守銭奴と死神のスパゲティブルース
桑原賢五郎丸
365
一年前、発端
真っ暗闇の中、目を更に大きく開く。少しでも光を取り込もうと思ったのだが、何も見ることはできない。手を伸ばせば蓋にぶつかるのだろうが、体を動かす気になれない。
一年間の間に関わってきた人たちの顔を思い出す。うまく助けることができた人もいれば、忘れられない失敗にうずくまった夜もあった。
最後に思い浮かべたのは妹の顔だ。まだ高校生。これから資金的な援助無しにやっていけるのかどうか、それだけが不安だった。
「おい、優子」
すぐ近くから聞き覚えのある声が響く。死神の太蔵だ。いよいよ私の命を刈り取るときが来たのだろう。
全てを悟った優子の目の前が、急に明るくなった。棺桶の蓋が開けられたのかもしれない。それを認識する意識はもう優子に残っていなかった。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
一年前。
例年よりもかなり冷え込んでいた冬の月曜日、朝。
神奈川県鎌倉市、JR大船駅。
日本の大動脈とも呼ばれる東海道線に加え、成田空港との直通線「成田エクスプレス」や観光地江ノ島へ向かう「湘南モノレール」が利用できるだけあって、人の数は多い。
7時48分。
JR東海道線の15両編成電車が入線。先頭車両のスピードが落ちる前に、ふらりと白線を越えようとする背広姿の若い男がいた。青白い顔からは感情と生気が抜け落ちている。
電車の到着を待つ乗客は、誰も声をかけようとしない。気づいていないのだ。皆が同じポーズでスマートフォンを覗き込んでいる為である。もし男の行動に気づいた者がいたとしても、声をかけるかわり動画を撮影しだすことだろう。
あと一歩でホームから落下する、という状態の男の手首を、誰かが掴んだ。女だ。八重咲優子が男の手首を掴み、飛び込みを封じていた。男はか細い声で叫んだ。
「離してくれ!」
「ダダダ、ダメです、離しませんっ!」
周囲が一斉に言い争いの元へと目を向ける。うすら笑いを浮かべながら録画を始める者も数多い。優子が一瞬だけ振り向き、何もない空間に視線を送る。すると男は何かに抱えられたかのようにすんなりとホームの中央へ移動した。それでもなお男は諦めない。
「頼む、ほっといてくれ……!」
「ダメです。落ち着いてください!」
「け、警察か?」
「違います。とりあえず落ち着ける場所へ行きましょう」
優子が男の背中を押す。力を入れたようにも見えないが、男は駆け上がるような速度でホームの階段を上がっていった。
〜 〜 〜 〜 〜 〜
駅の近くの公園。ベンチで肩を落としている男に、優子は缶コーヒーを差し出した。無言で受け取り、一口飲んだ男の前に手がにょきり。
「すみませんが」
言葉の意図を測りかねた男が見上げると、優子は手を突き出したまま目を逸らした。
「130円です」
男は目を剥いたが、突き出される手の圧力に押され、渋々と金額を置いた。男はまた一口コーヒーを飲む。缶を握った左手の薬指には指輪が光っていた。長いため息を見て落ち着いたと判断したのか、優子は名刺を取り出した。
「すみません、私、こういう者です」
福利労務省 スーサイド対策室
男は名刺から目を上げ、優子をまじまじと見つめた。歳のころは20代前半といったところ。ボブヘアーに薄いメイク。スカートスーツに黒いスニーカー。目鼻立ちは整っているが、不思議と印象に残らない。影が薄いとでも言えばいいのだろうか。
男は再び名刺に目を移し、疑問を口にした。
「なんでスーサイド……?」
「自殺っていう意味です」
「それくらい分かるが」
頭を下げた優子は深呼吸を一つ。
「失礼しました。本当にこの部署名は評判がアレでして……。それでも最初は『オフィス・フォー・スーサイドワーカー・アンド・スチューデント・アンド・オールピープル』だったので、まだマシかと……」
全く興味なさげに聞き流している男に、優子はなおも言葉をつなげる。
