第16話.ヘスティアは此処にいない
あれから約一ヶ月が経ち、此処での生活もだいぶ馴染んできていた。
今日も朝の6時半に起きたコウは、支度を始める。
「はぁぁ……」
両腕を伸ばして欠伸をしたコウは、洗面台に向かう。寮の部屋はおよそ30平米と、一人用にしては十分な広さだ。
洗面台にやって来たコウは、寝ぼけ眼を擦りながらも鏡に映る自分の姿を見つめる。
身長は約168センチ、黒い髪と黒い瞳は父親譲りだ。自分ではあまり分からないが、《時の狭間》で鍛えてきたことによって肉体の変化もあったと思われる。
取り敢えずコウは、眠気を覚ますために顔を洗った。
「冷たい……」
蛇口をひねり、水を勢い良く出したコウは、手で水を掬い顔にかける。水の冷たい感覚が顔全体から伝わってきた。
次は歯磨き。洗面台に置いてあった歯ブラシに歯磨き粉をつけて、歯を磨き出す。
こうして口の中をさっぱりにする事で、自然と目も覚めてくるのだ。
歯磨き粉の味はミントの味だった。
「良し……‼︎ 食堂に行くか」
口をゆすぎ、もうだいぶ目が覚めてきたコウは、予め支度しておいた鞄を手に取り、ドアまで歩く。
そして茶色の靴を履いたコウは、ドアを開けて部屋を出て、閉めたドアに鍵を閉めた。
コツン、コツンと木で作られた床の上を歩き、コウは食堂に向かう。
「今日の主食は白米にしようかな。アイラブ白米……」
最近レグルス学院長が使っていた『アイラブ』という言葉を使い、コウはひとり呟く。実は白米が好きなのだった。
*
今日も賑やかな食堂。美味しい食事の匂いに連れられてか、コウは列に並んでいた。
どうやら今日は、鮭とご飯と味噌汁のセットが人気のようだ。列に並びながらも、机に座って
「……いるわけないよな……」
辺りに漂う香ばしい匂いの所為か、コウは無意識にある人物を探してしまっていた。だがやがて、現実を受け入れることでその行動を止める。
列に並んでから1分ほど経っただろうか。自分の番が来たコウは、例のセットを頼んだ。
何故かたくあんも付いてきたのだが、どうしてだろうか。謎である。
「いただきます」
両手を合わせ、この国に昔から伝わる食事するときの挨拶――「いただきます」と言ったコウは、箸を手に取った。いつだって、いのちへの感謝の気持ちは大事なのだ。
「うん、美味しい」
鮭の塩焼きを箸で掴んで、口にするのと同時に白米も口に運ぶ。
身はふっくら、皮はパリパリといった感じで、大根おろしも添えてある。そんな鮭の味に、今日もコウは満足していた。
実家のご飯が恋しくならない訳でもないが、ここでの料理も美味しく、忘れられない味である。
料理をパクパクと口に運んでいったコウは、もうすぐ完食というところまで来ていた。
締めは味噌汁。やはりご飯を食べ終わるときには、味噌汁で締めるのが一番である。
ズズズズと味噌汁を飲み込んコウ俺は、ぷはぁ〜と声を上げながら、手を合わせて「ご馳走さまでした」と言った。
「――さて、もうそろそろ時間だな」
お皿の乗ったトレイを指定の場所まで運んでから、コウはクラスルームに向かい始める。
心残りを、胸に抱きながら……。
* * *
「それでは今から、数学の授業を始める! ノートと筆記用具を出して前を向けー!」
今日も一日が始まり、数学の授業が始まろうとしていた。アストレア剣術学院は、剣術だけでなく勉学の方も行っているのだ。
ミラ先生は教壇に立ち、ボードにペンを使って文字を書き、授業を行う。
コウはノートと筆記用具を出し、授業で習っていく内容を書いていった。数学という教科は、人によって得意不得意に分かれるが、このクラスの誰もが真剣に授業に取り組んでいる。みんなの学習意欲は高いようだ。
しかし、それに対してコウは、授業内容を目にし、耳で聞いているものの惚けていた。
……ヘスティア――。
惚けている要因はヘスティア。
一見誰もが集中して授業を受けてるように見えるが、実は違った。
ミラ先生もコウたちも、
*
――あれは、数日前の出来事。
