第4話 サイコパス
そのころ、私は知人の紹介で◯座の小料理屋に勤めていた。
場所柄がよくフルシフトだったこともあり、一人で食べていくには十分すぎる収入だった。
だが、それと平行してすかんぴんな母をサポートしながら母の洗脳を解く生活は過酷をきわめた。
まずは母を自宅に戻すことにした。
自宅から公共の交通機関を使って店に出勤してもらい、遅くなっても店には泊まらず、タクシーで帰宅してもらった。
何度お願いしても領収書を持って帰らない、あるいは失くしてしまう母と口論になった。
私は勤め先に無理を言ってシフトを半分に削ってもらい、残りは母とともに働いた。
私が出勤した日はタクシー代を節約するため、店の二階で母と布団を並べて寝た。
痛い出費だったが、鍵穴を交換し、入り口と裏口に防犯ブザーを設置した。
それでも、店に空き巣が入った。
母が店を出してから初めてのことだった。
◯神社で祈願した熊手に扇状に差さった客からの一万円札のご祝儀が、ことごとく抜かれていた。
大きな招き猫の貯金箱からは、ご丁寧に五百円玉と百円玉だけが抜きとられていた。
現場検証に立ちあい、母も私も指紋を取られたが、いよいよ犯人は捕まらなかった。
勤めていた小料理屋の店電に、非通知からの不審な無言電話がかかるようになった。
私が出勤すると間もなく店電が鳴る。
板場の料理人は仮眠をとっている最中で、営業時間にはまだ、早い。
予約の電話かと思い、着替えも早々に慌てて出ると、数秒様子をうかがうようにして切れた。
ほかの従業員のときも同様だった。
それは日々続いた。
ヒモで暇人のストーカーが自宅を出た私のあとをつけたのかもしれない。
Nには朝飯前だった。
「こんなこと初めてよ。なんだか気味が悪いわねぇ……」
オーナーの知人で洗い場を手伝いにきていた品のいいご婦人がつぶやいた。
「そうですねぇ……」
オーナーの承諾なしに店電にかかる非通知を着信拒否設定にすることはできない。
私は心の中で従業員に詫びた。
「こんなことは初めてだ」
Nのうろつく周囲にはいつもこの言葉がつきまとう。
サイコパスは痕跡を残さない。
追いつめたい相手にだけ、知らせるように痕跡を残す。
それをうっかり他言してしまえば、追いつめられた側が被害妄想のレッテルを貼られてしまう。
こんなサスペンス映画のような現実を受容してくれる人や世間など、そうそうないことぐらい承知していた。
母はNの指図ですべての生命保険を解約させられ、返戻金を奪われていた。
母の氏名で消費者金融からも借金させられていた。
Nは母に借金を増やせと指図した。
借金が膨らめば自己破産できるからと。
借金で得た金を一時的にNがプールして母がすかんぴんを装えば、返済の義務を回避できるからと。
事態は思った以上に深刻だった。
異変を察知した客のほとんどが、母と私の元を去った。
それでも、地代や水光熱費を回収するために私は店を開けつづけた。
すると、徐々にだが、私の顧客が増えていった。
Mさんに連れられて営業がてら飲みにいったスナックのママが、義理返しにきてくれたことがあった。
「もう全部娘さんに任せちゃえば?」
ちゃかちゃか立ちはたらく私を見たママが、母に冗談ともつかない提案をした。
「この子はまだ修行中なのよ!」
母はかろうじて“ママの体裁”を保ってみせた。
勇敢にも残留して支援してくれる人たちもいた。
ただの知人と、真の友人が篩にかけられ、人の建前や本心があらわになった瞬間だった。
母と自宅で寛いでいると母の携帯電話が鳴った。
非通知だった。
「もしもし?」
つながるやいなや、Nが支離滅裂に喚いた。
母は怯えて
「だって……」
とか
「そんなこと言わないでよ……」
と早くも洗脳に引きもどされそうだった。
私は携帯電話を取りあげて通話を切る。
すぐに携帯電話が鳴る。
支離滅裂な怒号が聞こえる。
通話を切る。
また、携帯電話が鳴る。
「録音!」
怒号を遮り、
「会話を録音しています!これ以上しつこくするなら通報します!もう母には近づかないで!」
私はNをたしなめた。
だが、懸念があった。
その時分、母とNは婚姻関係にあったのだ。
期せずして私はサイコパスの義娘となっていた。
母とNが夫婦である以上、通報が“痴話喧嘩”で流されてしまう可能性があった。
Nは母に借金を背負わせるだけでは事足りず、母の戸籍に入ることで新たな氏を獲得した。
さらに、店の住所に住民票を取得し、ブラックリストには載らない“別人”で、消費者金融から金を引きだした(※二十年前の話。現在は追跡可能らしい)。
「お前は母親を拉致した!お前は◯チガイだ!精神病院送りにしてやる!法的措置をとった!すぐに迎えをやるから覚悟しろ!」
Nは私を脅した。
通話がブツッと切れる。
みずから切っておきながら、すぐにかけ直してきて支離滅裂に喚いた。
その、くり返しだった。
持論を主張し、相手が反論に出る前にブツッと切る。
サイコパスは自己正当化が第一義であり、絶対なのだ。
「精神病院送りにしてやる!」
「法的措置をとった!」
「すぐに迎えをやるから覚悟しろ!」
とは、N自身がさんざん浴びせられてきた言葉なのだろうと、容易に察しがついた。
常人にはできない発想だったからだ。
これだけの拗らせ野郎だ。
実際、措置入院の憂き目にあっていたかもしれなかった。
私は母と私の携帯電話への非通知を着信拒否設定にした。
すると、今度は公衆電話からの着信がやまない状態に……。
なんたる偏執狂か……。
「私からの電話にはちゃんと出てね」
怯えて携帯電話の電源を切ろうとする母に、私は公衆電話からの着信拒否設定を加えた。
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