第12話 後ろ髪
店をたたむ日は、まるで、この世の春だった。
気の置けない人たちと愉快に酌みかわした。
その数ヶ月、大半を怒りと憎しみと悲しみと殺意と不安に駆られて過ごした日々を、すっかり忘れて私は飲んだ。
近所の飲み屋のママは皆、母ほどの年齢で私をとても可愛がってくれた。
酸いも甘いも噛みわけた大人の女性から学ぶものは多かった。
私は常連のお爺さんに◯口百恵の“○よならの向こう側”をリクエストされて歌った。
自分でリクエストしておきながら、お爺さんはさみしさに耐えかねて隣のスナックへ逃げこんでしまった。
しばらくして戻ると
「残ったボトルを全部出せ!俺が買いとってやる!」
と歯を食いしばった。
今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
お爺さんは私にあり余る餞別を握らせた。
「キープボトルは隣のママに引きついでもらえ!話はつけてきた!」
そうだ。
それが一番の気がかりだったのだ。
居酒屋の安ボトルとはいえ、廃棄してしまうのはお客さんに申しわけなかった。
私はすぐに隣のスナックに顔を出した。
「ママ!キープボトルの件ありがとう。助かりました。今日こられなかったお客さんにもよろしく伝えてください」
「あら!そんなの全然いいのよ。了解!さみしくなったらいつでも飲みにおいで!」
気さくなママは言った。
私のあとを追ってきたお爺さんは、ついに泣きながら
「幸せになったら連絡しろ!幸せになったらだぞ!そのときはまたともに飲もう!母ちゃんが(電話に)出てもちゃんと説明すれば大丈夫だからな!」
と、私に自宅の電話番号を記したメモ用紙を握らせると、きびつを返して店の奥に消えてしまった。
某総合商社のエリートサラリーマンだったお爺さんは、七十歳を過ぎて出向していた。
「この年で働かせてもらえるのは本当にありがたい……」
それが、お爺さんの口癖だった。
「わかった!ありがとう!必ず連絡します!」
店の奥に届く大きな声で私は約束した。
店をたたんだ私はキャバクラに戻った。
母とは、生きてふたたび会うことはないだろうと思った。
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