第四部 第六十七話 心の中で


 幼いころを思い出すと最初に出てくるのは、兄の背中だった。


 何もかもが怖かった。何もかもだ。廊下においてある置物も、庭に生えている木も、掃除している使用人も。常に怒っている父も。


 屋敷の中で安心できるのは、兄と母だけ。母は体が弱かったので、必然的に兄と一緒にいる時間が多かったのだ。


「大丈夫」


 優しく手を握って、前を歩いてくれた兄。


「俺、━━━だ」


 そういいながらけいこをしている間、どれだけ一緒にいても決して嫌がらなかった兄。


 波動が覚醒してすぐは荒っぽい一面も見せたが、舞友には一度たりとも暴力を振るわなかった。


 むしろいじめられそうになったところを助けてもらった。


 強くて優しい兄が大好きだった。


 だから、


「俺は師匠と修行の旅に出る」


 そう言われたときは、すごく嫌だった。


 幼いながらも、兄が自分の夢をかなえるためには必要な修行だと頭では理解していた。


 だから、もっと一緒にいてほしいという思いを押し殺し、里奈は兄を見送った。


 それが今生の別れになるとは思ってもみなかった。


「宗次郎は消えた。穂積家の当主になるのはお前だ」


 求められる立場も、能力も変わった。合わせて、施される教育も、周囲から向けられる視線も変わった。


 少女の日常はその日を境に百八十度変化したのだ。


 変化したのは自分だけではない。家には常に泣きそうな顔をしている母と、寂しさを紛らわすために酒盃を煽る父。


 一週間もすれば、少女は現実を受け入れざるを得なかった。


 あぁ、本当にいなくなってしまったんだ、と。


 受け入れること自体は静かなれど、その衝撃はすさまじかった。


 少女はいなくなった兄の代わりをしなければならなくなった。


「穂積家の人間として、恥ずかしくない振る舞いをするんだ!」


 今まで兄に向けられていた言葉と重圧が全て自分に迫ってくる。


 一年も経てば、兄のいない寂しさに悲しむ頻度も減っていき。


 来る日も来る日も続く勉強と鍛錬の日々も、つらくはあったがまだ耐えられた。


 耐えられなかったのは、兄さんと比べられること。


 どんなに頑張っても。努力しても。


 父も母も喜んでくれるが、瞳の奥に見え隠れするのだ。


 宗次郎がいてくれたら。宗次郎だったらという感情が。


「兄さんがいなくなったりしなければ」


 ━━━やめて。


 押し殺していた内面が表に出てくる。耳をふさごうとしても頭に直接響いてくる。


「私は穂積家の当主にならなくて済んだ」


 ━━━やめて。


「したくもない努力を重ねずに済んだ」


 ━━━やめて。


「兄さんの代用品みたいに扱われることもなかった」


 ━━━やめて!


「そもそも……」


 もう一人の自分が背中から覆いかぶさってきて、耳元でささやく。


「途中でいなくなるくらいなら、最初からいないほうがよかったんじゃない?」


 ━━━。


 頭が真っ白になる。


 そうだ。


 その通りだ。


 兄さんがいなければ、比べられることもなかった。


 最初から穂積家の当主になる運命を受け入れられた。


 行方をくらましたショックで両親が死ぬことも、久しぶりに再会して心が乱されることもなかった。


「忘れちゃえば?」


 自分の内面と向き合っているからこそ、無視できない。


 忘れられたら楽になれる。


 うなずいて受け入れようとした時だった。


「ただの逃げよ、ブス」


「!?」


 脳裏に、以前シオンからかけられた言葉が浮かんだ。


「あんた、本当にそれでいいの?」


 今度はシオンの声がノイズ混じりに聞こえてくる。


「宗次郎のこと、忘れたいの?」


 ━━━わからない。


 正直に、自分の気持ちを吐露する。


 仲良くしたいとは思う。でも、もう子供の頃には戻れない。どうすればいいのかわからない。


「うん。じゃあ、代わりに私の発言を忘れて」


 ━━━え?


「この前言った、兄弟は仲がいいに越したことはないってやつ。舞友っちが苦しむくらいなら忘れて」


 青天の霹靂。


 あのシオンが。兄妹で第二王女の燈に牙をむくほど強い絆を築いていたシオンが、夢みたいなことを言い出した。


 いや、夢の中にいるから本当に夢かも知れない。


「その代わり、これだけは覚えておいて」


 ━━━!


 いつものおちゃらけた感じとは真逆の真剣な雰囲気に、舞友は思わず息を呑む。


「アンタはアタシとおんなじか、それ以上のブラコンだから。それをちゃんと自覚したほうがいいよ」


 ━━━はあ!?


 瞬間的に頭の血が沸騰する。しかも言い返そうとしたらジジジとノイズが入り、シオンの気配を全く感じなくなった。


 言いたいことだけ言ってさっさと退場しやがったのだ。


「最低。意味わかんない」


 もう一人の自分もこの反応だ。


 なのに、どういうわけか。


 次の瞬間、舞友から漏れたのは掠れたような笑い声だった。


 体の力が抜け、リラックスができている。


「……いいの?」


 ━━━うん、もう良くなった。


 シオンの発言は無茶苦茶もいいところだったが、言いたいことはよくわかった。


 ━━━私、思い出せたの。


「何を?」


 ━━━それはね、……。


 毅然と自分の意見をぶつけると、今度はもう一人の自分が黙る。


 ━━━だから、もう大丈夫。


 今なら宗次郎を忘れようとも思わないし、仲良くしなきゃいけないという強迫観念

に囚われる必要もない。


 前を向ける。そう思った瞬間、真っ暗な空間に光が刺した。


 

 


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