ヒサシ

「稟ちゃん旧社格って何〜?」

「なんだおまえ藪から棒に」

 年が明けた。世の中は相変わらず疫病で、俺は年末年始の休暇からこっちずっと実兄の家に入り浸っている。弁護士である兄の家の長所は山ほどあるが、なんといってもまず広い。嘗て俺が上京してきたばかりの頃は別の家で同居していたのだが、俺の生活がどうにかなるようになり、共同生活を解消するなり彼はこの家に引っ越した。東京都にほど近い埼玉県某市の分譲マンション。彼の書斎と寝室に加えてひとつ遊ばせている部屋があり、長期休暇ともなると俺は大抵その部屋に泊めてもらっている。

 更に、兄の家には猫がいる。雌の黒猫で、名前は知らない。教えてもらえないから、俺は単に「猫」と呼んでいる。猫は俺と兄を含むすべての人間に対して無愛想で、勝手気ままだ。とても可愛い。俺も猫飼いたい。けど俺はその日暮らしのバンドマンだし、家はクソ狭い賃貸だから気軽な気持ちで動物とは暮らせない。責任が持てないからね。

「見てこれ。うちのwiki」

「あん?」

 リビングのソファにひっくり返ってスマホを見る俺の腹の上には黒猫。珍しくデレてくれた。最高。食卓テーブルの上に仕事用の資料を広げていた兄の稟市がよっこいしょと立ち上がり、こちらに近付いてくる。俺はソファから一歩も動かず彼にスマホを渡した。

「うわ」

「すごくね? 誰が書いてんのかな、こういうの」

「詳しすぎる。村の人間だろ」

「だよね〜。俺もそう思った」

 俺たちの出身地であるN県S市、しかも実家である市岡神社のことをこんなに詳しく書ける人間は極めて限定されている。神社がある山のふもとにある村に住む人間たちだ。以前は若者がどんどん都会に出て行ってしまって消滅寸前だった小さな集落だったのが、昨年から続く疫病禍の影響でとある企業が本社を村のすぐ近くに移動させたことで、一気に人口が増えたのだと母親から聞いた。俺も兄も今年は帰省しなかったから、LINEであけおめの挨拶をした時に聞いた。

「狐に呪われている、だって」

「はは」

 うちの実家は所謂稲荷神社だ。詳しくはそれこそググってくれ。狐を遣う、という伝承があるのは知っている。それこそ物心付く前から聞かされ続けた昔話だ。うちの神社はお狐様と共存共栄、村を見守ってもらい、何か事件や事故が起きた時には力を貸していただく代わりに、お狐様のお守り係を務めている。神職、神主が女性限定という決まりがいつから始まったものなのかを俺は知らない。知らないけど、当代の神主であるばばちゃ……俺のおばあちゃんは狐と会話ができる。これはマジ。ばばちゃの息子である俺たち兄弟の父親にはその能力がない。男だから。親父のパートナーであり俺たちの母親……彼女はN県の出身ではないし、神社とか狐とかそういうものともまったく無縁の人生を送ってきたそうなのだが、市岡の家に入った途端その能力が備わった。女だから。


 正直、気持ち悪い話だと思う。けれど、俺たち「お山の市岡さん」は近隣の村や町からの信頼とそれから少しばかりの尊敬を一身に集める存在だ。先ほども言った通り「事件や事故が起きた時」にお狐様に助力を乞うことが、市岡神社の人間にはできる。実際俺たちが子どもの頃にも、村の年寄りや子どもが行方不明になったり、急に原因不明の病気にかかった時なんかに、警察や病院より先にうちのばばちゃと母親が現場に駆け付けていた。そんで、解決していた。これもマジ。だから俺は俺の実家のことをあんまり大っぴらに不気味がれない。


 猫の背中を撫でる俺にスマホを返しながら、おかんに言っとく、と兄はため息混じりの声を漏らした。

「こういうこと書かれるの迷惑だから、やめさせないと」

「迷惑なの?」

「迷惑だよ。実際狐に助けられてるのに、呪われてるとかさ、ったく」

 狐に助けられている。俺にはその実感がないが、兄にはある。兄には、市岡稟市には、その能力があるのだ。男なのに。

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