スタンド・バイ・ユー
幼馴染の朔ちゃん――
わたしが物心ついた頃にはもう、朔ちゃんはわたしのそばにいた。わたしはぼんやりしていて友達の少ない子どもだったから、朔ちゃんに構って欲しくて、彼の背中ばかりを追いかけていた。朔ちゃんはときおり面倒臭そうにしていたけれど、決してわたしを置いていったりはしなかった。朔ちゃんは引っ込み思案なわたしの手を引いて、わたしの知らない世界をたくさん見せてくれたのだ。いろんな意地悪もされたけれど、わたしはそんな朔ちゃんのことが大好きだった。
そんなわたしたちの関係は、わたしが怪我をしたことをきっかけにガラリと変わってしまった。
フェンスから落っこちた瞬間の光景も、額の怪我の痛みも、病院に駆けつけてきたお母さんの顔も、もうほとんど覚えていない。それでもわたしは、今でもあのときの朔ちゃんの泣き顔だけは、ありありと思い出すことができる。
わんわん泣き喚く彼を目の当たりにしたわたしは、もう朔ちゃんは今までのようにわたしと遊んではくれないかもしれない、と思った。傷が残ることよりも、朔ちゃんがわたしから離れていくことの方がずっと怖かった。縋りつくわたしに、朔ちゃんは下唇を噛み締めて、何かを決意したような表情を浮かべていた。
それからというもの、彼のやんちゃさはぴたりと鳴りをひそめた。わたしを危険な遊びに誘うこともなくなったし、わたしをいじめて泣かせることもしなくなった。むしろわたしがピーピー泣いていると、血相を変えてすっ飛んでくるようになった。わたしをからかう上級生の男の子に歯向かって、大喧嘩をしたこともある。わたしは上級生にからかわれたことよりも、殴られた朔ちゃんが傷だらけになっていることが悲しくて泣いてしまった。朔ちゃんは殴られたことよりも、わたしが泣いていることの方がずっと辛そうだった。
目に見えて過保護になった朔ちゃんに、最初のうちはお母さんも「そのうち朔ちゃんも彼女なんかができたら、柚子に構わなくなるわよ」と苦笑していたけれど、中学を卒業して高校生になっても、朔ちゃんの過保護ぶりはとどまるところを知らなかった。むしろ、どんどん悪化しているような気さえする。
あの日の傷跡は、今もわたしの額にうっすらと残っている。額のど真ん中に、斜めにまっすぐ。長さにすると三センチくらい。ほとんど目立たないし、わたし自身はそんなに気にしていない。それでもわたしの傷を見る朔ちゃんがとても悲しげな顔をするので、わたしはいつしか前髪を伸ばして傷を隠すようになった。
朔ちゃんは、まるでガラス細工でも扱うかのように、わたしのことを大事に大事にしてくれる。それでも、それはわたしが彼に対して抱いているような感情とはまったく質が違うことに、わたしはちゃんと気付いている。
「柚子、帰るぞ」
ショートホームルームが終わると同時に、朔ちゃんがひょっこりと教室に顔を出した。まだ机の上にノートや教科書を散らかしていたわたしは、慌ててそれを鞄の中にしまう。
朔ちゃんがいる三組の担任はちょっと面倒臭がりで、夕方のショートホームルームを数分で切り上げてしまう。逆に、わたしがいる四組の担任である中山先生は真面目な性格で、いつも十分間いっぱいに時間を使っている。今日も朔ちゃんは、わたしのクラスが終わるまで廊下で待っていてくれたのだろう。
「蓮見さん、今日もダーリンのお迎え来てるよー」
廊下側の一番前に座っていたクラスメイトが、大きな声で叫んだ。クラス中の注目が集まって、真っ赤になったわたしは鞄をひっくり返してしまう。教科書がバサバサと床の上に落ちるのを、慌てて拾った。
