂話に巻き込まれなければいいのだが。

 廊下に出てきた朝比奈は、にこやかな表情でおれの背中を押した。人気の少ない階段の踊り場まで来たところで、「助かったよ」と溜息をついた。貼りついたような笑みは失せて、やや気怠そうな表情を浮かべている。


「次から次へと話しかけられて、昼メシ食べる暇もなかったんだ。パン食べてもいい?」

「……勝手にしろよ」

「食べながら聞くよ。どうかした?」


 朝比奈は袋から焼きそばパンを取り出すと、大きな口を開けてかぶりついた。おれは腕組みをして、階段の手すりにもたれかかった。


「……彼女できたって?」


 おれの質問に、朝比奈は動揺することもなく「うん」と頷いた。もぐもぐと焼きそばパンを頬張っている。美味そうなソースの匂いが漂ってきて、なんだか腹が減ってきた。さっき弁当は食ったのだが、ちょっと物足りなかったのだ。


「高辻くんも知ってたんだ。なんかすごい広まってるみたいだね。僕は別にいいんだけど、彼女に怒られそう」


 そう言って肩を竦めた朝比奈の口許は、だらしなくにやけていた。彼女というのは、おそらく石蕗花梨のことだろう。おれはわざわざ、こんなところまでノロケ話を聞きに来たわけじゃねーぞ。


「……柚子、このこと知ってんの」


 おれの問いに、朝比奈は首を斜めに傾けた。色素の薄い髪がさらさらと揺れる。


「いや、どうだろ。僕は言ってないけど、そんなに噂になってるなら蓮見さんも知ってるんじゃないかな。もしかしたら、花梨が……彼女が直接言ってるかも」

「……それはちょっと、無神経すぎねえ?」

「なんで? 前から思ってたけど、高辻くんたぶん変な勘違いしてるよね」

「勘違い?」

「知らない。んなもん、自分で考えろよ」


 意外と早く焼きそばパンを食べ終えた朝比奈は、パンの袋をぐしゃりと握り潰した。この男、おそらくおれが思うよりも気が短い。早々に退散した方が良さそうだ。


「……呼び出して悪かったな」

「僕は別にいいよ。むしろ昼ごはん食べれてよかった」


 そう言って朝比奈は片手をひらひら振った。ニコリと天使のような笑みを浮かべて、意地悪く付け加える。


「蓮見さんによろしくね」


 ……言われなくても、柚子のことは責任持っておれがちゃんと慰めてやるよ。

 早くフラれておれに泣きついてこればいい、なんて考えていたわけではないけれど、それに近しい感情を抱いていたのは確かだ。柚子の泣き顔が頭をよぎって、おれの胸は罪悪感でチクリと痛んだ。





 いつものように教室までわたしを迎えに来てくれた朔ちゃんは、やけに言葉少なだった。駅に向かう道を歩きながら、唇をへの字に引き結んでいる。ポケットに手を突っ込んで虚空を睨みつけている朔ちゃんの横顔を見上げて、わたしは彼の学ランの袖を引いた。


「さ、朔ちゃん。さっきから怖い顔してどうしたの?」

「……柚子。ちょっとそこ寄ってこうぜ」


 そう言って朔ちゃんが指差したのは、駅前にあるカフェだった。表には期間限定のホワイトチョコベリーフラペチーノの看板が出ていて、わたしの心をぐっと揺さぶる。絶対食べたいと思ってたやつだ。


「期間限定のやつ、今日からだろ。奢ってやるから」

「いいの?」


 朔ちゃんがスタスタと店内に入っていくのを、わたしは慌てて追いかけた。朔ちゃんはカウンターでフラペチーノとホットのカフェラテを注文する。

 商品を受け取ると、二階の奥にあるソファ席が空いていたので、そこに並んで腰を下ろした。ソファはふかふかだし、向かい合って座るよりも朔ちゃんとの距離が近くてちょっと嬉しい。


「朔ちゃんカフェラテにしたの? 珍しいね。いつもブラックなのに」

「柚子、飲みながらでいいから聞いて」


 朔ちゃんはわたしの質問には答えず、真面目な顔で切り出した。わたしも慌ててピンと背筋を伸ばすと、頷く。


「……朝比奈の話、聞いた?」

「あ、花梨先輩と付き合い始めたって話? うん、花梨先輩から聞いたよー」


 深刻な口調だから何事かと思えば、ハッピーなニュースだった。朔ちゃんが言い出さなければ、きっとわたしから話題にしていただろう。

 昨日の夜、花梨先輩からメッセージが届いた。内容は端的に、「碧と付き合うことになった」とだけ書かれていた。花梨先輩は絵文字もスタンプも使わないからわかりにくいけど、わたしにこんなメッセージを送ってくるぐらいには喜んでいるんだろうな、とわかった。わたしは心を込めて、全力の「おめでとうございます!」を返した。

