エスカレーターに和尚さん?

 途中で昼食を摂り、二人がモール内の場所を巡り終わった頃には、街に黄昏れが押し寄せて来ていた。

 朝に待ち合わせた駅前までの道を帰りながら、大林は隣を並んで歩く有紗に改まって礼を言う。


「先生、今日はいろいろお時間を戴きありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとう大林君。先生の都合に付き合ってもらっちゃって」

「いえ、場所を作るようにお願いしたのは俺ですから。言い出しっぺとして確認の義務がありますから」

「大林君にお墨付きをもらえると私も安心できるよ」


 へへ、と有紗は嬉しそうに笑った。

 有紗の笑顔を見ながら、大林はかねてより用意していた問いかけを実行に移すことを決めた。


「ところで先生。今日歩き回ったモールの中で、1カ所目から26カ所目までのルートを覚えてますか?」


 ほんわかした雰囲気に気を抜いていた有紗は戸惑う。


「え、突然だね」

「覚えてなかったら、わざわざモールまで行った意味がなくなっちゃいますから。ルートの一カ所目は?」

「ちょっと待って、今思い出すから」


 答えを急かされ、有紗はすぐに頭のスイッチを切り替えて瞑目した。

 脳裏に大林と巡覧した店頭の記憶を思い返す。


「ええと、1カ所目は入り口で……」

「2カ所目から26カ所目まで順番に言ってください」

「ええ、難しいよ」


 慈悲を乞うような声音を出すが、大林は言葉を返さずに無言で見つめ返してくる。

 答えるまで反応してくれないんだ、と大林の態度を察し、有紗は自力で記憶をよみがえらせる。


「食品売り場、装飾品店、書籍販売店、それから……玩具屋……」

「違います」

「服飾品店、え」


 大林のはっきりと指摘する声に、回帰を続けようとした有紗の記憶はぷつりと切れてしまった。


「玩具屋の次はエスカレーターがあります。そこにも場所の一つに設定しましたよ」

「そうだっけ?」

「間違いないです。エスカレーターに和尚さんがいますから」

「お、和尚さん?」


 脈絡もない登場人物に、有紗は解釈に困った顔になる。


「はい、和尚さんです。何かおかしいですか?」

「え、だって、突然和尚さんって言われても……」

「そうですか、先生でもわかってもらえませんか」


 有紗の要領を得ない様子に、大林は虚しさで気を落とした。

 落ち込む大林を見て、有紗はようやく合点がいく。


「もしかして、和尚さんって記憶のイメージ?」

「ああ、やっとわかってもらえた。そうです記憶のイメージです」


 途端に大林の声に明るさが戻り、訊かれもしないのに説明を始める。


「和尚さんっていうのは数字の04のイメージなんです」

「へ、へえ」

「0をオ、4をシとして、オシ。語呂合わせで和尚さんですよ」

「トランプじゃないんだ」


 トランプ以外のイメージ変換を聞かされ、有紗は大林の熱意には少し遅れながらも教授側の姿勢になる。

 大林は立て板に水で話を続ける。


「メモリースポーツにはトランプの記憶以外にも種目があって、和尚さんは数字記憶のイメージの一つなんです。数字記憶は数桁の数字を語呂合わせにしたイメージを場所に置いていくことで記憶していくんですよ」

