皇国の影と闇
明後日には夏の戦に行っていた皆が戻って来る。
その翌日が安息日で休み明けから大祭が始まるという。
ガルフの店は今、準備に大忙しだ。
屋台店舗も各店も、大祭の仕込みに入っていて勉強会は暫くお休み。
通常営業が終わると郊外ガルフが作った燻製小屋に力のある男衆は移動してベーコンやソーセージの燻製作りに励んでいる。
女子は主に収穫が始まったばかりのサフィーレ、ピアン、そして季節も最後のオランジュのジュースとジャムとコンポート作り。
「多分、どれだけあっても足りなくなるからな。頑張ってくれ」
ガルフは皆をそう言って励ました。
時間外労働になってしまったりもするのだけれど、その分給料も弾まれているので文句を言う人はいない。
むしろ喜んで働いてくれている。
私は一緒に本店の厨房で料理作りに励んでいた。
…護衛のティラ様もお手伝い下さっている。何故か。
「料理の知識がないものが見ただけで簡単に再現できるものでは無い事は解っているけれど、この店の料理に興味があるの。
手伝える事があるなら手伝うから、厨房に入れて貰ってもいいかしら」
「…館で作られるのは構いませんが、お城とかで使わないで下さいね」
「それは勿論。使う時にはちゃんと許可を取ってお金を払うわ」
鍋に向かうティラ様は実に楽しそうだけれど、ガルフの顔色はあんまり良くない。
まあ、当然だ。
皇族の貴婦人にジャムの灰汁とりとかさせていいのかって、私だって悩む。
でもとにかく人手は足りないし、ティラ様にはもうレシピを隠す意味とかあまりないし。
この店一番の秘密のベーコンの燻製はここではやっていないし。
ティラ様はこの店のレシピを見る事ができる。
私達は手伝いが増える。
WinWinの関係だと割り切ることにした。
…明日までの事でもあるし。
「オランジュの皮は捨てないで集めておいて下さいね」
「大変そうね。ちなみに大祭で何を出す予定か聞いてもいい?」
「今のところは、屋台店の定番料理 ベーコンの串焼き、ソーセージの串焼き、焼き鳥、あとハンバーグを棒につけて焼いたものを。
あと、魔術師が戻ってくる予定なので持ち運びタイプの竈と鉄板を使って薄焼きクレープを作る予定です」
クレープなら薄いのですぐ焼いて出せる。
ある程度焼いておくこともできるので、屋台にはぴったりだ。小麦粉も節約できる。
目の前でクレープを焼いて、ジャムやコンポート、シロップ、薄切りハムにマヨネーズを付けたものなどを出せば、かなり人気が出ると思う。
本当はジュースやスープとかも出したいところだけれど、容器の回収と洗い物の関係があるので今回は断念した。
ああ、紙コップやスチロール皿が愛しい。
竈を離れ、作業台で煮上がったジャムを瓶に入れる作業をしていたティラ様は
「あら?」
厨房の端にある書棚に目向ける。
視線の先にあるのは、レシピの木札が置いてある棚。
「あれは、料理レシピ?」
「そうです。料理法の確認と従業員の意識向上の為に置いてあるんです」
木札には一枚に一つずつこの店の料理レシピが書かれている。
ちなみに大げさかもしれないけれど、木札に穴を開け、鎖を通して棚に固定済み。
厨房からは持ち出し禁止なのだ。
「すごいわね。この店の料理が欲しければ全部覚えた料理人を引き抜けばいいのかしら?」
「…冗談でも止めて下さい。
一応、待遇には気を使ってるんですから」
文字を覚えて読むことが出来れば、料理の作り方を覚えられるけど、まだ識字率は高くないので全部の料理を作れるのは主任料理人くらい。
引き抜かれると真剣に困る。
「大丈夫だよ。マリカちゃん。
今のところは、どんなに待遇良くても、移動するつもりは無いから」
「ラールさん!!」
私達の会話を耳にしたのだろう。
本店の料理主任ラールさんが作業の手を止めアッシュブロンドを揺らして笑う。
外見三十代の優しい男性。
ガルフは店の立ち上げから一緒にやって来た信頼する人物の一人だと言っていた。
私にとっても孤立無援だった初期、最初に声をかけて仲間と認めてくれた大切な人だ。
「…あらあら、ごちそうさま。ちょっと見せてね。あら、これパウンドケーキのレシピ…」
「ティラ様! 流石にそれは…」
私は慌てて、書棚の木札に触ろうとするティラ様に駆け寄り引き留める。
いくらもうティラ様には情報がばがばでも、流石に読み書き完璧であろうこの方に、レシピを全部見せる訳にはいかない。
意味が分からなくても丸暗記されて、館の料理人さんに読ませられたりしたら筒抜けだ。
「冗談よ。情報の価値は解っているつもりですから
ただ、情報を手に入れる為だけにこの店に入り、覚えたら抜けるなんて者もいるかもしれませんから、気を付けなさい」
「そうですね。それは注意します」
一応、ガルフは雇う時、下町の貧民を中心に雇っている。
