第三部 第三十一話 入った亀裂 その2

 部屋を飛び出してから、燈は歩き続けた。




 早くなる鼓動、荒くなる呼吸、ぐらつく視界におぼつかない足元。




 自分でもはっきりわかるほど、精神的にショックを受けていた。




 心を乱して波動を暴走させるなんて失態だ。波動術を習得する上で最初に習う基礎的な内容だというのに。




「は、ぁ」




 腹に力を入れ、燈は息を吐ききる。




 自分がなぜこんなにも心乱れているのか、理由がわかっているのに止められないのがもどかしい。




「燈様?」




 ふいに後ろから聞き知った声がした。




「森山? どうしてここに?」




「ちょっとお手洗いに」




 穂積家の使用人である森山と廊下でばったりと出くわした。王族の部屋ある場所とは離れているので、ずいぶん歩いたことになる。




「燈さまはどうしてこちらに? 会議は終わられたのですか?」




「そうよ」




「宗次郎様は?」




「……」




 思わず唇を噛む燈。




 暴走自体は小さいものだ。宗次郎の手は軽い凍傷のようになっているのだろう。




 だが、傷の軽重など問題ではない。




 ━━━私は、逃げた。




 自分のふがいなさで傷つけたにもかかわらず、燈は部屋を出た。




 王族として、人として。やってはならないことをしてしまった。




「燈様? いかがなさいました?」




 森山が不思議そうに、もどかしそうに尋ねてくる。




 ふと顔に手をやると水の感触があった。




「え……?」




 いつの間にか涙を流していた。その事実を前に呆然と立ちすくむ。




「と、とりあえずお部屋に入りましょう」




 森山に手を引かれて客間に入る。




 燈の部屋とは布団がある以外、造りは同じだ。丸い椅子を挟んだ椅子に腰かける。




「お茶を淹れますね」




 いそいそとお茶の用意をする森山をぼんやりと眺める。




 別に喉は乾いていないのだが、てきぱきと作業をしている森山を見て止める気が起きなくなった。




「どうぞ」




 差し出された茶を一口飲む。




 暖かい。




 冷え切った体に熱が浸透するような心地よさを覚えた。




「……ありがとう。落ち着いたわ」




「よかったぁ」




 ほっと息をつく森山はにこやかに笑う。




 女性同士ということもあって、天斬剣強奪の折から燈と森山は共に過ごした時間が多い。当初は緊張でガチガチだった森山も、今は恐怖や怯えは微塵も感じられない。




 燈も森山がそばにいてもあまり気にならなくなっていた。




「……そんなに気にしなくていいの。なんともないのよ」




 続いた沈黙を破るため、燈は笑ってみせた。




 主人に似てか、森山もかなりわかりやすい。燈の様子が変だけど、自分からどう切り出したらいいものか。そんな躊躇と葛藤が如実に現れている。




「そう、ですか?」




「えぇ。そのうち慣れるから」




 そう言って燈は森山が淹れてくれたお茶をすする。




「何かあったら、宗次郎様を頼ってください。私も微力ながらお力添えをします!」




「ふふ、ありがとう森山」




 宗次郎のせいでこうなっている、とはさすがに言えないし言う必要はない。




「もしかして……宗次郎様と喧嘩しました?」




 ピクリ、と。盃を持った手が止まる。




「どうして、そう思うのかしら」




「失礼を承知で申し上げるのですが━━━」




 慎重に言葉を選びながら森山は口を開く。




「出会った頃、燈様にはとても冷たい印象がありました。それが、宗次郎様と出会ってから変わられたような気がして……」




 宗次郎の件で王城に訪れた際、増麗と帝児にも同じようなことを言われた気がする。






「ただ、いまはその━━━」




「昔に戻った気がする?」




「……はい」




 小さくうなずく森山。




 自分の在り方を見抜かれるとはこんな気持ちなのか、と燈はため息をつく。




 不愉快とはいかないまでもむず痒い感覚だ。わかりやすい宗次郎はいつもこれを味わっているのだ。




「そうね。別にけんかというほどでもないわ。ただ、宗次郎との関係について少し考え直したいだけよ」




「……宗次郎様は、剣になれないのでしょうか」




 自分の主がよほど心配なのか、森山は目に涙を浮かべている。




「そうではないわ。ただ、今すぐならなくてもいいんじゃないかって思っているの」




 燈は杯をおいて窓の外を眺める。




 実感が湧かないが、宗次郎と出会って、否、再開して二ヶ月しか経っていないのだ。




 ━━━早すぎた、かしら。




