第22話

「あーうまいなぁ!」

「五日市先生、ちょっと飲み過ぎですよ」

「ええやん。今日はほんまに青島のおごりやし~。あ、おねえちゃんもっとこれ持ってきてー」

 西藤がため息を漏らしながら、呆れた顔で五日市を眺めている。先日、頭蓋底手術研究会の学会があった。青島は今回も素晴らしい発表をしたが、例のごとく会での反応は悪かった。

 しかし、前回勉強会に参加していた後輩が、別の日に10人程人を集めて勉強会の後のディスカッションをセッティングしてくれた。今いる割烹はその後の食事会だった。


 会の幹事を務めた尾田は、千葉の病院に勤めている医師だ。30代後半の医師で、やたら童顔で、まだ20代に見えた。尾田が焼酎をカツンとテーブルに置きながら五日市に向かって言う。

「上の世代の人も、もっと勉強しなきゃ駄目なんですよ。だいたい、みんなメンツを気にしすぎです。本当は出来ないことを出来ると言ったり、自分の手術が最高だって思いたいんです」

「そうかもなー。医者は子供の頃から優秀だ優秀だって褒められて育ってきた奴ばっかりやからな。プライド高い奴ばっかりやで。じいさん世代は特にな~」

  すよねえと言いながら、尾田は伊波と西藤をじろりと見る。

「若手の内に良い師にめぐりあえないってほんと致命的っすよ。だからおれは本当に信頼できる先生から教えて貰える機会をこうやってずっと探してるんす」

 尾田が高い声でそう話していると、それまで黙って話を聞いていた青島が、ぽつりと言った。

「そんなに言うなら、うちの病院に来るか?」

「え?」

 尾田が大きな目を丸くした。

「もし本当に来たいなら、手配する」

「本当ですか⁉」

「ああ。来月までにこれるか?」

「なんとかします!」

 尾田は頬を高揚させ、ありがとうございます!と大きな声を上げてお辞儀した。青島は満足そうに酒をあおった。


 伊波が手洗いに立つと、青島が店の外から出てくるところだった。

「急変ですか」

「いや、夕方に見たメールのなかに、かなり危険な症例があってな。電話をしていた」

「どんな症例ですか」

「2センチ程の血管腫が脳幹に癒着している」

 伊波は顔をしかめた。血管腫は血管が固まったような形の腫瘍で、実際に血が通っている。これが破けると大出血になる上に、今回は生命活動そのものを司る脳幹に癒着している。つまり、植物状態や死と隣り合わせの手術だと言うことだ。


 青島は自分のサイトにメールと手紙の送り先を公開している。そこには毎日のように数件の相談が届く。青島は仕事の合間にそれにすべて目を通し、すぐに対応しなければならない件については、自分から連絡をする。難しい症例のためたらい回しにされていた患者は当然感激して、青島の声を聞いただけで不安が半減した、という患者もいるくらいだった。

 伊波は酒で若干ふわふわした頭でつぶやいた。

「いつも思いますけど。本当にすごいですね。手術の技術も、こなす仕事の量も」

「いや、ただ恵まれているだけだ。元々手先が器用だった。そこに沢山俺を頼る人がいてくれた。結果としていまこうしているだけだ」

 伊波は曖昧に口角を上げた。簡単に言うが、一般人には真似出来ない、と伊波が思っていると、それを見透かすように青島は低い声で言った。

「おまえもそうなれ。無理ならそうであるよう努力しろ」

 青島の細い目が伊波の目を捉えた。真剣な目だった。座敷からは五日市の大きな笑い声が聞こえる。伊波は思わず姿勢を正し、はい、と答えた。


そのとき、ふすまがさっと開き、吾妻がたたきに降りてきた。今日の吾妻はセリーヌのチェック柄のスーツだった。吾妻は二人に近づきながら、口をすぼめてのんびりと歌うように言った。