ついでに住居も提供する、という名目で従業員を一か所に住まわせているので今の所、情報漏えいの危険は少ないと思うのだけど…今後、注目を浴び続ければそういう輩も出てくるかもしれない。
ティラ様の言う通り、注意するに超したことはない。
「ごめんなさいね。仕事に戻りま…あら?」
「え?」
私達は二人そろって固まった。
視線はティラ様の手のレシピの木板へ…。
「どうかしたのかい?」
「あ、何でもないです。なんだか木板が取れちゃって」
「え?」
ラールさんの茶色い瞳が剣呑な色を宿した。
「多分鎖が劣化していたのかな? 後で点検し直してもう一度固定しておきますから」
「そうかい?」
「木板、ちょっと片付けてきますね。皆さん、少しここ宜しくお願いします」
「ああ、私も行くわ。護衛対象を一人にはできませんからね」
私は頷いてティラ様と一緒に厨房を出る。
振り返り、一度厨房を見つめてから。
「気付いている? マリカ?」
「はい」
厨房を出てすぐティラ様が手に持った木板を指し示した。
鎖のついていた木板の穴。
良く見れば穴の所には割れ目が入れられている。
そのせいで今、割れて木板が取れたのだ。
「これは…やすりか何かでしょうか?」
「多分ね。少しずつ時間をかけて目立たないように切り目を入れて行ったようよ」
「…木板を奪う事が目的だった?」
毎日帰りには戸締りと木板の数の確認はしている。
でも、厨房の戸締りは主任さんに任せる事も多いし、大祭前で忙しいし、最近は、課題として閉店業務の練習として希望の従業員さんに戸締り確認を任せることもあるから、鎖から木板が外れれば隙を見て持ち出すことは可能かもしれない。
直ぐに発覚はするけれど、そのまま逃げれば捕まえる事は難しい。
私はレシピを覚えているから、木板には触らない。
料理主任のラールさんは全部のレシピを覚えている。
そもそもラールさんは、本店でライオット皇子の注文する食事やデザートを作る人なのだ。
覚えたレシピのアレンジも始めているくらいなのでもう木板は必要としていない。
では、誰が?
私は、さっき厨房を振り返った時の事を思い出す。
確証がないのに人を疑うような事はしたくない。
けれど、一人だけいたのだ。
木板を持って部家を出た私を、絶望的な眼差しで見つめていた人物が…。
「レシピがここにあることを知って、誰かが命じて奪わせようとしたか、それとも従業員がレシピを売る為に持ちだそうとしたか。
どちらにしても金貨三枚で売り出されているレシピよ。
実行犯がその三分の一で雇われたとしても、ちょっとした額になるわ。
本当に気を付けなさい。どうやらこの店も一枚岩では無さそう」
「そう…ですね」
私は木板を見つめながら考えていた。
その人物…セリーナのことを。
戸締りを終え、いつもより遅くなった帰り道。
「ティラ様、少し遠回りしてもいいでしょうか?」
「いいわよ」
ティラ様の許可を貰ってガルフの店の女子寮の方を回ってみた。
一人身の女性はこの世界にそんなにいないけれど、悪い旦那に当たると不老不死なだけに地獄が永遠。
故に逃げ出し、路地裏からガルフに救われたり、ガルフの店に駆け込んだ女性もいるらしかった。
魔王城にいるティーナもそんな感じだったのだろう。
ガルフが借り上げた建物には今十人弱の女性が住んでいると聞く。
今まで足を運んだことは無かったけれど。
「あそこかな? あれ?」
今、誰かが家から出て来た。
もう周囲は薄暗くなってきているのに珍しい。
しかも出てきたのは…
「セリーナ?」
女の子が一人で、夕方の街に出て来るなんて。
心配で追いかけようとした私を
「待って」
「ティラ様?」
ティラ様が引き止めた。
「静かにして、後を追いましょう。
周囲を伺うような様子からして、おそらく誰かと会うつもりなのよ」
誰か…。
ハッと気づく。
「木板をもしかして渡す予定だったとか?」
「そうかもしれないわ。彼女のこと、気になっていたのでしょう?」
頷いた私はティラ様と一緒に息をひそめてセリーナを追う。
中央路地を少し行き裏路地に入り、城壁に向けて歩き出した彼女の背を追っていた私達は、セリーナが立ち止まったのを見て物陰から様子を伺う。
どうやら、誰かがいるようだ。
と思った次の瞬間
パーン!!
「え?」
乾いた音が響いた。
と同時、地面に崩れるように倒れるセリーナ。
「セリーナ…!」
とび出しかけた私は、強い力で手を引かれ抱き締められた。
羽交い締めのように動きを封じられそのまま口元を手で押さえられて言葉も閉じられてしまう。
黙って、と眼で合図するティラ様が向けた視線の先。
「失敗した、だと?」
セリーナを足蹴にする男の姿が、そこにはあった…。
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