今のようにコウたちが授業を受けていると、突然何者かがこのクラスに入り込んできた。此処に入り込んできた者たちは赤い服で身を包んでいて、アンタレス家の者だと名乗る。
アンタレス家とはヘスティアの実家のことで、この王国で有名な貴族家の名前だった。
彼らは、抵抗の声すら上げられないヘスティアをその場で拘束し、連れ去ろうとする。
ミラ先生は止めようとしてくれたが、彼らに一度睨まれた後、何を発さずになった。
……そんな……。ど、どうすれば――。
コウはどうするべきなのかを悩み、悩んだ末で硬直する。
自分が何をすれば良いのか、
心臓は、張り裂けてしまいそうなくらいに動き出す。脳に酸素を送って思考の回転を早めるために、肺が多くの酸素を求めてくる。
はぁ、はぁ、はぁ……。
しかし、コウは決断を下すことが出来なくて……。
「……ぁ」
瞬間――クラスルームから連れ出される寸前のヘスティアと目が合う。
乱暴に右腕の手首を掴まれ、真紅の髪を振り乱しながら連れてかれるヘスティア。彼女の瞳は、――哀しそうに揺らめいていた。
「…………」
助けを求めているような、そんな瞳を見てしまったコウは、沈黙し続ける。そして、ただひたすらに自己嫌悪した。
ガタン!!
ドアは雑に閉められ、大きい音を立てる。それは酷く耳障りな音だった。
*
……俺は、どうすれば良かったんだ?
偶にコウは、自分自身が何をしたいのか分からなくなるときがある。
《時の狭間》で鍛えた剣術。それは、コウにとって誰かを守れる力になった筈だった。
しかし、今のコウはどうだろう。家族を魔物から救い出すことが出来たが、それだけだ。
……剣を振る意味を失った俺は、強くなんかなれるのか……?
やはり、剣術を極めることにおいて、想い――気持ちの力は必要になってくる。
人の心はそのまま剣の筋に表れて、時には実力が低かった者が強い者に打ち勝つことだってあるのだ。
試合の結果は、単純なステイタスでは変わらない。《時の狭間》での日々で、俺が悟ったことの一つである。
だから、
……だから、俺は彼女の剣術を見て、強くなって欲しいと思った。もっと戦いたいと願った。
……そして、
――
* *
(――何から?)
意識の奥底から、誰かがコウに問いかけてくる。
……彼女の実家での詳しい事情なんて知らない。それでも、彼女を取り巻く足枷があるのなら、その境遇から救ってあげたい。
(――どうして?)
……それは、助けたいと思ったからだ。彼女の剣術を見て、俺は心底惚れていた。
(――なら、何をするべきなのかは、分かるよな?)
……あぁ、俺は彼女の――ヘスティアの所に行く!
意識の奥底から、コウは抜け出した。
* *
「おい、コウ。何を惚けている!?」
「……っ! す、すみません‼︎」
授業中だというのに惚けていたコウに、ミラ先生がお叱りの言葉をかける。コウはびくんと跳ね、すかさずミラ先生に謝った。
ミラ先生は「全く……」と言いながらも、コウが惚けていた理由を大体察する。無論、ヘスティアのことでだ。
しかし、そんな空気を察してくれているミラ先生に向かって、コウは思い切って宣言する。椅子から立ち上がり、机に両手を突きながら叫んだ。
「俺、ヘスティアのところに行ってきます!だから、アンタレス家の場所を俺に教えて下さい‼︎」
「あぁ、良いぞ……って、え? はっ?」
「ありがとうございます!!」
「お、おい‼︎ 正気か……!?」
慌ててミラ先生は問いただしてくる。だが、コウの答えは変わらない。
「正気もなにも、俺は本気です。ヘスティアのところに行きます!」
「――――そうか」
……あぁ、これで良いんだ。俺はずっと、ヘスティアを救いたかったのだから。
コウは、窓から見える青空を見つめた。天頂に向かうほど青色が濃くなっていく青空は、今日も綺麗だ。
(――やっと、覚悟を決めやがったか)
意識の奥底から聞こえてきた声に、コウはそっと頷く。
……ヘスティアは
爽やかな青空に、コウは誓いを立てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます