夏の魔物①
「朔ちゃん、こんにちは」
夏休みが始まって一週間。クーラーの効いた部屋でダラダラと無益な時間を過ごしていたおれのところに、突然柚子がやって来た。父は仕事、母は買い物に出かけており、弟は部活に行っているため、この家にいるのはおれ一人だけだ。
ふわふわの髪を頭の後ろでひとつにまとめた柚子は、スタスタとおれの部屋に入ってきて、ベッドの上にぽすんと腰を下ろす。それほど散らかってはいないし、柚子に見られてまずいものが(簡単に見つかるようなところには)あるわけではないけれど、なんとなく落ち着かない気持ちになる。
テーブルの上に置いてあるスポーツドリンクのペットボトルを指差して、柚子は「一口ちょうだい」と言った。おれは無言でペットボトルを柚子に手渡す。さっきまでおれがラッパ飲みしていたものだが、柚子は躊躇いなく直接口をつけた。白い喉がこくこくと動いて、おれはそこから視線を引き剥がす。ペットボトルのキャップを丁寧に閉めた柚子は、ニッコリ笑って言った。
「ねえ朔ちゃん、一緒に海行こうよ」
「ダメだ」
おれは渋い表情を浮かべて即答する。いくら可愛い柚子のお願いといえど、すべてを無条件に受け入れられるわけではないのだ。
柚子は悲しげに眉を下げて、「なんで?」と首を傾げた。
「海はいろんな意味で危険が多すぎる」
おれたちの家から一番近い海水浴場は電車で一時間ほどの場所にあるが、このあたりでは有名なナンパスポットである。そんなところに、水着姿の柚子を連れて行くわけにはいかない。それに柚子はカナヅチだから、うっかり波に攫われて溺れてしまうかもしれない。
「じゃあ川は?」
「川を舐めるな。毎年川で何人死んでると思ってる。どうしてもって言うならライフジャケット着ろ」
「うーん、せっかくかわいい水着買ったのになあ……」
柚子は不服そうに唇を尖らせた。夏休み前から水着が欲しいとは言っていたが、結局買ったのか。別にそんなの買わなくてもスクール水着で充分なのに、色気づきやがって。
「じゃあ、プール行こうよ。ちょっと遠いけど、桜ヶ関パークの中に新しくできたプールあるでしょ。あそこ、おっきいウォータースライダーもあるんだって」
尚も食い下がってくる柚子に、おれは思案した。あそこなら家族連れがほとんどだろうし、ナンパを仕掛けてくるような輩も少ないだろう。カナヅチの柚子でも充分に楽しめそうな場所だ。
おれは少し考えた後、「わかった」と答えた。柚子のお願いはできる限り聞いてやりたい。それに、本音を言うなら――おれだって、柚子の水着姿が見たくないわけではなかったのだ。
その翌日、おれと柚子は早起きをして、電車を二本乗り継いで市外にあるプールへと向かった。
電車を降りて改札を出ると、ジリジリと焼けつくような日差しが容赦なく降り注いでいる。アスファルトから立ちのぼる熱気が身体にまとわりついて、じわじわと額に汗が滲んでいく。最寄りの駅から目的地までの道のりはほんの十分ほどなのに、すでにかなり体力が削り取られてしまった。隣を歩く柚子も、暑さのせいかややぐったりしているように見える。柚子はおれよりも小さいから、熱を持った地面が近くて、もっと暑く感じるのかもしれない。
おれはかぶっていたキャップを脱ぐと、柚子の小さな頭にぽすんとかぶせた。気休めかもしれないが、ないよりはマシだろう。柚子は顔を上げて「ありがとう」と微笑んだ。熱を持った柔らかな手を握りしめて、おれは柚子を引っ張るようにずんずんと歩いて行く。
巨大な公園の一角にある、夏季限定のウォーターパークは、大勢の人間でごった返していた。涼を求めて来たつもりが、これでは逆に暑苦しいくらいだ。二人分のチケットを買って中に入ると、柚子を更衣室の前まで連れて行って、「外出たところで待ち合わせな」と約束をして別れる。
さっさと水着に着替えて上からパーカーを羽織ったおれは、女子更衣室の出口のそばで柚子を待っていた。恋人や家族を待っているのだろうか、周囲にはおれと似たような男が手持ち無沙汰に立っているのが見える。
