保健室の夏
決勝と汗
梅雨と言う季節は存外長いようで一瞬だ。今年も散々雨を降らせて校舎内外関係なく湿気で蒸し蒸ししていた。なんなら雨の降りすぎで一日休校になった挙句、勤務日が一日増えた事なんてちっぽけな話だ。五月に行われた中間考査。その結果が出たのが六月上旬。
その日の夜に一人の生徒の決意無碍にして、自分の決意を固めた。そこからは特に何もなく、日々の保健指導に勤しんでいる。
野球部、サッカー部、バスケットボール部を中心に強豪の二つ名に相応しい結果を残す為、俺なんかの知りもしない努力を積んできたのだろう。だからその努力が報われる事を心から願っていた。
だが、そんな日々が過ぎて六月が終わり、七月中旬に学校が夏休みに突入した。教員に夏休みなんて存在しない。専門系統の教師は部活動で日々球場や体育館を行き来し、それに関わりを持たない者は学生らしく夏期課外を受けている。進学系統も当然夏期課外で日々追われている。
本来の立ち位置で言えば俺はいつも通り保健室でボーッとしている筈なのだが、この学校には養護教諭は一人しか居ない。だから俺は時間区切りで球場や体育館、部活動生の集まる場所を飛び回っていた。時間外でも怪我の報告を受ければ車を飛ばして駆け付ける。それが仕事で俺にはそれしかできないからそれを全うする。
今年は組み合わせに恵まれず、強豪同士で潰し合う結果になってしまい、バスケットボール部は二回戦で去年の優勝校に大差で破れ、サッカー部も三回戦に県大会準優勝校に接戦虚しく破れた。その他の部活も善戦するも負けていった。
個人競技では陸上や卓球など既にスポンサーまで付いている未来の有望株は当然のように勝ち上がり全国に手を伸ばしていた。だが、スポンサーが居れば俺の仕事はないのでそっちはノータッチだ。
だから七月の下旬。後数日で八月になるこの日まで残っている部活はもう野球部しかなかった。そして今日がその野球部の決勝戦。
野球部専用車の後ろを学校の車に乗って付いて行く。野球部専用車の手前には吹奏楽部の応援団が借りた大型バスがある。テレビの中継で聴いた事のある有名な応援歌を演奏してくれるのだろう。暑いのによく頑張る。
因みにこの車には俺しか居ない。いつも付いてくる彼女らは課外を受ける側と受けさせる側の為、付いて来ていない。正直な所一人はいい。冷房をかけた車内は静かで心が鎮まる。夏は一人の方がいい。暑いし。
それでも車内は俺が寛げる程広いスペースは残っておらず、運転席以外はクーラーボックスで埋め尽くされていた。中には緑茶や麦茶、スポーツ飲料が氷水に浸されている。熱中症予防だそうだ。外傷のある怪我なら我慢も治療も効くが、熱中症には我慢も治療もあまり効果的ではなく、予防しか出来ない。何なら我慢はお勧めしない。
だから部活動生が持って行っているのとは別途で持って行くのが伝統らしく、去年も持って行ったが、試合が終わる頃には全部なくなっていた。それだけ夏は暑いのだ。心も身体も気持ちも気温も。
そうこうしていると球場が目視出来る距離まで近づいて来た。それを確認すると俺はすかさずエアコンの電源バーを一番下まで下げ、窓を開けて熱気を浴びる。
すぐに身体からは汗が滴り落ち、夏を感じる。雨が降っている訳でもないのに車内は俺の汗で湿気を帯び始め、梅雨時のそれのようにジメジメしていた。
それでもエアコンを切ったのは球場でバテない為だ。野球の試合は大体三時間半前後長くても五時間には及ばないで終わるだろう。試合開始時刻はまだそこまで暑くないとされる一〇時と予定されている。だが、順当に試合が進んだとしても後半は一日で最も暑い真っ昼間だ。選手でもダウンする事もあるのに運動部のように外気温に触れていない俺が耐えられる筈がない。
外気温に慣れ、水分をこまめに取り、熱中症を回避する。今この場において最も安全に帰る為に必要なのは俺だから。
球場に着けば試合前の選手の健康チェックを行い、応援席に戻る。そこからの仕事は吹奏楽部の補助と緊急時の生徒対応だ。水分補給を呼びかけ、車に積んだ清涼飲料水を運ぶ。運ぶのは俺じゃないが、相当ハードだ。紫外線に弱い生徒は目に着けば日陰に誘導しているが、心配だ。今日勝てば高校球児の夢の舞台甲子園。学校として、教師として、個々人として、知っている者が大舞台に出ると言うのは喜ばしい。
カッコよくて真面目で……野球に対する彼らは確かに素晴らしい。
だが、運動部は健全なんてのいうのが世間の思い込みだ。別にその意見を肯定も否定もするつもりはない。爽やかな汗を流す熱き血潮の若人たちに対して妙に寛容なるのも見ていれば共感できる。
ただ、それでもオイタが過ぎれば私情抜きで罰せなければならない。毎年いくつか出てくる何かしでかしての活動自粛に出場辞退、権利剥奪になんてさせたくない。だから部活動生を対象としたカウンセリングは日々欠かさなかった。追試にならないように勉強も教えた、怪我をしてもできる限りの最善を尽くした。
それだけの関わりだが、それだけもの関わりがある。勝てばまたお盆にあの人に会いに行く事はできないが、それでも勝って欲しい。
これまで積み重ねて来た頑張りを知っているから。だから柄にもなく少しワクワクしていて、それと同時に不安もある。朝から普段見もしない占いに耳と目を傾け、ラッキーナンバーやラッキーアイテムを身に付けるくらい慌てていた。そんなのあくまで応急措置みたいなモノでしかないのに、そうすると安心する。そんな事を彼女らに伝えればきっと笑われるだろう。
「情ね……」
頑張れと、ただ一言言えればこの先の結果は変えられたのだろうか。この一言を正直に言えていれば彼らの表情は変わっていたのだろうか。何度も何度も思うが、後悔なんて先に出来ないし、無理やりにしてもそれは時間の浪費だ。
後悔はあくまでも今よりも後にするものだから今行う事は後悔しない為、悩みの種になりそうな物を拭う事だ。俺は選手でなければ監督でもない、何なら何でもお見通しの神様って奴でもない。
ただの新米養護教諭だ。ここに来るまで沢山ミスをして来た。悲劇も喜劇も悲嘆も歓喜も体験して今の自分がある。ミスをしないなんて不可能だ。それでもミスを減らす事は出来る。だから後悔しない為に試合開始直前のここで口を開く。
「頑張れ、お前ら!」
聞こえたか聞こえていないかなんて知らない。自己満足だ。後悔しないように頑張ったという結果が欲しいだけの行為だ、慰めだ。それでもこの程度の事しか俺には出来ない。声を枯らして応援する。
指導する知識も技量も経験もない。だから誰よりも吠える。
「先生、絶対勝っちゃーけん! 優勝旗ばり楽しみにしとって!」
「俺、ホームラン打つけん! 怪我で迷惑かけた分ここでカッコいい所見せちゃーよ」
「「「俺も、俺も!」」」
「じゃあ、大船に乗ったつもりで拝見させて貰うよ」
本心だった。勝ってくれる。そう信じて言った本心だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます