わらにも縋る思いで
「ちょっと待ってください。先生は何を言ってるんですか?」
動揺のまま訊くと、有紗は顔を上げた。
その瞳が縋るように揺れる。
「あのね、大林君が記憶力日本一だって知ってね、もうこの人しか頼れる人はいないって思ったの。だからお願い大林君!」
再び懇願の口調で言う。
教える側の教師から頭を下げられ、大林は戸惑いながら返す。
「ええと、土本先生は俺の事を昨日のテレビで観たんですよね?」
「そうなの。テレビで大林君が記憶力は誰でも上げられるって言ってたから、賭けてみようと思って」
「なるほど。それで俺に記憶力を上げ方を教えて欲しい、と」
うんうん、と激しく頷く。
大林は困惑した顔で泣きつかんばかりの女性教師の顔を眺めた。
「しかし、どうしてまた、記憶力を上げたいなんて思うんですか。何か理由でも?」
「あるよ。理由がなかったらこんな必死にならない」
「ずばり、その理由って?」
「物覚えが悪くて困ってるから」
「はあ」
よくある悩みだな、と大林は拍子抜けして思った。
世の中、大体の人が時たま思い出せないだけで自分は物覚えが悪いと思い込み、頭が悪いと自嘲する。
しかし概して人それぞれ覚えやすい物と覚えにくい物に差異があり、記憶力そのものは誤差に過ぎない。
大林のような記憶の達人を除いては。
「物覚えが悪いなんて皆同じですよ。覚え方を変えればあっさり覚えられることもありますから」
「同じじゃないよ」
あまり深く考えていない大林の一言に、有紗は苛立った声を漏らした。
「同じだったら、私はどうすればいいの」
訴えながら有紗の瞳に涙がにじむ。
「どうすればいいの、と言われても。俺が先生をどうこう出来るわけじゃないですよ」
「大林君、記憶力は誰でも上げられるって言ってた。あれは嘘なの?」
「嘘じゃないですけど……先生にわざわざ教える必要はないって言うか」
「あるよ。大林君、私がどれだけ記憶力悪いのか知らないでしょ」
「ええ、まあ」
大林にとって土本有紗は、若くて美人な女性教師ぐらいにしか認識していない。
「まず、一年経っても大林君のクラスの生徒の名前が覚えられない」
「名前って覚えにくいですからね」
「一日の授業日程を頻繁に忘れます」
「そういえば土本先生、よく授業に遅れてきますよね」
「学生時代、人より何倍も勉強したのにやっと赤点回避でした」
「よく今ここで教師してますね」
「買い物に行っても何を買いに来たのか途中で忘れる」
「俺も経験ありますよ」
「とにかく。とことん記憶力が悪いの」
挙げればきりがなく、有紗は本筋に戻って訴えた。
「相当ですね。ベランダに出て家の中に帰ってこられるか心配になるぐらい」
「さすがにベランダから家の中ぐらい戻れます」
馬鹿にされたと受け取り、有紗がムキになって言い返す。
「冗談ですよ、冗談」
「ならいいけど」
「それより、どうして今になって記憶力上げようと?」
思い立ったきっかけがあるのではないか、と考えて大林は尋ねた。
有紗の表情が暗く沈む。
「物覚えが悪すぎてお前とは一緒にいられない、って言われて彼氏にフラれたの」
「え、そ、そうなんですか」
有紗の深刻な様子に、大林は下手に言葉を継げられず適当な相槌を打った。
「それに、教員採用試験を今年中に合格しないといけないの」
「なんで今年じゅうなんですか?」
「今年ダメだったら、教員辞めさせられて実家に連れ戻されちゃうの」
大林に告白しながら、有紗はすぐにも涙を落としそうに瞳を揺らす。
「あー、えーと」
大林は何と声をかけてあげるべきか言葉を探す。
「どうしても今年中に試験に受かりたいんですよね?」
「うん。それに物覚えが悪いことを理由にフラれたくない」
言いながらポロポロと涙をこぼす。
仕方がない、と自分に言い聞かせるようにして大林は意思を固めた。
「わかりました。引き受けますよ」
「えっ?」
不意の言葉に、有紗は涙が浮かんだ瞳で大林を見つめる。
「ほんと?」
「はい。俺でよければ先生の力になりますよ。必ず先生の記憶力を上げてみせます」
「うう、ありがとー」
嬉し涙で顔をぐちょぐちょにして、大林に感謝を口にする。
ああ、美人が台無しだ。
むせび泣きで崩れた有紗の美貌を眺めながら、大林は肩を竦めたくなった。
この日は、トランプ2デッキ買っておいてくださいとだけ大林が指令して二人は別れた。
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ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございます。
記憶術やメモリスポーツに関することでご質問があれば、どうぞ気兼ねなくコメント欄にお送りください。作者がわかる範囲でお答えします。
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