どうして?

 終業式の日の夜、有紗は教師陣たちが催した送別会からの帰り道で、たくさんの餞別品が入った紙袋を両手に提げていた。


「贈り物があるのは嬉しいけど、私の手は二本しかないんだよ」


 連なる建物から漏れる明かりと車列のヘッドライトが掠める歩道を進みながら、当たり前のことをぼやく。

 有紗は他人の好意を無下にできない質ゆえに、帰宅してから餞別品の置き場所に困ることも想定して、ちょっぴり元気が無くなる。


 気を落としたまま自宅のあるアパートにたどり着くと、一階の階段に差し掛かる前に紙袋を一度地面に降ろししばし腕を休めてから三階へ昇り始めた。

 やっとの思いで三階に到達し、角部屋を曲がったところで、有紗はどきりとして足を止めてしまう。

 自宅のドアの前で見慣れ親しんだ人物が物憂げに佇んでいた。


「大林君……」


 紙袋を持つ腕の力が抜けるぐらいの驚きに打たれ、有紗の口から佇んでいる人物の名前がこぼれ出た。

 佇んでいた大林は有紗の声を聞いてか、物憂げにしていた顔を上げゆっくりと振り向いた。

 大林と有紗の視線がかち合い、アパートの妙な静けさが一層に際立った。


「なんで、大林君が……」


 予想もしていなかった遭遇に、有紗は現実感のないまま大林を見つめた。

 バラバラバラバラ!

 その時、大林と遭遇した驚愕で緩んでいた腕から紙袋が滑り落ち、アパートの床に餞別品が音を立てて散乱した。


「ひゃああああ」


 不意の乾いた衝撃音に飛び上がらんばかりに悲鳴を上げた。

 有紗の物音に驚く様子を、大林は呆れながらも懐かしさの籠った目で眺めている。


「あ、あああ」 


あせあせと有紗は大林と餞別品とに目を交互に向け、しばらくしてから近い方の餞別品を拾うため腰を曲げた。


「手伝いますよ」


 大林は有紗に微笑みかけながら歩み寄り、床に散らばった餞別品を拾い出す。


「ありがと、大林君」


 申し訳ない声で礼を言い、有紗は大林と協力して拾い切った。


「いえいえ、これぐらいのことは当然です」

「量が多くて袋に戻すだけでも大変だったから。助かったよ」


 謙遜する大林に、有紗は心の底から感謝を述べる。

 大林は朗らかな微笑みだけを返して、言葉は継がなかった。

 二人の間にふいに沈黙が降りる。

 紙袋を廊下に立てさせたまま、互いに相手の次の言葉を待った。


「あ、あの……」


 無言に耐えかねた大林が、先に沈黙を破った。

 急に恥ずかしくなったように有紗から視線を逸らす。


「荷物、俺が、持ちましょうか?」

「……あー、大丈夫だよ。私一人で持てるから」


 有紗はしばし考える間を置いてから、大林の親切を遠慮した。


「重くないですか?」


 大林の問いかけに、有紗は本心で重いよと答えたかった。

 しかし、助けられてばかりいられないという思いから、わざと嘘を吐く。


「そんなに重くないよ。これぐらい大林君の手を借りるまでもないよ」

「そ、そうですか」


 大林としては空き教室でレッスンをしていた時のように手助けする側になりたかったのだが、悪意なく有紗に断られて少々ばつが悪くなった。


「そういえば大林君」


 気まずい沈黙が降りる前に有紗が声を出した。

 大林はなんですか? という顔になる。


「どうして私の家の前にいたの?」

「あー、それは……」 


 有紗の純粋な疑問に大林は返事を窮した。


「それは?」

「えっと、先生に頼みたいことがありまして……」

「頼みたいこと、私に?」

「はい。俺の将来についてなんですけど」


 慎重に言葉を絞り出していく大林に、有紗はなるほどと心得たように明るく相好を崩した。


「将来ってことは、進路だよね?」

「まあ、そうです」

「大林君は何を目指しているの?」

「俺、教師になろうと思います」


 毅然と大林が決意表明する。

 有紗はへえ、と少し驚いて目を見開きつつも、次の瞬間には嬉しそうな微笑みを浮かべた。


「ついに進路が決まったんだね。大林君なら教師になれるよ。だって私みたいに頭が悪くないからね」

「教師になるのは俺の一つの目標になりました。でも、もう一つ目標があるんです。その目標を達成するために先生に頼みたいことがあるんです」

「私じゃないと駄目なの? 私はもう四月から新しい学校に赴任するから、相談を聞いてあげられないよ」

「相談は必要ないです。ただ先生には待っていてほしいんです」

「待つ? 何を?」


 有紗は純朴に首をかしげる。

 大林が緊張をほぐすように一息大きく吐いた。

決然とした面持ちで有紗を見つめる。


「先生のパートナーとしてふさわしい男になるまで、俺のことを忘れないで待っていてくれませんか」

「パートナー?」


 勇気を振り絞った大林の望みに、有紗が意味を理解できずに呆けた顔で訊き返した。

 大林は深くしっかりと頷く。


「…………」

「…………」

「…………え、えええ、えええええ!」


 しばし大林と見つめ合っているうちに有紗はようやく彼の発言の意味を解釈して、途端に水位が上がるように顔を赤く染めていった。


「パ、パートナーって、もしかして夫婦とか、そういう?」

「いきなり夫婦はないですけど、最終的にはそういう関係なれるかもしれません」


 狼狽する有紗と比べて、大林の方は案外と冷静に受け答えした。


「私と大林君は教師と生徒の間柄なのに」

「今すぐに夫婦になるわけじゃないですよ。それに今の俺じゃ先生とは釣り合いませんよ」

「そうだよね、私なんかが大林君と釣り合うわけないもん」

「私なんか、とか言わないでください。俺の方こそ先生と釣り合うにはほど遠いんですから」


 大林が有紗の自嘲に若干の嫌気がさす。


「なんでそう自分を卑下するんですか。先生の良いところは俺が一番知ってるつもりです」

「私に誇れるものなんてないよ」 


怒られた子供みたいに有紗は肩身を狭くして、かろうじて言い返した。

 有紗の心情などお構いなしに大林は告げる。


「俺は先生のことが好きです」

「へ、へ?」

「でも先生の気持ちはどうかわかりません。だから、ふさわしい人間になったらもう一度先生のところに告白しに行きます」

「へ、へ?」

「それじゃ、先生」


 大林は困惑で処理が追いついていない有紗に好意を伝えると、大きく足を踏み出した。

 有紗の横を通り過ぎて、一片の迷いもない足取りで廊下の角を曲がり、階段を降っていった。

 しばらくして有紗が困惑から立ち直り、大林の一度目の告白が腹に落ちていく。


「大林君……」


 階段の方に顔だけ振り向けた。

 眉が下がり、戸惑いが浮かぶ。


「告白するなんて聞いてないんだけど、大林君」


 そこにまだ大林がいるかのような呟きが漏れた。

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