第伍章 お見合い騒動の始末
中庭に辿り着くと、顔を青ざめさせて地面に座り込むクアルソ嬢と、そんな彼女を庇うように前に進み出ているボースハフト侯爵、そして狂ったように哄笑をあげるピアージュという混沌とした状況が出来上がっていた。
恐らく、既にピアージュがクアルソ嬢との関係を暴露した後なのだろう。
「ヒャハハハハハハハ! 聞こえなかったのでしたら何度でもお耳に入れて差し上げましょう! 私とそこにいるクアルソは男女の仲なのですよ。そこにいる女は結婚をしていない身でありながら男と閨を共にする淫売ですぞ。つまり、貴方を裏切った穢れた女です!」
よくもまあ、笑いながら噛まずに長々と喋れたものだと感心する。
クアルソ嬢に至っては絶望の表情を浮かべて、イヤイヤと譫言のように繰り返していた。
「如何です? 貴方も既に処女ではない娘を娶るのは嫌でしょう? ならば黙ってこの婚約を解消するのが宜しい! クアルソは私が責任を持って妻にします故」
良い度胸だよね。普通、召使いの分際で貴族をここまで愚弄したら問答無用で首を刎ねられても文句は云えないよ。
恐らく背後に聖帝陛下がいるからこその尊大な態度なんだろうね。
あーあ……背後の怨念もピアージュを呪い殺さんばかりに猛り狂っているし。
「ああ、申し訳ありません。エーアリッヒ様……その男の云う通り私は穢れた女なのです。騙すつもりはなくとも、本当のことが云えず今日の日まで貴方様を裏切り続けていた非道い女なので御座います!」
さめざめと啼きながら血を吐くように言葉を紡ぐクアルソ嬢に罪悪感を覚えるけど、今の僕にはどうしようもなかった。
「エーアリッヒ様! この上は私を討って下さいまし! この身を穢され、貴方を裏切った私をどうぞ貴方様の手で! せめてもの情けにエーアリッヒ様の剣で果てとう御座います!」
「ヒーッヒッヒッヒッ! 侯爵様のお手を煩わせるまでもありません! クアルソは私めが貰って差し上げますぞ!」
死を懇願するクアルソ嬢とゲス丸出しのピアージュの声が交互に耳朶を打つ中、ボースハフト侯爵が静かに口を開いた。
「クアルソ殿? 何故、貴女が死ななければならないのです? そして、そこの召使いよ。黙って聞いていれば、如何なる権利があって我が妻となる人を奪おうと云うのか?」
決して恫喝している訳ではないのだけど、ピアージュは侯爵の言葉に短く悲鳴を漏らして押し黙った。
「体を穢されたと貴女は云う……しかし、その心は綺麗なままだ。それはこの数時間だけでも貴女と触れ合った私には十二分に理解できました。聡明で慈悲深い貴女が死なねばならないでしたら真っ先に死ぬ必要があるのは私の方です」
これにはクアルソ嬢もピアージュも驚いたようだ。
「エーアリッヒ様? それは如何なる意味で?」
「二月前、父上が亡くなられて家督を継いだ際、私は父と懇意にしていた貴族、有識者達へ挨拶に赴いたのです。そんな折り、父上同様に取り立てるとおっしゃって下さったさる公爵のもとへ訪れた私は薬で眠らされ……実はその御方は少年愛の趣味をお持ちであったのだと後から聞かされました」
予想だにしていなかった凄まじい告白に場は静寂に支配されていた。
「ね? 穢れていると云うのであれば、私も貴女と同じなのですよ。いえ、同性に犯された私の方が不浄と云えるでしょう。ですからクアルソ殿が気に病む必要はないのです」
「こ、こんな私でも貴方に嫁いでも宜しいのですか?」
縋るように見詰めるクアルソ嬢に侯爵は優しく微笑み返した。
「クアルソ殿。“でも”ではありません。貴女“が”良いのです。むしろ私には勿体ないと思っているほどなのですよ」
侯爵はクアルソ嬢の手を取ると、その甲に恭しくキスを落とす。
「ならば、いっそのこと新婚旅行も兼ねて巡礼の旅に出掛けましょう。敬虔な心で神殿を巡れば、慈悲深い神々はきっと私達の穢れを落として下さるはずです」
「ああ、素敵です。私もエーアリッヒ様との巡礼の旅に同道致したく思いますわ」
自分そっちのけで二人の世界に入っていくクアルソ嬢とボースハフト侯爵にピアージュは呆然としていたけど、しばらくして我を取り戻したのか急に地団駄を踏み始めた。
「何だよ! 何なんだよ! 時間を掛けてクアルソを征服したのに、これじゃ計画は台無しじゃないか! 詐欺だ! こんな結果、認められるわけがあるか!」
子供のように癇癪を起こして喚くピアージュだったけど、もう二人の視界の中にピアージュの姿は映っていないようだ。
「チキショウ! 分家に良いように遣われる屈辱から抜け出すチャンスだったのに! 宝の山であるビェードニクル領をあの御方に献上すれば俺は公爵の地位を貰えるはずだったのにぃ!」
余程悔しかったんだろうね。
尋問するまでもなく自白してくれたお陰で、逮捕する口実ができたよ。
と云うか、こんなザルな計画が成功すると思っていたのが逆に恐ろしい。
「俺の素晴らしい人生計画を無茶苦茶にしやがって! これでも喰らえ!」
ピアージュが右の掌を二人に向けると、その先に大人の頭くらいの火球が現われた。炎系基本の攻撃魔法『プロミネンススフィア』だ。
「はい、そこまで!」
貴族に攻撃魔法を放とうとしている乱心者……証拠も何もあったものじゃないね。
僕は突風を起こす魔法『ゲイルミサイル』でピアージュの火球を霧散させた。
その煽りを受けてピアージュが吹っ飛ぶけど気にしない。
「横から悪いね。けど、ちょっとばかりオイタが過ぎたみたいだ。捨て置く訳にもいかないし、大人しく捕まってくれるかな?」
無様に倒れているピアージュにそう告げると、彼は勢いよく起き上がって捲し立てた。
「ぶ、無礼者! 俺を誰だと思っていやがる! 俺は! 俺は!」
「君が何処の誰って、只の召使いじゃないのさ。昔、君の一族は確かに貴族だったろうけど、今は零落れて貴族の身分さえも売り払った一庶民に過ぎないよ」
僕の挑発にピアージュは顔を真っ赤にさせて駄々っ子のように腕を振り回した。
「黙れ! 黙れ! 俺は止ん事無き御方の密命を受けた特使であるぞ! 妄りに事を構えれば後悔することになるぞ!」
「その止ん事無き御方って誰さ?」
「貴様如きが知るのは畏れ多いわ!」
もうお仕舞いだね。
ピアージュを捕らえて取り調べを受ければ、毒牙にかかったクアルソ嬢を始め、今までの犠牲者達とその家族にも累が及ぶのは想像に難くない。
この手のタイプは一人でも多くの道連れを作ろうと、取り調べの場で嬉々として毒牙にかけた女性達の名を並べ立てるのが相場だ。
それだったら……
「侯爵。危険ですからクアルソ嬢を守って後ろへ下がっていて下さい。それと少々庭先を汚しますけど、ご容赦願いますね?」
僕が前に出ると、ピアージュは小馬鹿にしたように嗤った。
「幽霊みたいにふわふわしやがって! さっきは不意を突かれて不覚を取ったが、今度は油断しないぜ! その女みたいな可愛い顔を苦痛と恐怖でぐちゃぐちゃにしてやる!」
ふわふわって言葉から分かる通り、僕はゆったりとした真っ白なローブで体をすっぽりと足の先まで覆い隠し、『浮遊』の魔法で中空を漂うように移動している。確かに端から見れば幽霊に見えなくもないだろうね。
その理由はいつか語る時が来るかも知れないけど、今はピアージュに集中させて欲しい。
「まずはテメェから血祭りだ! 『プロミネンススフィア』!」
ひい、ふう、みい……へぇ、一度に十五個も制御できるなんて、炎系魔法の資質はそれなりにあるようだね。
「けど、それが何?」
骨も残さぬと云わんばかりに殺到する火球が僕に命中して大爆発が起こった。
「クーア殿!」
「ああ、侯爵様、ご心配には及びません」
爆炎が消え去った後、無傷で佇む、いや、浮遊する僕に侯爵達は目を丸くしていた。
僕は戦闘時、常に風の結界『エアカーテン』で身を守っている。
