大宇宙を掌の上に

藤山千本

第1話  1、日本交換

<< 1、日本交換 >>

 川本千本はその日その時たまたま裏山のブナの梢(こずえ)の先端を見上げていたが何かが変わったことを感じた。

空の色が一瞬変わったと感じたのかも知れないし、周囲の景色の陰影が一瞬動いたように感じたのかもしれないし、地磁気とか重力のような常に曝されていて注意を払っていない何かが変わったことを感じたのかもしれなかった。

人は変わらないと信じていることは変わらないと思いたいのだろう。

千本も深く気に留めることもなく日課としている庭仕事を続けた。

その日は畑の周囲に除草剤を散布していたのだった。

 「いいお天気ですねえ。」

突然背後の遠くから声が掛かかったがお向いの西野さんの声であることはすぐにわかった。

門の周囲の花壇にじょうろで散水しながらこちらを向いて会釈していた。

生活の周期が合うのか、千本が庭で仕事をしていると必ず出てくるようだ。

「ほんとに晴天が続きますね。水やりも大変でしょう。」

「いいええ。年寄りの仕事ですかね。ほほほ。」

彼女は千本より一歳年下の67歳だが良人が亡くなってからは一人で年金生活をしている。

 千本の家は山の中腹を切り開いた団地内にあり、千本の家の裏庭は山に面している。

裏山には幹径30㎝のブナの木と幹径15㎝の椿とひょろ長い桜、そして孟宗竹が日光を求めて乱立している。

裏山と隣接する畑は定年後の千本に毎日の庭仕事を提供していた。

千本は自宅の敷地内から外に出ることはめったにない。

千本は自宅の環境に満足していた。

 「さっき何か起ったように思いましたが気がつかれましたか。」

「いいええ。何かありましたか。」

「気の迷いかもしれませんね。ぼけですかね。」

「いいええ。先生はまだお若いですよ。ほほほ。」

「そんなことはありません。最近は膝が痛むんですよ。」

「いいええ。先生はまだお若いですよ。ほほほ。」

 二時間の庭仕事を終えて千本は書斎に戻りインターネットを接続するとニュースサイトは不可解なニュースで溢(あふ)れていた。

「自動車のGPSが機能しなくなった」が最初の報道だった。

その後、「外国との連絡が取れない」とか「外国はおろか沖縄との連絡も取れない」と報じていた。

最初に脳裏に浮かんだのは核戦争が始まったかもしれないと言うことだった。

さらに詳しい情報を求めることもなく千本はガレージに行き、ジムニーのエンジンをかけてから団地内を一周し、ジムニーの位置が特定できていないことを確認した。

ニュースは正しい。

 千本は自宅に戻ると午眠の時刻ではあったが「準備」を始めた。

裏庭の物置から登山用具のケースを出し、最初に登山靴を取り出し、次にリュックを取り出して書斎に運んだ。

寝室の金庫から現金を取り出し、ゴミ袋に包んでリュックの底に入れた。

書斎に戻って隅のガンロッカーからベネリM2とウインチェスターM97を取り出しスラグ弾を薬室まで装填して元に戻した。

ロッカーの鍵はかけなかった。

 保存食料は十分に用意してある。

水道が止まっても700ℓの飲料水を用意してある。

電気が止まっても数日は何とかなるだろう。

ガソリンは40ℓ、灯油はポリ缶に120ℓがある。

次に千本は裏庭のシャッター付きの物置に向かった。

シャッターを開けてからコンクリートの床に埋め込まれた床板を外(はず)した。

床板の下には空間があり、下に続くトンネルが掘られてあった。

 このトンネルは1998年に完成していた。

千本は「1999年7の月」についてのノストラダムスの予言を信じていたので、他の人より5分間だけ長く生き延びてどのように人々が死んでゆくのかを知ってから死のうと決めていた。

