第一部 第二十一話 たとえどんなに無力でも その1

 宗次郎は気づけば別荘の前まで戻っていた。


「……あれ?」


 真っ赤に染まる夕焼けが眩しい。土手で燈と話していたのは昼過ぎだった。違和感を覚えて宗次郎は立ちすくむ。


 ━━━そうか。普段は子供達で賑わっているけど、今日は稽古を中止したんだ。


 宗次郎はぼーっとしながら門をくぐる。


「あら」


 ガラリと別荘の戸が開いて燈が出てきた。部屋着で、土手で会ったときのようにフードをかぶっていない。


 宗次郎の顔を見て、少しだけ不機嫌になっていた。


「あなただったのね。待ってなさいと命じたのに、私を置いていくなんていい度胸じゃない」


「あー、ええと」


 そうだ。二人で帰る途中、電話がかかってきて、燈からここで待っていろと言われたのだ。


 そのあと……そのあとは?


「先に戻っているかと思ったらいないし。この時間まで何をしていたの?」


「……いや、その」


 およそ3時間近く。カラスが鳴くような時間になるまで、自分は何をしていたのだろうか。


「まあ、いいでしょう。早く入りなさいよ」


「ああ。悪い」


 なぜ燈と別れて帰宅したのかを思い出せないまま、宗次郎は玄関を通り抜ける。扉を閉め、燈の後に続こうとした途端、


『思い出せ!』


 頭の中で大声が響きわたる。


 神社で聞いたものと同じだ。自分の体を動かしてくれる声。聞いた瞬間、燈と別れた後の出来事が早送りのように蘇る。


「あ……」


 全てを思い出して足が震え、背筋は悪寒が走り抜けた。


 なのに、無意識のうちに指先で口唇をなぞるとやけに熱いのだ。


「どうしたの?」


 不思議そうに問いかける燈に対して、宗次郎はおし黙る。


「っ」


 シオンとの出会いを話そうとして口をつぐむ。あまりの恐怖心に説明する気がまるで起きなかった。


「なんでもない」


「……そう」


 燈は気にしながらも、問いただすほどでもないと判断したのか追求はしなかった。


 それから別荘で過ごした時間は、掛け値無しに拷問のようだった。


 何も起きないよう自分の部屋に引きこもっていたが、帰宅した森山に夕食を食べるよう諭された。食欲がないと言い張ったが、怪しまれると面倒なので仕方なく部屋を出た。門、八咫烏の面々が帰宅してから全員で食事をし、各自の調査結果を報告していた。結果として天斬剣は見つからず、シオンの手がかりすら見つけられなかったそうだ。


 担当した地域と捜索状況を報告しまとめに入ったところで、宗次郎は体調不良と言い張って居間を後にした。上の空のまま食事も喉を通らなかったおかげで、怪しまれることもなく自分の部屋に早々に引きこもれた。


「はあああ」


 布団にくるまって頭をかきむしる。他人に相談できればどんなに気持ちが楽になるだろうと思わずにはいられなかった。


 ━━━落ち着け、落ち着け、落ち着け。


 震える肩を抱きしめながら深呼吸をする。不安を和らげようと意識してもどうにもならないので、宗次郎はあえて思考することにした。


 シオンに何かをされた。首輪を切る代わりに私に協力しなさいとの提案を断った意趣返しのつもりなのだろう。


 ━━━間違いない。俺はシオンに操られたんだ。


 以前、強力な波動師はその波動で精神の弱い人間を操れると門から習った。シオンは燈と互角に戦えるほどの波動師だ。宗次郎を操って、シオンと出会った記憶を忘れさせて別荘に戻らせたのだ。


 いや、他にも何かされた可能性はある。


 ━━━といっても、俺に何ができるんだ?