本来、この魔法は飛来する矢或いは下位の攻撃魔法の軌道を逸らして防御するものなんだけど、遣い方を究めればこの程度の火球を受け止めるくらいは訳も無い。命中のインパクトの瞬間だけ術式に込める魔力を爆発的に高めることで、名前の通りカーテンのように薄かった風の結界は瞬時にして分厚い突風の装甲となり、その防御力に加えて結界を膨張させることによって生じる反発力で火球を防いだって訳さ。
「う、嘘だろ……俺の『プロミネンススフィア』が……?」
一方、ピアージュは悪夢を見ているような表情で僕を見詰めていた。
余程、今の攻撃に自信があったらしいけど、あのくらいの数の制御って冒険者ランクBくらいの魔法使いになれば誰でもできるスキルなんだよね。
「今まで俺を恨みに思っていた奴らはみんなコレで返り討ちにしてきたのに……」
成る程、道理で肩の上に『視』える怨念が凄まじいはずだよ。
毒牙にかけてきた女性達の家族の中には、ピアージュを恨んで実際に襲った人もいたんだろう。それを返り討ちに遭って女性の無念を晴らせないどころか、自分達の怨念までピアージュに取り憑く訳だからね。
よくもまあ、今まで無事に生き存えてこられたものだよ。
けど、それももうお仕舞いだね。
「そろそろ諦めがついたかい? 何人殺したのかは見当がつかないけど、死罪を免れないのは確かだよ」
僕の言葉にピアージュは憎悪をのんだ顔で睨んできた。
「僕も仕事柄、死刑執行人の知己は結構いる。せめてもの慈悲だよ。大人しく捕まってくれるなら、罪人を嬲ることはせず一息に首を刎ねてくれる人を紹介してあげるから」
尤も死ぬのは楽だろうけど、死後の魂は怨念によって蹂躙されるだろうし、冥府の裁きで地獄行きを命じられるのはほぼ間違いないけどね。
「う、五月蠅い! 俺の背後に誰が控えていると思っている! お、俺を捕らえればあの御方の怒りを買うのは必定だ!」
ああ、やっぱり処刑されると分かってて大人しく捕まるような性根の持ち主じゃ無いよね。うん、分かってた。
「あまり後ろ盾になってる人の事を軽々しく口にしない方が良いよ? この場を見ているその止ん事無き御方の間者に暗殺されても知らないから」
「馬鹿を云え! あの御方は俺が必要と云ってくれたんだ。俺の美しい顔が計画に必須だと! この任務が成功すれば今までの罪も帳消しにもしてくれるって! だから俺が処刑されるのも暗殺されるのだって有り得ないんだよ!」
なんだか可哀想に思えてきたな。
ここまで自己保身しか考えられないピアージュという青年にやるせなくなってくる。
ほら、さっきから僕達を覗き見してる奴から濃厚な殺気が溢れてきたよ。
君は利用されているだけ……きっと、あの言葉を口にした瞬間、君は……
「ピアージュ、そろそろ本当に口を閉じた方が良いよ。実を云えば君の背後にいるのが誰なのかというのは僕も知っている。昔の彼はそうじゃなかったけど、今の彼は君のことを替えのきく駒としか思ってない冷たい人間に成り下がっているようだ」
「そ、そんな訳あるか! あの御方は俺の実の父親なんだぞ! 昔、母上にお手をつけて生ませたのが俺だ! そうだ。俺の父親こそが聖て……ぐあっ!」
突然、ピアージュが一本の巨大な火柱と化した。
その火の勢いには手の施しようが無く、ピアージュは瞬く間に灰となって消えた。
炎系上位攻撃魔法『フレイムピラー』か。
当然の報いと云ってしまえばそれまでだけど、利用された挙句に殺される末路に憐憫の情が生じないほど僕は冷たいわけじゃない。
「冒険者ギルド・スチューデリア支部・副ギルド長に問う。今、死した愚か者に加護を与えられた御方の正体を知っているというのは本当か?」
姿を見せたのは僕達が乗ってきた馬車の馭者だった。
中肉中背でぱっと見て冴えない風貌のどこにでもいそうな男だけど、隠密として活動するには理想的な容姿であるだろう。
「そりゃ知っているよ。冒険者ギルドでも今回のお見合い騒動について色々と調べたからね。当然、ピアージュの背後にいるのがあの御方というのも、その企みも分かっていたよ」
僕の言葉に馭者からの殺気がさらに大きくなった。