千本は6年余りの歳月を費やし、スコップ一本だけでトンネルを掘り進めた。

深さは6m、長さは12m、底の温度は夏冬変わらず14℃であった。

地下壕が完成した時には新品の剣先スコップの鉄部は10㎝以上短くなり、山型からM形に変わっていた。

1999年8月、千本は白馬岳の手前の小蓮華に登った。

そして、もう少し生きることができると確信し、人生観を変えた。

 床板の裏側は水滴で覆われており床板を持ち上げた時には流れ落ちた水滴が石の階段を濡らした。

トンネル内部は崩落していなかった。

千本は除草バーナーに灯油を入れて点火し、トンネル内部の壁を焼いて乾燥させた。

焼却作業はトンネル内の空気も入れ替えることができる。

これで数日は大丈夫だ。

千本の団地は北と東が山に遮(さえぎ)られ、南は谷を挟んだ山で遮られ、西は団地の傾斜で遮られている。

低い位置からの爆風であれば西南西からの方向でなければ全て遮られる。

 千本は一応の準備を終えて書斎に戻り、インターネットのニュースサイトを再閲覧した。

ニュースの項目はさらに増えており、その見出しも千本の想像の域を超えていた。

パソコン横のテレビのスイッチを入れるとどの局も異常を繰り返し叫んでいた。

千本はそれらの異常が戦争に起因するものではないことを確信し、台所に行ってインスタントコーヒーを作って居間に戻った。

コーヒーを含みながらニュースサイトの見出しを読み、千本は定年退職している自身の状況に感謝した。

千本の人生での仕事は既に完成して終わっているのだ。

 その日の日本はまさに混乱の一日となった。

太陽の輝きが一瞬変化したと多くの人が語った。

全てのGPS(全地球測位システム)機能は使えなくなり、宇宙空間に配置されたその他の人工衛星との接続も途絶えた。

水面の高さが少しだけ下がったように波打ち際は沖側に移動した。

波打ち際の後退にもかかわらず津波は起らなかった。

 インターネット上での国外との接続は切れ、国際電話も、無線連絡も接続が断たれた。

外国からの電波は途絶え、国際線の飛行機との連絡も途絶えた。

米軍基地と本国との連絡も不通となり、米軍基地の緊張は高まった。

自衛隊の傍受網は日本の周囲に何もないことを結論していた。

国内の電気やインターネットは何の問題もなく保たれていた。

日本の周囲に散開していた潜水艦は異常を察知し本国に連絡しようとしても本国からの応答はなかった。

テレビは日本と外国との連絡が断たれたことを伝え続けたが、その原因は説明できなかった。

日本政府も異常の原因を突き止めることはできなかった。

 最初に有力な情報をもたらしたのは韓国行きの旅客機だった。

日本の飛行場を離陸した旅客機は国内上空を飛行中に異常に遭遇した。

旅客機が大陸上空に至ると、旅客機の機長や乗客は異常な地表の様子を目にした。

そこに在るはずの町や道路や田畑がなかった。

GPSは使えない状況にあったがこれまでの経験から町がなくなっていることに気がついた。

異常を察知して日本に引き返した飛行機は幸運だった。

数機の飛行機は決断を遅らせ、目的地には飛行場が無いことを知り、不時着を余儀なくされた。

多くの事故が起ったが、それらは日本全体に起った天変地異に比べれば問題とされなかった。

 日本政府が状況を認識したのは比較的早かった。

政府は自衛隊と米軍に日本周囲の偵察を依頼し、日本周囲の状況が変わっていることを知った。

沖縄県や大韓民国や中華人民共和国に町は無く、住民も発見されなかった。

海岸線の形も少し異なっているようであった。

偵察衛星も含め、全ての人工衛星は応答しなかったので世界の状況を知ることはできなかった。

国外との連絡が一切とれなかったことから、政府首脳は日本がまさに孤立したことを認識した。

もちろん信じ難いことではあったが。

 数日が経過し、自身の身辺に危険が迫らなかったためか世間は少し落ち着いた。

国難に遭遇した場合、真の政治家は国家の行く末を見通すことができる。

日本にはそんな真の政治家がいたようであった。

彼は日本がこれから生きて行くための基本構想を持つことができた。

空気はある。

水もある。

次は食料とエネルギーである。

食料は一年分以上が貯蔵されていた。

エネルギーは全ての原子力発電所を稼働し備蓄の石油や天然ガスや石炭を使用すれば、そして多少の節約を試みれば数年は保つはずである。

街灯とネオンは消し、ガソリンは値上げさせればいい。

 最初に示すことは国民に状況を知らせることであった。

日本の周囲から外国がなくなったことをである。

大部分の日本国民は驚いたが直接には何をしてよいのか分からなかった。

自分の周囲の状況がほとんど変わらなかったからだ。

天変地異の場合と同様に水や食料の買いだめに走った者もいたが、それらの不足は生じなかった。

 為政者はとにかく何が起ったのかを知ろうとした。

航続距離が大きな大型船を周囲に派遣し、空中給油機と偵察機を組み合わせ、できるだけ地球がどうなったのかを知ろうとした。

米軍基地に停泊していた原子力空母も搭載機を満載して出発した。

やがて日本以外の地は未開の状態であることが明らかになった。

米軍は先ず母国をめざし、そこが人も住んでいない未開の地であることを知った。

日本の異変に巻き込まれたロシアと中華人民共和国の原子力潜水艦はそれぞれの母国に帰ったが、そこに国はなかった。

彼等はしばし次の行動を迷ったが母国の位置に留まり、とりあえず基地を作った。

米軍もアメリカ大陸に基地を作った。

ロシアや中華人民共和国の基地と異なり、米軍の資材は基地を構築するのに十分であった。

 周囲は未来ではあり得なかった。

周囲が過去であることは容易に判った。

過去に遷移された船や人についての空想科学小説に慣れ親しんでいたためか、人々は「日本は丸ごと人も住んでいない過去に遷移された」と認識するのに長い時間はかからなかった。

人々は驚きと共に大いなる未来を確信した。

人々は地球の地理を知っており、世界に眠る未開の資源の場所を知っていたからだ。

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