「トランプ記憶とは何が違うの?」

「基本記憶法は一緒です。でもトランプが52枚なのに対して、数字は2桁を1イメージにしたとしても最低100のイメージを作らないといけないんですよ」

「大変そうだね。私なんてトランプ52枚でいっぱいいっぱいなのに」

「変換は定着さえしてしまえば、それほど大変でもないですよ。むしろそこから先の変換スピードを上げる方はよっぽど苦労しますよ」

「大林君は変換にどれぐらいの時間がかかるの?」

「そうですね、大体10秒ぐらいですかね?」

「2桁?」

「いや、80桁です」


 大林は誇る様子もなく平然と言ってのけた。

 予想を著しく超える答えに、有紗はあんぐりと口を開ける。


「80桁を10秒!」

「正確じゃないですけどね。いつも80桁を13秒から15秒ぐらいで覚えてるから、変換だけだと10秒ぐらいじゃないかと。もしかしたらもっと速いかもしれません」

「ちょっと待って」


 有紗は足を止め、掌を大林につき出した。

 不意に叫ぶような声が上げた有紗に驚き、大林も足を止める。


「どうしたんですか、先生?」

「イチ、ニイ、サン……」


 顔を下げて手指を折って10までカウントする。


 10に到達したところで、有紗は顔を上げた。


「この10秒の間に大林君は80桁見てるってこと?」

「そ、そうですね」


 信じがたい顔をする有紗に、大林は苦笑を含んだ声で相槌を打った。


「す、すごい」

「そうでもないですよ。練習さえ積めば誰だって出来るようになりますよ」

「無理無理。私じゃ絶対に無理だよ」


 とんでもない、と有紗はぶんぶんと首を横に振る。


「俺だって、最初から出来た訳じゃないですよ。毎日練習して、記録を分析して、最良の方法を見つけ出そうとしてきた結果ですよ」

「大林君は努力家なんだね」

「そうなんですかね。俺はただメモリースポーツが好きなだけですよ」


 あくまで好きが昂じたに過ぎないと言う。

 それでも有紗からしてみれば物事一つに一徹できる心持そのものが、大林を見る目に敬いを含ませる。


「やっぱりすごいよ、大林君は」

「先生だって練習さえ積めば……」

「私には一つのものに熱中する気持ちがないもん」


 諦めの微笑みを浮かべた。

 不意打ちの有紗の表情に、大林は気恥ずかしさを覚えて路傍に目を逸らす。


「話、戻していいですか?」

「え、うん」


 有紗のいつもの気抜けた表情になるのを感じ、大林は彼女に視線を据え直した。


「さきほど、80桁を10秒って言ったじゃないですか」

「そうだね」

「2桁1イメージで分けるとイメージの数は40個ですから、トランプよりも覚える量で言えば少ないんです」

「ああ、ほんとだ。じゃあトランプ記憶よりも簡単なの?」

「簡単かどうかは人に寄りますけど、トランプ52枚を覚えられる先生なら80桁覚えられますよ」

「大林君が言うと出来そうな気がする。トランプ52枚も覚えられるようになったからね」


 大林に信用の目で見て、有紗は花咲くように笑った。

 期待に応えねば、と大林が胸の内で気を引き締める。と時を同じくして二人は駅前に歩き着いていた。

 昇降階段の前まで来て、有紗は足を止めた。



「今日はありがとう。休日を割いて先生に付き合ってくれて」


 大林は階段の一段目に足をかけた状態で有紗に向き直る。マグカップの箱が入った紙袋を掲げる。


「こちらこそ、ありがとうございます。このマグカップ大切に使わせていただきます」

「無理に使わなくてもいいよ。私が好き勝手に大林君に買っただけだから」

「無理にじゃありませんよ。今思うとこのマグカップ結構気に入ってます」


 正直な言葉を投げて、大林は小さく笑いかけた。

 彼の笑みに温かさを感じながらも、有紗は何と返してあげればいいのか迷い、自然と二人の間に沈黙が生まれた。

 駅のホームから電車の到着を告げるアナウンスが流れる。


「大林君」


 アナウンスが終わるとすぐ、有紗は首側へ引き寄せるよぅにハンドバッグを肩に掛け直した。


「月曜日、また学校でね」

「はい。次からはトランプ以外の物を記憶していますから楽しみにしててください」

「うん、楽しみにしてる。じゃあね」

「じゃあ、先生」


 有紗に軽く手を挙げると、大林は背中を向けて階段を昇っていった。

 大林の姿が改札からも見えなくなる。


「次は数字かな?」


 大林と教室に居る時の事を思い出す有紗の胸に、何故か夕暮れの風が吹いた。


「ああ、そうだ。帰ってご飯の準備しないと」


 この穏やかさが何なのか知らないまま、有紗は夕飯何を作ろうと考えながら短い家路を歩き始めた。



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ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございます。

記憶術やメモリスポーツに関することでご質問があれば、どうぞ気兼ねなくコメント欄にお送りください。作者がわかる範囲でお答えします。


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