「青島~?電話終わったらすぐ帰ってきてよ。主役がいないと会の意味が無いじゃん」

「ほとんどの質問にはおまえと五日市で答えられるだろう」

 座敷の喧噪に負けないように、青島は少し声を張った。

「そうだけど~。早く戻ってよ。僕に青島の代わりなんて出来ないよ」

 僕、青島と違って面倒見よくないし~。そう言いながら、吾妻が二人とすれ違おうとすると、青島がそれを引き留めるように声をかけた。

「吾妻」

「なに?」

「おまえは俺の代わりになる必要は無い」

 吾妻は半分振り返りながら言った。アップにした髪が揺れる。

「何急に。僕だってそんなつもり無いよ」

「そうか?おまえはいつも、俺が失敗したときに自分が犠牲になろうと待ち構えているように見える」

 吾妻は黙った。半分振り向き、床を見ながら言う。

「別に……そういうわけじゃないけど。でも、いいじゃん。本人が問題ないって言ってるんだから」

「問題はある。おまえはこれから脳外科の部長になるんだからな」

 吾妻はぎょっとして青島を見た。それからものすごい目で伊波を睨む。伊波は思わず目をそらしたくなったが、かろうじてそれをこらえた。青島が続ける。

「伊波を責めるな。五日市から聞いたんだ。あの日、看護師のミスがあったらしい、って話をな。それで当日いた伊波を問い詰めたんだ」

「じゃあもう……」

「ああ。審査委員会での会議が済んだら処分を受ける」

 吾妻は言葉を失った。

「そんな――――」

「悪かったな。言わないでいて」

 吾妻はきっと目線を上げ、青島に歩み寄り、青島の胸をどんと叩いた。

「どうして。なんで。ばか」

 吾妻は青島の胸を叩きながら、目の端から熱い涙を流していた。

「青島がいつか教授になるのが僕の夢だったのに」

 青島が、ふ、と息を漏らした。

「人で勝手に夢を見るな」

「いままではがんばるって言ってたじゃん」

「俺も、どうにか頑張りさえすれば教授になれる道もあるかと思っていたんだ。でも、俺が教授になるのは無理だ。今回はっきりわかった。目立った活動をすれば茶々が入るし、他病院で手術をすれば疎んじられる。学会で発表しても歯牙にもかけられない」

「青島はいつもの通り無表情で吾妻を見つめていた。しかし、その目は優しかった。

だからな。俺は処分を受け終わったら、アメリカに行こうと思う」

 吾妻が顔を上げた。目と、その周りが真っ赤だ。

「アメリカ?」

「ああ。国際学会で発表したときに、アメリカのR大学病院の人が声をかけてくれてな。推薦を貰った。半年後に渡米する」

 吾妻は小さな声でアメリカ、と言った。すん、と鼻をすすりながら、人差し指を口元に当てている。

「でも……こっちで青島を慕ってくれる人もいるよ」

「まあな。でももう決めたからな。ゼロから始めるさ」

「でも。それにさ、僕が部長?なれるわけないよ」

「大丈夫だ。俺が処分を受けて、病院側に過失はないと言う代わりに、おまえを部長にすることを承諾させた」

「なにそれ。そんな――――」

  島は少し笑って、吾妻を見つめていた。

「おまえと同じ事をしただけだろ」

「はぁ?なにそれ」

 わけわかんない、と吾妻が言う。

「ずるい。てかむりだよ。僕青島みたいになれない」

「俺になる必要なんて無いさ。おまえは俺よりずっと手術が上手い。細かいことは五日市がどうにかしてくれる。ああみえてあいつは面倒見が良いし、人をよく見ている。上手く采配してくれるだろ」

「ずっとアメリカにいるの?」

「いや。時々帰ってくる。日本の患者を診るのも俺の仕事だからな。

だからその時、おまえは日本に拠点を持っていてくれ。そして、日本の患者はおまえの病院で受ける」

 吾妻が鼻をすすり、初めてふふ、と笑った。吾妻が笑うと、空気が柔らかくなる。

「夢みたいな話だね」

「ああ。それが俺の夢だよ」

 青島が言った。その時、西藤がふすまから顔を出した。

「吾妻先生。尾田先生が聴神経膠腫のアプローチについて先生がたの意見を聞きたいって言ってます」

「え?僕?わかった」

 吾妻は涙を拭い、青島をじっと見てから踵を返した。別れの挨拶はまだ先だというように。


 伊波はふうとため息をつき、細かい石が混じったコンクリートの床を見た。これでよかったのか、正直なところ伊波にはよくわからなかった。

「伊波。言いにくいことを言わせたな。悪かった」

「いえ」

 伊波の後ろの座敷から、笑い声と話し声が混じり、遠く聞こえた。伊波は首の後ろを掻きながら青島に言った。

「これで……ほんとによかったんですか」

「いいんだ。これで、おれもやっと諦めがついた。礼を言う」

 青島が伊波を見つめた。その真っ黒な瞳を見ていると、伊波は悲しくなった。青島は踵を返し、部屋に戻っていった。

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