TOWER!〜怪物だらけの異世界タワマン〜
居孫 鳥
第1話
薄暗い路地、ビルの隙間から、鋭い爪のついた手が次々と突き出され、俺を絡め取ろうとする。
「はっ、はっ、……あぁ、くそッ」
まるで悪夢の中みたいに、足がもつれて一向に前に進まない。両手で宙を掻く悪あがきをしているが、左脚に手の一本が、続けて二本目三本目が巻きついて、地面に引き倒されるのにも、抵抗する術がない。
肌は人間のようなのに、腕はいくつも関節があって長い。そして、明らかにひとりについているべき数よりも多かった。
どことも知れぬ、古びた路地裏。遠くに表通りらしきネオンの光が見えるが、そこまで辿り着くのはもはや絶望的だ。
倒れた拍子に路地を塞ぐポリバケツにぶつかり、俺の顔面の下で中身がぶちまけられる。鼻が痛くなるようなすさまじい異臭、それも鉄錆を含む生臭さ。
……いや鼻が痛いのはポリバケツに打ちつけたからか?もはやどちらなのかもわからない。
ポリバケツから散らばった中身は、異臭から想像できるとおりの、赤黒く脂ぎった、肉片のついた骨と、何かのはらわた……肉屋の産業廃棄物だろうか?
だが倒れ込む俺の手が思わず掴んだのは、明らかに人毛の感触で、指先がそれにくっついた、ぐにゃりとした薄いなにかを手繰り寄せ――
「ぎゃあああ、ひい、ああああ」
視界に入るものを見たくない、理解したくない。
その恐怖の一念で身体を反転させ、仰向けた俺の目に入ったのは。
巨大な顔。
俺の三倍もあろうかという大きな、人間の頭。額には二本のツノまである。だがその首から下はアンバランスに細く、首自体も馬のように長い。
肩らしき場所から先には衣服、白いニットのサマーセーター?ワンピース?を纏い、見るのをここだけに絞るなら、凹凸感から若い女性のようだ。
だがその関節のやけに多い腕は両側に三対、腰のあるであろうあたりには、紺のチェックのプリーツスカート――そう、ならば上半身はワンピースじゃなくてセーターだ――が見えて、スカートの裾からはすんなりしたすてきな脚線の太もも。ただし、四本ある。
一言で言って、化け物。
化け物が口を開いた、ああもうダメだ。俺は死ぬ、食われる。
ご入居、おめでとうございます――
◇◇◇
俺が路地裏でなんだかわからない化け物と遭遇する、直前のことを話そう。
その日俺は、職場の後輩に誘われて山にいた。それもハイキング的なやつではなくて、ガチの登山。
本来、俺は限りなくインドア寄りの人間で、自分から積極的に山に登るなんてことはありえない。運動するにしても、屋外じゃなくて空調の効いたジムに行くタイプだ。
それがなぜ、登山道と呼ばれてはいるが実質ただの断崖絶壁にへばりつき、頼りない鎖だけを支えにじりじりと後輩の後を進んでいるのかと言えば。
「もおおお限界ッス、俺はなんもかんもヤになりました、このままだとトびかねない勢いッス」
「トぶってそれ海外逃亡的な方?それとも屋上からジャンプオフな方?あるいはおクスリ系?」
「どれでもいいっすよ!!この憤りとストレスをどうにかしないととにかく、とにかく、とにかくですねえ、コーダさん、前に困った事あったら相談しろな?って言ってくれたすよね?今です、それ今お願いします」
そんな会話を経て、今と言いつつ実際には次の土曜に、俺は後輩の櫛田に山に引っ張ってこられたのだ。奴の趣味の登山に付き合うという名目で。
俺はさっきも言ったが果てしなくインドア寄りの人間なので、もちろん登山に適した装備なんて持っちゃいない。
櫛田は用意周到にも、金曜の仕事終わりに奴の自慢のSUVで俺を国産有名アウトドアブランドのショップに連れ込んだ。
最近のこういうグッズなり装備なりは、とにかくかっこよく作ってある。櫛田と、日に焼けたいかにもはしこい感じのアウトドア大好き系店員が二人がかりで、俺を見た目だけは一端の登山スタイルに仕上げた。
プラチナ会員なんで常時10%オフッス!って言うが、残りの90%は俺の自腹じゃないか。
そのまま車は山の方へと突き進み、登山口近くの駐車場で車中泊の上、早朝からこうして山歩きをさせられているのだ。
まあこんなふうに振り回されながらも、俺は櫛田を邪険に扱うことはできない。
何しろこいつは若いのにたいそう真面目で、部署の誰より勤勉だし、仕事もできる。期待の若者なんだ。
……もっとも俺の経験上、部署内でも目立つような勤務態度不良だの能力不足だのの奴は大体が中年、つまりオッサンで、若い奴の方がまだ出来が良い。この傾向なんだろうな?若い頃ちょい微妙くらいだった奴が不良中年に育っちまうのかな?