「福利労務省のホームページからご意見をお送りいただければ幸いです。私達は上の意向に逆らうことができませんし……」
ところどころ言い淀みながらも優子は言いたいことを言った。
「……ていうかアンタ、なんでおれの邪魔をするんだ」
「ええと、いきなりお話すると驚かれるか神経を疑われることは理解していますが、仕事みたいな感じです」
先程までの自信なさげな口調から、完全に自信を取り除いたような口調になり、それでも決心したようにふわふわとした曖昧な言葉を口にする。
「ええと、自殺的みたいのをくい止めてみる雰囲気のことが私たちの仕事、みたいな感じだからです。
宗山は再び目を剥いた。いつから見張られていたのか。逃げ出そうとする宗山だが、立ち上がることができない。何かの力によって肩を押さえつけられているかのようだ。
「私たちは宗山さんに限らず、救える限りの人を救う為に日々せせこましく働いていたのですが……」
優子はため息をついた。
2020年代に入り、誰もが予想しなかったことが起きた。日本を新種の病気が襲ったのである。
肉体にはほぼ影響がないが、精神に害を及ぼす。罹った際の自死率は100%。様々な治療法が試されたが、効果を発揮するものはなかった。少なくとも医療分野においては。
もちろん政府は情報を伏せている。メディアに知らせようものなら、いい加減な情報で国中がパニックに陥ってしまう。メディア規制はかつてないほど厳しい物となった。同時に立ち上げられたスーサイド対策室という存在も世間に知られていない。
つまり今現在のこの状況。確実に、必要以上にうさんくさく感じられているだろうな、ということを優子は認識していた。
「で、なんなんだ、何の為に、なんなんだ」
苛立ちを隠そうともせず、宗山は不満の意を表明。
「あ、あ、まずはお話をしましょう」
「いや、もういい。なんでもいい。だから放っておいてくれ」
「今、宗山さんは精神が弱っているんですよ。その、変なのに取り憑かれて」
優子は宗山から視線を外しながら言う。見ず知らずの人間からいきなり「アンタ取り憑かれている」と宣告されたとしたら、不信感しか生まない。先程から負の連鎖に陥りかけているが、それでも優子には押すしか手段がないのだった。
「ちょっとだけお時間を頂いて、その、あの、お祓いみたいなのをさせてもらえないかな〜って……」
「バカにしてんのか」
再び立ち上がろうとした宗山を見て、優子は何もない空間に向けて
「もういいよ」
と声をかけた。すると宗山はすんなりと立ち上がる。
「とにかく、何も話すことはない。次に会ったら警察に連れて行くからな。裁判だって起こしてやるぞ。この詐欺師め」
仮にも命の恩人に向けて、宗山は幼稚な脅し文句を並べる。
「くれぐれも早まった真似はなさらないように。お願いします」
怒り心頭で立ち去った宗山を見送りながら、優子は白い息を吐いた後、独り言を口にした。
「
「ああ、憑いてた。ビッタビタに憑いてた」
何もなかった空間に金属バットを持った、熊のような大男が現れた。壮年というには若く、若者と呼ぶにはためらわれる風体の男だ。濃紺の作務衣を来て、頭には鉢巻状にした白いタオルを巻いている。それだけでも十分人目を引くが、問題はそれ以外のところにあった。
太蔵と呼ばれたその男は宙に浮いており、おまけに体が透けていた。ほとんどの人が確認できない存在。彼は優子に取り憑いた死神なのだ。
「とりあえず殺してやった方がいいだろう、あの男は」
「いや、だから人間を殺したらダメだから」
優子は目玉だけを上に向けて太蔵を睨みつけた。
「冗談だ。この辺りはあまりいい感じがしねえから、とっととケリつけて帰ろうや」
太蔵は金属バットを片腕で振り回しつつ、鼻歌を歌いながら宗山の後を追いかけて行く。優子はその後を早足で追いかけた。
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