 皇王国の歴史を見ても、たった二ヶ月しか共に過ごしていない人間を剣にした例はないだろう。




 いや、時間は関係がない。




 どうあれ、今の燈は宗次郎を剣にする気にはなれなかった。




 そこへ、こんこん、と部屋をノックする音がした。




 森山と燈の視線がかち合う。




 この客間は宗次郎と森山のために用意されている。なので、ノックの主は宗次郎である可能性が高い。




 ━━━本当に気が利くわね。宗次郎にはもったいないわ。




 そう思いながら静かに頷く燈。




「はーい」




 森山が返事をして扉に近寄る。




 扉の向こうにいるのが宗次郎なら話は早い。波動を暴走させて手を凍らせてしまった件について謝る。剣にするのはもう少し後にしてもらう。




 そう話し合えば済むだろう。そんな燈の期待は見事裏切られた。




「こんにちは。燈はいるかな?」




 扉の向こうにいたのは、第一王子の皇柳哉だった。




 祝宴の席ほど着飾ってはいないが、その分本人の存在感が強く表れている気がした。




「えっ……えっ?」




 意外な登場人物に驚いたのは燈だけではない。森山は手で口を押さえながら後ずさりした。




「あぁ、驚かせてしまったね。ぼくは皇柳哉。よろしく」




「は、はい。森山千景といいます」




 差し出された手をそっと握り返す森山。最初こそ驚いていたものの、柳哉の雰囲気に充てられて落ち着いたようだ。




「っ━━━」




 そんな二人の様子に自分でもわからない苛立ちを覚える燈。




「お兄様、何か用かしら」




「燈、このあと時間はあるかな?」




 こちらを向いた柳哉の声はいつもより上ずっている。灰色の兜の下は笑顔になっていると容易に想像できるが、その理由がわからず燈は警戒心を強める。




「せっかく王城に兄弟たちが集まったからと、瑠香がお茶会を企画してくれてね。せっかくだから燈も参加しないか?」




 燈は一瞬思い悩む。




 正直な希望としては、今は一人になりたい気分だ。




「よかったら、宗次郎殿も一緒に━━━」




「いいわ。私一人で行く。場所はいつもの庭園でいいのよね」




「そうだよ」




 口角を上げる柳哉に対して燈の胸中は複雑だ。




 本当に、自分でもどうかと思うほど負けず嫌いだ。宗次郎が柳哉を気にするだけで、柳哉が宗次郎を気にするだけで。




 こんなにも心が乱れるなんて。




 ━━━はぁ。




 燈は内心ため息をつく。




 ━━━仕方がないわよね。




 宗次郎は伝説の英雄、初代王の剣だ。初代国王、皇大地に絶対の忠誠を誓っていたのだ。




 なら、大地とそっくりの柳哉に動揺するのは仕方がない。




 仕方がないのだ。




 ━━━何を血迷っているのかしら、私。




 仕方がない。そう思えたところで全てがどうでもよくなる。




 ━━━大丈夫。




 燈は自分に言い聞かせる。




 ━━━前にもこの感覚は味わっている。だから今回も乗り越えられる。




 強がりじゃない、と締めくくる燈。




 あのとき。母が天主極楽教によるテロで殺され、妹が意識を失ったときにも味わった。




 今まで当たり前のように続いていた日常が崩れ落ちる悲壮感。裏切り者が身内にいるという恐怖感。




 そして。周りに頼れる人間がいないとわかった時の圧倒的な孤独感。




 それらが全部混ざった絶望感を乗り越えた燈にとっては、今の感傷なんて軽いものだ。




 すでに乗り越えた壁を恐れる必要がどこにある。




 ━━━何を血迷っているのかしら、私。




 燈は重要な決意を思い出す。




 母が死んだあのとき、自分たちの兄弟の中に裏切り者がいるとわかったあのとき。








 自分一人で生きていくことを誓ったはずだ。








 その生き様とすべてを拒絶する氷の波動からついた二つ名が”冷血の雪姫”。剣を選ばないと決めたから”剣なしの姫君”とも呼ばれた。




 誓いを守っていれば、どうしようもない怒りに心を惑わされずに済む。




 ━━━私は一人でもやる。やってみせる。




 目の前にいる兄、皇柳哉。王族の中でも一番苦手な相手であった。幼い頃から才覚を発揮した燈であっても、一度として勝てた試しがない。現在においても優っているのは波動の技術くらいであり、それ以外の政治力、人脈形成力などは向こうが上だと思っている。




 そんな第一王子を越えなければ、自分の夢は叶えられないのだから。




「行ってくるわ、森山」




「……はい。行ってらっしゃいませ」




 悲しそうな表情でこちらを見送る森山を背に、燈は客間を後にした。


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