 操られた状態で何をしていたのかを考えようとして、少しだけ冷静になる。


 宗次郎は弱い。燈は言うに及ばず、八咫烏や練馬と戦っても勝てはしない。不意打ちをしたところで返り討ちにあうだけだ。別荘に何か細工をしようにも宗次郎は外にいたし、何より先に燈が戻っているのだ。


 ━━━もしかして考え過ぎてたのかな。


 シオンの立場からすると、宗次郎を自分の部屋に軟禁するのは見つかるリスクが高まるだけだ。なら、口封じだけして宗次郎を別荘に返すのは、不思議な事態でもないのかもしれない。


「ふうううう」


 ゆっくりと息を吐き出す。都合のいい妄想かもしれないが、現実であってくれと心から思った。


 首筋に手を当てる。固い感触がある。首輪は相変わらずつけられたままだ。着けられたと知ったときは嫌でたまらなかったが、今では宗次郎を宗次郎たらしめているパーツのような気すらしてきた。縫い目のザラザラした感触を指先でなぞると気が楽になる。


「そうだよな。俺に燈を傷つけられるわけが……」


 独り言を呟きかけた口が止まる。


 協力しろと話を持ちかけられた際も同じようなセリフを言った気がした。


 ━━━あれ、待てよ?


 何かが引っかかる。魚の骨が喉に刺さったような、強烈な違和感。


 その正体を探るため、宗次郎はシオンとのやりとりを思い出す。


「わかってるわよ。殺すのはあくまであたし。燈があんたの別荘にいるのならいくらでもやり方はあるわ。あなたも手伝ってくれるなら、作戦が盤石になるってだけよ」


 このセリフを思い出した瞬間、宗次郎は顔面が蒼白になり、歯がガタガタと震えだした。


「は、はははは」


 あまりの恐怖に笑いがこみ上げる。そう。シオンはあなたも手伝ってくれるなら、と言ったのだ。


 あなたも、ということは。



 宗次郎の他に、すでに協力している人間がいるということになる。



 ━━━誰が裏切り者なのか。


 落ち着きかけていた心にさざ波がたつ。恐怖心で思考回路は麻痺するどころかフル回転している。


「…………門さんに相談するしかない」


 裏切り者の正体なんて見当もつかない。なら、逆に考えてみればいい。誰が怪しくないか、なおかつ話をするなら誰か。宗次郎は躊躇なく門を選択した。


 もちろん一番怪しくない人物は森山だ。自分が子供の頃から穂積家に仕えている使用人なのだから、天主極楽教と関わりがあるわけがない。ただ、森山は荒事に向かないし、何より巻き込みたくなかった。


 なら、次に付き合いが長くて頭が回る門に相談するのが一番いい選択肢だ。


 時計を見ると午後八時を少し過ぎていた。いつもなら門が風呂に入っている時間である。


 宗次郎はいてもたってもいられず部屋を飛び出した。


 物事を筋道立てて説明できるよう、頭の中を整理しながら階段を降りる。幸運にも誰ともすれ違わない。風呂場の近くに来ると、ガラリと戸が開く音がして誰かが出る気配がした。


 いいタイミングだ。宗次郎は勢いよく洗面所の扉を開けた。


「門さん!」


 音を立てて扉を開いた宗次郎は、目を見開いて全身が固まった。


 洗面所では風呂場から出たばかりの燈が、一糸纏わぬ姿でバスタオルへ手を伸ばしていた。


「何かしら?」


 燈は恥じらうのでもなく、激怒するでもなく、少しだけ笑ってタオルで体を隠した。


 美しい肢体から立ち上る湯気がその妖艶さをいっそう増していた。みずみずしい肌に弾かれた水が、タオルから溢れる双丘の間へと落ちていく。濡れた銀色の髪と引き締まった腰は扇情的なラインを奏でていた。


「そんなに見つめられると、流石に恥ずかしいわね」


「ご、ごめん! 門さんだと思ってつい……」


 電光石火の速さで回れ右をする。


 心臓の高鳴りと興奮のせいでまくしたては言い訳はなんとも惨めなものだった。


 ショックのあまり目を覆って天を仰ぐ。真っ暗闇のはずなのに、洗面所の光景がありありと浮かび上がる。完全に脳裏に焼き付いていた。


 ━━━俺、本当に間が悪いな。


 もうなんというか、昨日から散々な目にあっている。宗次郎は頭を抱えた。


「何をしに来たのかしら。体調が悪い割には元気そうね。下半身も」


 ━━━誰か俺を殺してくれ。


 宗次郎は初めて自殺願望を抱いた。


「もしかして、一緒に入りたかった?」


「ち、違う! 緊急事態だから相談したいと思っただけで。っていうか、なんで堂々としてられるんだよ」


「さっきも言ったでしょう。恥じらいくらいあるわ。けれど、私は第二王女よ。いかなる時でも優雅に、余裕を持って対応してこそ人の上に立つにふさわしい。生娘のように取り乱して、縮こまるなんてしないわ」


「……そういうものか」


 そういえば師匠もあまり裸とか気にしない質だった。いや、あれは単に宗次郎が子供だったからに違いない。


 もし宗次郎がいつも通りの冷静さを持っていたら、燈の声が少々上ずっていて、いつもより饒舌であると気づいただろう。


 燈とて、言葉にするほど自信があるわけではないのだ。


「本当に、悪かった」


「待ちなさい」


 立ち去ろうとする宗次郎を燈は呼び止める。振り向こうとする体を強引に押しとどめ、その他に立ちすくんだ。


「あなた、門になんの用があったの?」


「いや……なんでもない。だから気にしないでほしい」


「ふうん。そう」


 燈の答えは、なんとも味気ないものだった。 


 布の擦れる音がやけに大きく聞こえた。少しして、タオルを頭に巻いて短衣に着替えた燈が出てきた。袖と裾から伸びるすらりとした手足にすらドキドキする。


「私には、言えないこと?」


「……」


 この別荘に裏切り者がいるかもしれない。なんて話を信じるだろうか。シオンとばったり出くわした時点でにわかには信じ難いのに。


 そもそも燈に迷惑をかけないよう、門に相談しようとしたのだ。


 逡巡する宗次郎に対して燈は距離を詰めてくる。宗次郎を捉えた燈の双眸は無言を許しそうにない。


「わかった。話す。実は電話の後、”シオン”に出くわした」


「まあ」


 燈は少しだけ驚いて見せたが、すぐに納得している様子だった。


「それで━━━うぐっ」


 その瞬間、宗次郎の体に異変が生じる。


 シオンと会った。その事実を初めて口にした瞬間、口付けをしたときに感じた熱が体に蘇る。


 波動を失っていた宗次郎は気づけなかった。口付けに合わせて波動を流し込まれ、自分の体に罠が仕掛けられていた事実に。


 キーワードが引き金となって罠が起動する。宗次郎は猛烈な吐き気を感じて廊下に倒れ伏した。


「ウッ」


「宗次郎?」


 嗚咽で涙が出そうになる。自分の中で何かが蠢き、暴れている感覚。


「がは」


 宗次郎の口から飛び出したのは、くしゃくしゃに丸められた紙だった。体外に出ると独りでに浮かび上がり、元の形に戻る。


 その紙が何であるかを悟って宗次郎は目を見開く。


 波動符だ。


 練馬から見せてもらった波動符とは別の刻印が刻まれている。


 まずいと思ったが時すでに遅し。波動符は宗次郎の目の前でまばゆい光を放ち、音もなく紫色の煙を放つ。


 煙は数秒のうちにかき消えたが、宗次郎と燈は吸い込んでしまった。


「く……やってくれたわね」


 燈が苦しそうに倒れこみ、落ちた波動符をクシャリと握りしめる。明らかに体調が悪そうだった。


 立ち上がろうとする燈を、宗次郎が支える。


「だ、大丈夫か」


「……部屋まで運びなさい。早く」


「わかった」


 宗次郎は燈に肩を貸しながら、ゆっくりと歩き出す。


 軽い。体格は宗次郎が優っているとはいえ、道場で自分をコテンパンにした少女がこんなにも軽いとは思わなかった。


 心と体に感じる重さの差に愕然としながら、宗次郎たちは燈の部屋を目指した。


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