空蝉の声はうたかたに溶けない
市亀
現在-1
人間の異常事態にお構いなく元気な蝉の声が、当直明けで疲れ切った僕の脳を刺々しく揺らす。病院を囲む木々の上、見えはしないそれらへと目を細めてから、夕日の方向へと帰路につく。
小児科医として四年目の夏。春から続く感染症騒ぎがもはや日常になりつつあるとはいえ、医療現場の異様な疲労感は続くばかりだった。こんなときこそ輝くのが自分たち……という理想的な構図は、ありえないとは言い難いが、僕の肌感覚からすると随分と遠い。
カシャリ。爪先で弾けた妙な音に足元を見やると、蝉の抜け殻を踏みつぶしてしまったようだ。自然に落ちたとは考えにくい位置、拾ってから捨てていった子供でもいたのだろうか。
「……うつせみ、だっけ」
空蝉。蝉の抜け殻。その言葉を教えた彼女のことを思い出すたび、つくづく自分に似合う言葉だと自嘲せずにいられない。嗄れるほど叫んで、涸れるほど励んで、過去に追われ未来へと駆け続けたその先で。魂が抜けたように惰性で日々を送る今の僕は、踏みつぶしたばかりの抜け殻にひどく似ていた。簡単につぶれてくれないだけ、僕の方がよほど醜い。
取り立てて他人に害をなす訳ではない。三十路の男としてはともかく、医師として最低限の職分を果たしているつもりだ。
だとしても。遠い昔から抱いてきた志の、叫びたいほどの純粋さは面影すらない。
あれだけ救いたいと願った小さな命が、狂おしいほどの願いを裏切って消えていくことに、心はすっかり馴れてしまった。諦めが許されたことへの安堵さえあった。
救いを求める人には到底見せられないほど、心は曇りきってしまったのに……曇りきってしまったからこそ、だろうか。
この道を目指すと決めた、あの夏の日。彼女の面影は、彼女と駆け抜けた世界は、記憶の中で眩しさを増し続けていた。
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