毎日懲りもせずわたしを迎えに来る朔ちゃんに、みんなは最初こそ好奇の視線を向けていたけれど、入学して一ヶ月も経つ今はもうすっかり慣れっこになっていた。陰でこっそり「蓮見さんの忠実な番犬」呼ばわりされていることも知っている。朔ちゃんは今も、忠犬よろしくわたしのことを待っている。
「うわ。高辻来てる」
わたしの前に座っていた
しかし茉由ちゃんは朔ちゃんのことをあんまり快く思っていないらしく、毎日彼が迎えに来るたびにちょっと嫌そうな顔をしている。茉由ちゃんはポニーテールを揺らして、不満げに唇を尖らせた。
「毎日毎日よくやるよね。早く付き合っちゃえばいいのに」
「……む、無理だよ」
わたしは教科書をパンパンに詰めた鞄のファスナーをやっとのことで閉めると、「じゃあまたね」と茉由ちゃんに手を振った。茉由ちゃんは笑顔で「また明日ー」と答えてくれる。廊下で待つ朔ちゃんの元へ駆け寄ると、わたしたちは肩を並べて帰路についた。
わたしたちの通う高校から自宅までは、電車に乗って十分ほどかかる。偏差値はそこそこ、中の上といったところだけれど、お世辞にも成績優秀とはいえないわたしは死ぬ物狂いで受験勉強をした。朔ちゃんが辛抱強くわたしの勉強に付き合ってくれた甲斐もあり、わたしは無事合格できた。
隣を歩く横顔を見つめながら、朔ちゃんと同じ高校に入れてよかった、とわたしはうっとりする。高校の制服である学ラン姿もとても素敵だ。小学校のころまでわたしと同じぐらいだったはずの目線は、今は十センチ以上高いところにある。さりげなく歩幅を合わせてくれていることに気がついて、わたしの手を無理やり引っ張っていた朔ちゃんはもういないんだな、とちょっと寂しくなった。
この時間の電車は普段それほど混まないけれど、今日は外国人観光客の団体がホームにたむろしていた。朔ちゃんはちょっと心配そうにこちらを振り向いて、わたしがついてきていることを確認する。
「柚子、ちゃんといる?」
「い、いるよ。子どもじゃないんだから、一人でも大丈夫だよ」
「あ、そう。そっちの電車、快速だからおれらの駅止まらねーけど」
ちょうど停車していた電車に自信満々に乗り込もうとしたわたしの腕を、朔ちゃんはぐいと掴んだ。そのままわたしの腕を引いて、反対側に到着した電車に乗り込む。わたしは恥ずかしくなって俯いてしまった。こんなんだから、いつまでたっても朔ちゃんに子ども扱いされてしまうのだ。
そのまま電車に揺られて、よっつめの駅でわたしたちは降りた。わたしたちの家は駅から歩いて数分のところにある。駅前にあるスーパーから、よく見知った女性が出てくるのが見えた。朔ちゃんのお母さんだ。
「あっ、朔ちゃん! 柚子ちゃん! おかえり!」
「げっ」
目敏くわたしたちを発見したおばさんに、朔ちゃんは嫌そうに顔を顰めた。大きな声で「朔ちゃん」と呼ばれたことが不満だったのだろう。幼い頃からの呼び名を今の彼はあまり気に入ってないみたいだけど、わたしに対しては文句を言ってこない。
「朔ちゃん、ちょうどよかったー。悪いけどこれ、持って帰ってくれない? お母さん、今から郵便局行ってくるから」
「ええ……」
重そうなエコバッグを手渡された朔ちゃんは、渋々といった様子でそれを受け取る。おばさんはにっこり笑って、わたしに白くて四角い箱を手渡してきた。
「じゃあ、これは柚子ちゃんに。パティスリー・モリのケーキ。よかったら、うちで朔ちゃんと一緒に食べて行って」
「わあ! ここのケーキ、美味しいよねえ。おばさん、ありがとう」
「朔ちゃん、ちゃんとお茶とか用意してあげてね」
そんなこんなで、わたしはなりゆきで朔ちゃんのおうちに行くことになった。玄関に入ったところで「ちょっと待ってて」と制止されて、朔ちゃんは慌ただしく二階へ上がっていく。ほどなくして、「入っていいよ」という声が聞こえてきたので、わたしは「お邪魔します」と言ってから、ローファーを脱いで朔ちゃんの部屋へと向かった。