 花梨先輩は「他の人には内緒にしてて」と言ったけれど(「朔ちゃんには言ってもいいですか」と訊いたら、「あの子は別にいいよ、どうでも」と返されてしまった)、朝比奈くんに恋人ができたという噂は一瞬で広まってしまった。どうやら朝比奈くんに告白した女の子が、「付き合ってる人がいるからごめんね」とフラれたことがきっかけらしい。お昼休みに会ったとき、花梨先輩は「黙ってろって言ったのに」といたく憤慨していた。


「二人とも美男美女だし、とってもお似合いだよね」


 わたしの言葉に、朔ちゃんはなんだか変な顔をして、カフェラテを口に運んだ。わたしは太いストローを咥えて、フラペチーノを啜った。美味しいけど冷たい。店の中は温かいけれど、外に出ると身体が冷えてしまいそうだ。


「……ショックじゃねーの?」

「なんで?」

「おれ、柚子のこと慰めようと思ってたんだけど」


 わたしはぱちぱちと瞬きをする。今のところ、わたしが朔ちゃんに慰められる謂れはない。キョトンとしているわたしを見て、朔ちゃんはおそるおそる尋ねてきた。


「……おまえの好きな奴って、もしかして朝比奈じゃない?」


 じっとこちらを見つめた朔ちゃんの問いに、わたしは思わずフラペチーノを吹き出しそうになってしまった。

 ……わたしの好きな人が、朝比奈くん? そんなまさか。もしかして朔ちゃん、ずっと勘違いしてたの?

 ぽかんとしているわたしの反応を見て、朔ちゃんはあからさまに動揺しながらわたしの両肩を掴む。


「え、じゃあ誰だよ。まさかほんとに充とかじゃねーよな? それはさすがに全力で止めるぞ」

「あ、あの……朔ちゃん」


 更に勘違いを重ねようとしている朔ちゃんを、わたしは慌てて遮った。

 勘違いをした朔ちゃんを責めることなんて、わたしにできるはずもない。そもそも「好きな人がいる」だなんてことを言って、朔ちゃんを試そうとしたわたしが悪いのだ。わたしは朔ちゃんの方に向き直ると、身体を二つ折りにして深々と頭を下げる。


「……ごめんなさい」


 突然のわたしの謝罪に、朔ちゃんは目を丸くした。わたしは顔を上げると、スカートの上で両の拳をぐっと握りしめた。


「……あの。わたし、好きな人がいるから応援して欲しいって言ったの……あれ、嘘なの」

「……は……はあ?」


 朔ちゃんはぽかんと口を開けて間抜けな声をあげる。握りしめたてのひらが、じんわりと汗ばんでいく。朔ちゃんは怪訝そうに眉を寄せて尋ねてきた。


「……じゃあ柚子、好きな奴いないってこと?」

「……す、好きな人は…………い、います」

「え? はあ……? んだよ、それ」


 わたしの答えに、朔ちゃんはがっくりと肩を落とす。まるでくるくる回るジェットコースターのように、彼の感情が猛スピードで動いているのがわかる。いたずらに混乱させてしまって申し訳ない。


「す、好きな人がいるのは本当だけど……応援して欲しいのは嘘。……朔ちゃんの知らない人っていうのも、嘘」

「……え。柚子、それって」

「でも、お願い。今は何も訊かないで……ごめんなさい」


 喉から絞り出した声が、みっともなく震えた。

 朔ちゃんは今、何を考えているんだろう。もしかすると、もうわたしの気持ちに気付いてしまったかもしれない。わたしが一番恐ろしいのは、朔ちゃんがわたしのために自分の気持ちに嘘をついてしまうことだ。わたしは朔ちゃんの顔を見るのが怖くて、下を向くとぎゅっと固く目を閉じた。


「……わかった」


 朔ちゃんは諦めたように溜息をつくと、わたしの肩を優しく叩く。おそるおそる顔を上げると、目の前の朔ちゃんは優しい表情で微笑んでいた。


「早く飲めよ。溶けるぞ」

「う、うん……」


 わたしは再びフラペチーノのストローに口をつけると、溶けかけたクリームをずるずると啜る。

 飲み終えた頃にはすっかり身体が冷えていて、朔ちゃんは自分のホットカフェラテをわたしに飲ませてくれた。ブラック派の朔ちゃんがカフェラテを注文した理由がようやくわかって、わたしは嬉しいのにちょっと泣きたくなってしまった。

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