天の使徒

すれぷと

プロローグ:飽和する、むつき

 私は二階からぼんやりと外を眺めていた。別に何もすることがなかったから、と言うわけではない。むしろありすぎるのだ。


 そう考えると、私のこれからはこれまでより随分と生産性のある暮らしなのかも知れない。私にとってはもう、三平方の定理も、枕草子の暗唱も、プレートテクトニクス理論も使うことのないものだ。


 友達だって、元々引っ込み思案な性格だから元々そんなにいないんだけれど、どちらにせよ消えていくのがわかるのなら必要ない。


 だから、これからのありすぎることを考えることはそれらに比べれば生産性のある時間なのだ。私はまた、殻に籠る。


 夜風を浴びて、かじかんだ手を擦りながら息をひとつ吐いた。吐いた息は飽和しきれずに空気を白く濁していく。息の行方を見届けると、頭上にはオリオンが輝いていた。


 冬の象徴とも実感させられる輝かしさとは裏腹に、毒刃によって痛々しく刺し殺された彼の姿がそこにはあった。


“私のこれからみたいだ“


 私も彼のようになっていくのだろうか。つい、私の境遇と重ねてしまうのは私の悪い癖だ。ただ、そう思わずにはいられない。彼のように痛々しい姿と化した私の姿が、鮮明に波面に映った。


 彼が映った水面が揺れる。私は何かを感じて焦点を合わせた。こんな状況なのに興味はつかないものなのか。私はつい笑ってしまう。……ただの苦笑だ。


「……え」


 それ、は突然だった。私は目を見張る。あまりの非現実さに今度は思わず失笑した。空想を見るほど病んでいたのかと。


 思わず、左頬をつねってみたが寒さで増した痛みがこれが現実だと示してくれた。それでも私はどこか夢見心地だった。


 そらが、溶け出した。


 飽和しきれなくなった名もなきそれは、夜を滲ませていった。ペンキを垂らしたようにしながら水面の先の森をドロっと覆い隠していく。葉が擦れ合わさる音色が止んだ。


 壮麗なほど静かな中、滲みに月明かりが屈折しているのか、そこだけがぼんやりとスポットライトに当てられているかのように照らされていた。


 屈折は水面に反射して一筋の光となる。電灯もない真っ暗な辺りがたったそれだけで華やかになる。今だけは、気にもしていなかったその森が私の視線を独占していた。


 その様は、幻想的で華麗で、なぜか悲愴ひそう的ですらあった。


 私は今の光景を忘れないようにこの目に焼きつけた。たとえ死んでも忘れないように。


 それからもしばらく目を離せなかったのだが、ようやく薬が効き始めたのか、「ふわぁ」とあくびが出る。どうやら、こんな状況下でも睡眠欲というものには勝てないらしい。左頬の痛みに耐えながらそっと瞳を閉じて欲望のなすままに眠りについた。


 翌日、森は元々なかったかのように、更地になっていた。誰も、あそこに森などなかったと云った。


 私は、あの光景をもう一度見たいと、願った。


 私は、あの森のようにだけはなりたくないと、誓った。


 ……私が、これからどうするかが、決まった。



 * * * * * *



 外では、雨が降っていた。夕方やっていたニュースによると、今年は梅雨が長引くらしい。


「あれからもう3年か」


 僕は、パソコンに向かい合いながらふと独り言をこぼす。あの時から執筆していることを考えるともう随分、彼女と向き合っていた。まだ、彼女の望みを叶えられてはいない。


 ラグに転がり込んで、ベットの上に置いてある『よだかの星』をぐぅっと手を伸ばして掴む。もう随分と黒くくすんでしまった表紙をめくり、パラパラと目読した。


 最後の文字までしっかりと読んで、噛み締めて、元いた場所に丁寧に返した。彼女の想いだけをまた受け取って。


「よいしょっと」


 助走をつけて体勢を元に戻した。ラグがずいッとズレたのを直してから背伸びをする。僕はあの頃は飲めなかったブラックを眠気覚ましに流し込み、止まっていた手を動かした。


 また、あの頃の記憶の残滓ざんしが、苦味とともに飽和しきれずに溶け出した。


 まだ、雨は降り止みそうにない。


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