そういえば柚子がどんな水着を買ったのか、おれは見せてもらっていなかった。恥ずかしがり屋で控えめな柚子のことだから、そんなに露出の高いものは選ばないと思うが――
「さ、朔ちゃん。お待たせ」
こちらに駆け寄ってきた柚子の姿を見て、おれは完全にフリーズしてしまった。
予想に反して、柚子の水着は露出の高いビキニだった。胸元を覆う花柄のフリルからはしっかりと谷間が見えていて、柚子が走るたびに胸が揺れる。腹の中心にある小さな臍も、きゅっとくびれた細い腰も、ほどよく肉のついた柔らかそうな腿も、すべて剥き出しになっている。
おれは危うく「今すぐ帰ろう」と口走ってしまうところだった。今ここでそんなことを言えば、柚子をきっと悲しませてしまうだろう。それは嫌だ。ようやく正気に返ったおれは、ぶんぶんと頭を振って水着姿の柚子と向き合う。夏の幻ではなく、目の前の柚子は本当にビキニを着ていた。
「……それ、新しいやつ?」
「う、うん……変かな?」
「露出少ないやつにしろって言ったのに……」
「……やっぱりわたしには似合ってない? 可愛くないかな?」
柚子が自信なさげに俯く。おれは零れ落ちそうになっている胸元から目を逸らして、やっとのことで「……似合ってるよ」と答えることができた。
可愛いか可愛くないかと問われたら、間違いなく可愛い。おれの幼馴染は世界一可愛いに決まっている。しかし、この理性を奪うほどの暑さの中では、あまりにも――刺激が強すぎる。ギラギラと燃える凶悪な太陽の下、おれは頭がくらくらしてくるのを感じていた。一体誰に見せるつもりだったんだ、と考えて、余計にむかっ腹が立ってくる。
「……朔ちゃん、日焼け止め塗ってくれない? 腕とかには塗ったんだけど、背中まで届かなくて」
おれの手を引いてパラソルの下まで移動した柚子は、透明なビーチバッグから日焼け止めを取り出した。はいと手渡されて、おれは反射的にそれを受け取ってしまう。柚子は無防備に背中を向けた。
おれのものとはまったく違う、ふわふわと柔らかそうで丸みを帯びた身体。彼女はおれとは違う生き物なのだということを、まざまざと思い知らされる。セミロングの髪はポニーテールに結われていて、少し汗ばんだ真っ白いうなじが目の前にある。首の後ろで結ばれた紐をほどいてやりたい、と思ってしまったおれは、柚子のリボンを引っ張って泣かせていたあの頃からまったく成長していないのかもしれない。いや、むしろどうしようもなく成長してしまったのだろうか。
「朔ちゃん、お願い」
おれは覚悟を決めた。柚子は純粋な気持ちでおれにお願いをしているのだから、妙な下心を抱くことなど絶対にあってはならない。
てのひらに日焼け止めを出して、おそるおそる柚子の背中に触れた。すべすべとした素肌は、想像よりもずっと柔らかい。首の後ろで結ばれた紐は、軽く引っ張ると簡単にほどけてしまいそうでヒヤヒヤする。肩から腰のあたりまでまんべんなく日焼け止めを塗り込むと、柚子が「くすぐったい」と身動ぎをする。その声の甘さが余計なことを想起させて、おれは慌てて、母親の顔を思い浮かべて気持ちを落ち着けた。ついでに、柚子の母の顔も思い出す。朔ちゃんになら柚子を安心して任せられるわ、という信頼に満ちた表情が脳裏をよぎって――ようやく、頭が冷えた。
「……はい、できた」
「ありがとう」
おれは柚子に日焼け止めを手渡すと、小さく溜息をついた。「朔ちゃんにも塗ってあげようか」と言われたけれど、丁重にお断りする。今この状態で柚子に身体を触られるのは、ちょっとやばい。
「朔ちゃん、行こ」
そう言って柚子は、無邪気におれの腕に抱きついてきた。いつもの制服姿ならまだしも、水着姿でそんなことをされるのはまずい。柔らかな膨らみが押しつけられて、冷えたはずの頭に再び血がのぼる。たぶん、頭以外のところにも血液が集中している。おれは慌てて柚子を引き剥がした。
「いや、悪い、ちょっと待って……」
諸事情により動けなくなってしまったおれは、立ち上がれるようになるまでに、もう一度母の顔を思い浮かべなければならなかった。
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