「はっきり云って、流石に僕も失望したよ。昔の彼は性格に問題はあっても陰謀を巡らせて人を傷つけたり他人の財産を狙ったりするような子じゃなかったからね」
嫌悪を隠すことなく首を振る僕に、馭者は大きく前に出た。
その両の拳が燃えるように炎を纏っている。
「あの御方を侮辱する発言は
馭者の背中で爆発が起こったと思った時には、炎に包まれた拳が『エアカーテン』ごと僕の腹を打ち抜いた。
背後で炎の魔力を爆発させる事で突進力を得て、敵との間合いを一気に詰める技か。
想像以上の遣い手である馭者に驚かされたけど、それは向こうとしても同じだったみたいだ。
「私の『ブーストナックル』を受けて生きているだと? 貴様、ローブの下に何を仕込んでいる?」
「残念だけど企業秘密さ。ま、伊達に副ギルド長の地位にいるわけじゃないってことだよ」
なんて強がって見せたけど、予想以上のダメージに実はピンチだったりするんだよね。
『エアカーテン』は無詠唱でまた張れるとしても、あの馭者のパンチには通用しないのは証明済みだ。
インパクトの瞬間を捉えようにも速すぎて反応できなかった訳だし、何より魔法の補助抜きにしても全身のバネを使って打ち出された拳は正しくプロの格闘家の技だった。
きっと小手先の防御技では簡単に抜かれてしまうだろう。
状況はかなりマズいね。魔法使いが接近戦で戦士に勝てる道理がない。
一応、護身術として小刀術を修めてはいるけど、そこらの盗賊ならまだしも彼相手に通用するとは思えないしなぁ。
打開策は無いかと思案する間もなく、爆発音と共に馭者の拳が僕の顔面に迫っていた。
「腹が駄目なら顔面ならどうだ?」
うん、正解。僕の胴体には少々秘密があるけど、顔は普通に攻撃が通るからね。
だからこそ、骨が分厚い額で拳を受け止める『額受け』って防御技をある人物から伝授されてたりするんだよ。回避は難しくても、それくらいは僕にもできるからね。
僕は額に魔力を集めて強化しながら馭者の拳を迎撃した。
「き、貴様! 味な真似をする!」
「『ゲイルミサイル』!」
馭者が拳を痛めて怯んだ隙を逃さず魔力の突風を放ったけど、馭者は軽く横へステップすることで難なくかわす。
「ならば、これでどうだ! 『ブーストタックル』!」
今度は馭者の体そのものが突っ込んできて、僕の胸に彼の左肩がもろに入る。
拳ならともかく体当たりを受けては一溜まりも無く、僕は無様に吹っ飛ばされた。
「がはっ!」
元々宙に浮いていたところに爆発でブーストされた体当たりを受けてしまった僕は、気が付けば遙か遠くへ飛ばされて倉庫らしきところへ突っ込んだ。
けど堅い壁ではなく窓を突き破ったということは、まだ僕が勝負のツキに見放されていない証拠だろう。
突入した際に破けたらしい麻袋から漏れた粉に塗れながらも何とか立ち上がった。
「ん? これは小麦粉?」
うん、小麦粉だ。
倉庫内に堆く積み上げられている小麦粉の袋を見上げて僕は思わずほくそ笑んだ。
「ツキに見放されるどころか、勝負の流れは僕にある! 後は馭者がここに入ってくれれば僕の勝ちだ」
祈るまでもないだろうね。
彼はプロのエージェントだ。僕の死を確認しないはずがなかった。
「生きているか、副ギルド長? 今、トドメを刺してやろう」
来た! 案の定、馭者は僕を確実に始末するために倉庫に入ってきた。
出来れば傷の治療をする時間が欲しかったけど、今の幸運を思えば贅沢な話だ。
「こっちだよ」
僕はわざと所在を馭者に伝える。
「良い度胸だ。いや、礼を云わせてもらおうか。もう間もなく侯爵家の兵士が来る。隠れん坊などされては堪らぬからな」
「そうだね。僕もちょっとダメージが大きいからそろそろ決着をつけさせてもらうよ」
僕は自分を中心に竜巻を起こした。
「敵を吹き飛ばせ! 『トルネードスピン』!」
倉庫内を暴風が荒れ狂い、袋を破いて盛大に小麦粉を捲き散らかす。
「何のつもりだ? この程度、私には目眩ましにもならん!」
かかった!