お隣に住んでいるわたしは、朔ちゃんの部屋にしょっちゅう来ているけれど、いつ来てもわりと片付いている。一般的に言われるような高校生男子の部屋のイメージよりはかなり綺麗だ。もともと、物が少ない方なのかもしれない。ベッド脇にあるゴミ箱も空っぽになっていた。
わたしが朔ちゃんのベッドに座っていると、朔ちゃんはトレイにアイスティーとケーキを乗せて部屋に戻ってきた。そのまま、床に敷かれたカーペットの上に腰を下ろす。朔ちゃんもわたしの隣に座ってくれればいいのに、なんとなくよそよそしい距離感だ。わたしはケーキを食べるのも忘れて、彼のことをじっと見つめていた。
見れば見るほど、好きだな、と思う。黒くて堅そうな髪の毛も、つり上がった切れ長の瞳も、ちょっと不機嫌そうに歪められた口元も。生まれた時からずーっと一緒にいるから、あんまり意識していなかったけれど、朔ちゃんは一般的に見てかなり整った顔立ちをしている。高校に入ってから、朔ちゃんのことを「かっこいい」と噂している女の子を何人も目撃した。
「……なに、じろじろ見てんの?」
わたしの視線が気になるのか、朔ちゃんがやや居心地悪そうに身動ぎをする。はっと我に返ったわたしは、慌てて笑って誤魔化した。
「な、なんでもない。そういえば、このあいだうちのクラスの女の子が朔ちゃんのことかっこいいって言ってたよ」
「ええ? 冗談だろ。おれ全然モテねーもん」
朔ちゃんはあんまりピンときていないみたいで、怪訝そうにケーキを口に運んでいる。
中学時代の朔ちゃんがモテなかったのは、ひとえにわたしへの過保護な態度が要因なのだけれど、本人はそれに気付いていないみたいだ。普通に考えて、彼女よりも幼馴染の女の子を優先する彼氏なんて、絶対に付き合いたくないと思う。
「……朔ちゃんは、彼女欲しいと思う?」
尋ねてから、訊くんじゃなかった、とすぐに後悔した。もし「欲しい」と言われたら、わたしはたぶん落ち込んでしまう。朔ちゃんに彼女ができないのは、他でもないわたしのせいなのだから。
しかし朔ちゃんはわたしの問いには答えず、質問に質問で返してきた。
「柚子は?」
「え?」
「柚子は、彼氏欲しい?」
わたしはそのとき、付き合っちゃえば、という茉由ちゃんの言葉を思い出した。たぶん朔ちゃんは、今ここでわたしが「付き合って」と言えば、きっと頷いてくれる。朔ちゃんはわたしの頼みを絶対に断らないから。でも、それはわたしのことが好きだからじゃない。
わたしは下唇を緩く噛み締めてから、ゆっくりと口を開いた。
「……朔ちゃん、わたしね。好きな人がいるの」
わたしの言葉に、朔ちゃんは目を見開いた。そこにあるのは純粋な驚きだけで、悲しみの色はまったく見えない。わたしは半ば賭けをするような気持ちで、彼に尋ねた。
「……朔ちゃんは、わたしのこと応援してくれる?」
わたしは知っている。朔ちゃんは、わたしのお願いを絶対に断らない。それでも、ここで一言彼が「応援できない」と言ってくれたなら――そうすればわたしは彼に向かって、堂々と告白できるのに。
しかし彼は無情にも、迷わず即答した。
「わかった」
すとん、と心臓がおなかの底に落っこちたかと思った。背中がすうっと冷たくなって、アイスティーのグラスを持つ手が小刻みに震える。
……ほらね、やっぱり。朔ちゃんがわたしのことを大事にしてくれるのは、ただの罪悪感でしかないのだ。
わたしは溢れそうになる涙を必死で堪えながら、無理やり口角を上げて笑ってみせた。「ありがとう」という心にもない言葉は、わたしの想像以上に寒々しく響いた。
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