第23話

 伊波は無機質な淡いベージュの廊下を歩いていた。歩くたびにスリッパが足にまとわりつき、パタパタという音をたてる。

外はからりと晴れていた。今日は父親の見舞いの日だった。ずっと様子を見に行かねばとは思っていたが、ずっと後回しにしていた。数えてみると、前に来たときから、すでに1年が経っていた。

 病室の引き戸をがらりと開けると、見慣れた棺桶のような狭い個室だった。伊波は、もし自分が意識のある状態でここに住めと言われたら、きっと発狂してしまうだろうなと思った。

 ベッドが部屋の二分の一以上を占めていて、さらにその三分の一には物々しい機械が置いてある。

 部屋にはすでに母がいた。目尻のしわを深め、嬉しそうに笑う。

「尚人。久しぶり。来てくれてありがとう」

母はそう言って眼を細めた。母は、父が家で倒れ、意識を失ってから、週に一度見舞いに来ている。

父親は以前と変わらない状態でそこにいた。いや、痩せただろうか。前回来た時も痩せたなと感じた。人間てこんなに細くなるんだ、と伊波は毎回思っている気がした。肌は白く、乾燥している。父にはすでに呼吸器がつけられていた。自発呼吸がなくなったら、父は死ぬ。

「お父さんね、ついこの前までは、流動食食べられたんだよ。スプーンを差し出すと、眼でスプーン追うの」

父は脳内出血で倒れ、その際に間脳から上部脳輪にわたる網様態の部分が障害を受けた。動いている物を眼で追ったり、物を飲んだりすることはできるが、意識があってやっているわけでは無いということは、もう何回も言ってある。

久しぶりに見る母は淡いオレンジ色のアンサンブルに、ジーンズを合わせていた。痩せているが、すこし頬に肉がつき、少しだが化粧もしている。10年前、父がこういう状態になったばかりの時は、もっとやつれていた。何か悪い変化があるたびに嘆き、それが落ち着くと喜んだ。それは伊波も同じだった。医者の自分でさえそうだったのだから、母がそうであることは当たり前に思えた。

 しかし、だんだんと伊波達は一喜一憂すること自体に疲れていった。やつれていく母親を見ると、ますますやるせない気持ちになった。やがて忙しさを理由に、自然と施設から足が遠のいていった。


「なかなか来なかったね」

「ごめん。忙しくて」

母は疲れた顔で笑った。

 伊波はどう答えればいいかわからず、窓の方に目をやった。窓はあるが空気の通らない部屋。窓の外に見えるのは建物の壁。かろうじて植えられた木々の端が見える。モニターのウィーンという鈍い音を聞きながら、ケアマネージャの人の言葉を思い出す。とても良い施設ですよ。緑もあるし、窓も大きいから開放感があります――――。

 はじめ、伊波には到底そうとはそうは思えなかった。しかし様々な施設を仕事の関係で見るにつけ、ここは確かにましな方なのかもしれないということを理解していった。

「尚人は、まだお父さんを許せない?」

急に聞かれて、伊波はぎくりとした。

「いや……わからないよ」

つい本音が出た。父は当時、母とは違う女性と付き合っていた。だから、倒れたと聞いたときも、正直あまり感情が動かなかった。死ぬなら死ねと思っていた。しかし今、こうして母が父の側にいるのを見ると、不思議な気持ちになった。でも、母が父のことをどう思っているのか、それは聞いてはいけない気がした。


 伊波のポケットで携帯電話が鳴った。病院からだった。伊波は若干救われたような気持ちでそれを手に取る。3日前に手術をした髄膜腫患者の急変を知らせる電話だった。その場で投薬の指示を出そうかとも思ったが、やはり直接見た方が良いだろうと思い直し、これから行く旨を伝えて電話を切った。母に仕事に戻ることを伝え、部屋を出た。

 部屋を出たとき、ふと喉が渇いていることに気がついた。伊波はエスカレーターを通り過ぎ、廊下の奥の自販機までぺたぺたと歩いていく。ここの施設のスリッパはやたら滑る。

 伊波は無意識に、病室のネームプレートを読んでいた。佐藤、太田、白石、細川。

その時、伊波の足が、ある病室に引きつけられるように止まった。廊下はしんとしていて、人がいるのが信じられない程だ。

 伊波はしばらくそこに、じっと立ち止まった。それから辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、目の前の部屋に入った。


そこは父の部屋と同じような病室だったが、六人の患者が収容されている大部屋だった。窓は無く、蛍光灯の明かりがそれぞれのベッドを浮かび上がらせている。


誰も微動だにせず、およそ生き物が立てるはずの音は全く聞こえない。空調で乾燥しているはずの空気はねっとりと滞り、もはや凝固している。まるでこの空間だけ、時間が止まっているようだった。薬剤のきつい匂いと、排泄物の匂いがまじって、伊波の鼻腔に張り付く。

 伊波は空気の濃さにくらりとした。ここは、患者に残ったわずかな人間性を保とうとして、逆にすっかり排除してしまっているような空間だった。

 伊波はベッドを一つ一つ確認した。ある患者は仰向きに、ある患者は身体を不自然に横にしていた。身体が曲がらないのだろう。近づくと、呼吸器のぜーぜー、という音が響いた。


 伊波がある患者のベッドサイドに立ったとき、その患者は身体を丸く縮こめるように横になっていた。水色の入院着から見える鎖骨は、人間とは思えない程出っぱっている。

 伊波は見えない力に操作されているように、反対側へ回った。患者の顔が見えたとき、伊波は心臓をわしづかみにされた。しかし心のどこかでやはり、とも思った。そこにいたのは、数年前に自分が手術をし、失敗した患者だった。

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