第38話 ありがとう
柔らかな陽光のなか、地中からぐんぐん水分を吸った幹が黒々している。
葉桜のころ、私は引っこした。
父や母が家を出る前から使っていた家財道具のいっさいがっさいを処分し、キャスターつきの簡易的な家具や小さな家電を揃えた。
“残される者の手を煩わせない暮らしをする。それを想像しながら生きる”そう決めたのだ。
引っこしを彼に事後報告した。
私は新しい住まいを伝えなかったし、彼も知ろうとはしなかった。
私の誕生日のころだ。
彼からお祝いメールが届いた。
食事に誘われたので久しぶりに会った。
「元気にしてた?」
彼が切りだす。
「してたよ。そっちは?」
「元気だよ」
「仕事は順調?」
「うん。事務所が手狭になったから広い所に移ったんだ」
「そう。頑張ってるんだね」
「薫は?どうなの?」
「順調だよ。順調に夜な夜な“モテない君”をたぶらかしてる(笑)」
近況報告しながら美味しい日本酒を飲んだあと、夜景の見えるバーに移動する。
きらびやかなビル群は恋人たちの借景だろうか?
『逃げかえる場所なんてない。ここで生きていくしかない』
夢うつつになんて、なれない。
それはいつだって、東京で生まれそだった私の背筋を正してしまう。
彼の隣に座ると懐かしい柔軟剤の香りがした。
出あったころに戻ったようだった。
この香りを嗅ぎながら、彼の背中を追いながら、個人事業主であることの経営哲学を叩きこまれたのだった。
皮肉にもそれが、キャバ嬢である私の支柱になった。
「新しい彼氏ができたら紹介してね」
彼が言う。
「なんでよ?」
「大丈夫な奴かどうか俺が判断する!」
数年前、私が別れ話を切りだしたとき、泣きじゃくって抵抗したのが嘘のようだった。
「言わなーい。教えなーい(笑)」
穏やかな時間が流れる。
ずいぶん長いこと、いっしょにいた。
喧嘩もした。
浮気もした。
お互いを深く知りすぎてしまった。
それが正解だったか否かは、今でもわからない。
セックスは必ずしも少女を大人にしない。
私は精神的に女になるのが遅かった。
彼と逢う以前も“恋人らしき人”は何人かいたが、どこか皆、敵のようだった。
『男だったらよかったのに……』
母という童女を抱えた脆弱な母子家庭で育った私は、自分が女であるのをずっと悔いながら生きてきた。
だが、彼に逢って初めて
『女に生まれてよかった』
と心から思えたのだ。
「今までありがとう。◯◯(彼の名前)は私のスーパーヒーローだったよ」
唇を噛みしめて彼がうつむく。
「私よりいい女を見つけて(笑)」
『そしてその素晴らしい遺伝子を後世に残して』
彼の父親は日本人ではない。
戦時中、海を渡って日本にやってきた。
頼る人も資本もなく、いわれなき差別に揉まれながら、強靭な魂で無から有を生みだした人だ。
その血が、彼にも存分に流れている。
やがて、青年になった彼は恋をした。
お互いが初めての相手だった。
彼は彼女と添いとげるつもりで彼女の両親にあいさつにいった。
だが
「日本人でない奴に娘はやれない!」
と父親に一蹴されてしまった。
それで、彼は
『誰にも後ろ指を指されない大物になってやる!』
と自分自身に誓いを立てたのだった。
やがて、彼女はろくでなしの日本人と結婚した。
彼は苦学して上京し、一国一城の主になった。
彼と私がつき合いはじめて間もないころ、彼女が◯本海の荒波に身を沈めた。
長いこと、うつ病を患っていたらしかった。
葬儀から戻った彼の憔悴しきった様子を、私は今でも鮮明に覚えている。
その彼女と私が、よく似ているのだと言う。
どうだろう?
私は彼と離れても死んだりしない。
むしろ、彼と逢って生かされた命だ。
ろくでなしのために自分の身を滅ぼしたりしない。
「何かあったらいつでも連絡して」
タクシーを拾ってくれた彼が言う。
「うん。ありがとう」
「じゃあ、また……」
「うん。また、ね……」
次がないことぐらい、お互いわかっていた。
『私を拾ってくれてありがとう。逃げずにそばにいてくれてありがとう。惜しみないまっすぐな愛情とたくさんの豊かな体験と厳しくも優しい学びをありがとう。私を育ててくれてありがとう。あなたは“お役目”を終えたんだね?頑張ってね。幸せになってね。一生忘れないよ』
私はふり返らず、後部座席に沈んだ。
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