僕の作戦通り馭者が拳に炎を纏わせ背中に魔力を集中させたのを確認した僕は、臍下丹田にありったけの魔力を集中させる。
「トドメだ! ブース……何?!」
馭者が背中の炎を弾けさせようとする刹那、倉庫内が巨大な火炎に包まれる。
僕は全力で『エアカーテン』を強化してこの大爆発に耐えた。
「ああ、吃驚した。想像を遙かに超えた爆発だったね」
すっかり中が吹き飛ばされた倉庫内を見て、自分の作戦が如何に無茶だったのかと唖然としていた。
馭者の姿は見えない。倉庫内に魔力の網を張り巡らせて索敵しても何も引っ掛からない事から、爆発の中心にいた彼は跡形も無く木っ端微塵になってしまったのではと推察する。
「大気中に可燃性の粉塵が一定の濃度で充満した状態で起こる粉塵爆発……文献で読んだことはあっても実際に試したのは初めてだったからなぁ……やっぱり机上で修めた知識だけじゃなくて実地でも試さないと危険だね」
焼け焦げた倉庫から出ると、ボースハフト侯爵とクアルソ嬢が兵士を引き連れてやって来るのが見えた。
「庭先どころか貴重な小麦粉を蓄えた倉庫を破壊してしまいました。どのようなお咎めでも甘んじて受け入れます。しかし、これは僕個人の戦闘です。冒険者ギルドへは何卒寛大なご処置をお願い致したく……」
跪いて赦しを乞う僕にボースハフト侯爵は
「許すことなど何もありません。貴方は私と我が花嫁となる人を侮辱し、我が屋敷で狼藉を働いた無礼者二人を討ってくださいました。それと同時にクアルソ殿のご実家を狙う理不尽な企みを防いでくれた恩人に仇を為すことなどあり得ませんよ」
「侯爵様の寛大なお心に感謝致します」
一礼する僕に侯爵が近づいてきて小さく耳打ちをする。
「今回、冒険者ギルドには並々ならぬ恩を受けました。ギルド長のお知恵が無ければ、私は傷ついたクアルソ殿の心に踏み込むことすらできなかったでしょう」
やはり公爵に犯されたというのはギルド長の入れ知恵だったのか。
なるほど、道理でクアルソ嬢の心のケアをするなって厳命するはずだよ。
同じ傷を持つ男性がいると分かればクアルソ嬢も心を開きやすいし、云い方は悪いけど心の傷が深いほどボースハフト侯爵へ心が傾くという訳か。
「それに貴方を罰すれば我がボースハフト家は非難の矢面に立たされることになるでしょう。恩を仇で返したという意味ではなくてね」
侯爵は僕の顔を見据えると、何故か頬を赤くしてモジモジし始めた。
「私は幸せ者です。今回の事件のお陰で聖都六華仙の内、二人も知己を得ることができたのですからね」
分かった。侯爵のこの表情は子供が憧れの人と会った時の顔だ。
「まずは人足寄場の創設者であり善政のお手本、『地華仙』ことポブレ=ビェードニクル伯爵……そして、今、私の前に立たれている」
うーわ……そうキラキラした目で見られると、なんか居た堪れないんですけど……
「過去最高の宮廷治療術師にして、聖后様を始めとする後宮のお妃様方の相談役を務められた過去を持ち……」
あの侯爵、僕を見詰めるのは良いとして、ローブの裾を掴まないで下さい。脱げます。
「何より、五十年前に現われ世界中を恐怖に陥れた魔王とその軍勢を勇者様と共に撃退した英雄! 『風華仙』ことクーア様! こうして出会えたことを光栄に思います!」
ギルド長め。きっと情報源はあの人だな。
僕が勇者の一味だった過去のせいで聖都六華仙の称号を得ていたなんてギルド員に知られたら関係がおかしくなるから誰にも内緒だって約束したのに、何で云うのかな?
これじゃ僕が何の為に初歩の魔法だけであの馭者と戦ったのか分からないじゃないのさ。
ほら、侯爵も花嫁ほったらかしちゃマズいでしょ?
僕は微笑みながら侯爵と目線の高さを合わせると、口元に人差し指を宛ててウインク一つ贈った。
「この事はご内密に願います。もしお約束頂けましたなら、時間を見つけては侯爵様のお屋敷をお訪ねし、お聴きになりたいでしょう勇者との冒険を語って差し上げますから」
僕の言葉を受けて年相応にブンブンと何度も頷くボースハフト侯爵に、つい弟や妹達、甥っ子姪っ子を連想して思わず彼の頭を撫でてしまっていた。
不敬かなと思ったけど、当の侯爵様は興奮したように僕の顔を見詰めている。
「く、クーア様が僕の頭を撫でて下された! あ、あのクーア様! 今後、僕のことは是非ともエーアリッヒ、いえ、エアとお呼び下さい!」
僕は、また大変な人に懐かれちゃったなぁ、と内心で苦笑いをしつつも、プライベートでなら、と了承するのだった。
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