櫛田が上司で先輩である俺を山に拉致するほど追い詰められているのには、深すぎるほど深い職場の闇が関わっている。まあ具体的にはろくでもない不良中年案件なんだけど。
それを解決するまでに至らず、目下ただただ我慢させているという部分には、上司たる俺も責任を感じているわけだ。
山は、全部が最悪ってわけじゃあない。
景色はいいし、空気もうまい。ギスギスした人間関係もひっきりなしにかかってくるクレーム電話もない。
ただ、もう四十がそこに見える俺が二十代なかばの櫛田についていくのは極めてしんどい。
俺だって普段、健康のためにそこそこジムにゃ通ってる。黙々とサンドバッグ叩いたり、若い練習生に指導を受けてミット打ちの相手してもらったりするのは楽しいし、ストレス解消にもなる。
ただ、この登山、しかも断崖絶壁というやつは、そういうのとまた違う筋肉を使わされる。
つまり俺はその時、疲労で少々ぼんやりしていたのだ。
「あっ、コーダさん顔つきがヤベーッスね。ちょいペース上げすぎたかな。もう少しだけ頑張ってください、ここ超えたら、休憩できる隙間のあるポイントなんで」
休憩ポイントが隙間ってなんだよ、なんの隙間なんだよもう。
「ちくしょー、そこには椅子があるのか?自販機は?ウォシュレットのついたトイレを要求するっ!」
「ハッハ。飲み物は持ってるでしょ!あと、ちいちゃいスコップとトイレットペーパーは俺が持ってるんで、トイレの時は言ってくださいね!」
そのスコップで俺に何をしろって言うんだ。考えたくもないわ。
「ていうかさ、櫛田くん、あれ何?なんか見えるんだけど」
「なんスかあれって。このへんそんな見るものあったかな」
櫛田とバカな会話を交わしている最中、俺の視界の隅に、何かきらきら光るモヤのようなものが見え始めたのだ。
「なんか……モヤッとしたものがそこにあるんだよ。光ってる」
「えっ。やめてくださいよ熱中症かな……なんならその場で一回止まりましょ。ハイドレーションちゃんと使えてます?とりあえず水飲んで、俺いま塩タブ出すんで」
「水はちょいちょい飲んでるけど……いやこれ幻覚じゃねえよ。なんか、この辺に」
じりじりと俺の方に戻ってこようとする櫛田に、人のサイズくらいあるその光のモヤのあたりを指して見せる。
なんだろうこれ、もう少しで手が届きそうなんだが……
もう少し、あと少しで手を伸ばし続けて、いつの間にか俺は頼りの鎖を掴む逆の腕も伸びきっていた。
「ちょ、コーダさん!何やってんすか?!」
いや、この何だかわからないものにもうすぐ……
あとひとおし。
反対の手を離せば。
あれ、反対の手離したら落ちるんじゃね?
鎖を手放した俺の体は、断崖絶壁の下方に向かって真っ逆さま。
櫛田の悲鳴が上から聞こえて来る。
斜面には衝撃を和らげるような木なんかもなくて岩ばかり。
あっこれ死ぬやつだ。俺は登山漫画を読んでたから知ってるんだ。あれは面白い漫画だった。あの作者の今描いてる作品も好きでちゃんと紙の本で集めてて……
俺は真理を得た。
死ぬ時って別に走馬灯とか見ない。
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