初恋と今
時間が来る。久し振りにあいつの前で弾く。幼い頃に一緒に通っていた音楽教室。あいつが褒めてくれるのが嬉しくてずっと練習して気が付いたら距離が空いていた。
私にあった才能はあいつにはなくて、近付きたかっただけなのに、もっと褒めて欲しかっただけなのに昔のように何も気にせずに会話する事ができなかった。互いに何かを伺うように会話に一定の間があってその度に気まずさが生まれる。だからそれが嫌で会話が遠のいていった。
それでも褒めて欲しいとか、見つけて欲しいとか、面倒な欲望が捨てられないでピアノを続けた。知っている曲も好きな曲も自分の弾きたいように弾けなくてマネージャーやスタッフの指示に従って私らしい演奏ができなかった。それでもあいつの目に入る為に頑張った。歌やダンスみたいに派手じゃないし、それ自体に主張力はさほどないけれどきっと彼は私の鍵盤の触れ方を覚えている。どんなに弾き方を強制されようが、彼だけは分かってくれる。
そんなエゴが私の中にあった。実際はどうだろう。彼は私の活動を知ってくれていた。それでもチケットを手に、面と向かって演奏を聴くのは初めてだそうだ。
『いつも発売される前に予約漏れすんじゃん』
我ながらチョロい。そんな言葉一つで頑張ろうと思えるし、もう終わった恋に再び火がつきそうになる。
「今日だけは私の翼でいいよね」
誰もいない控え室。鏡の前に映る自分を見る。悪くない。これでも美人ピアニストだとか美少女ピアニスト誕生だとか見出しに書かれている程度には容姿が整っている。あんな後から出てきた先輩よりも若いだけが取り柄の女子生徒よりも自分が相応しい。そう思いたかった。
開演五分前。スタッフに連れられて会場入りする。いつも通りの満員。でも、そんな事に目もくれずに彼を探した。一番前の真ん中。
私との距離が一番近い特等席。いつもと違う距離。横でも後ろでもない。
私自身が切り開いた道。それを彼に、彼だけに認めて欲しかった。
時間になると拍手に迎えられる。広いステージにポツリと置かれているグランドピアノ。そこに足を運んで初めて演奏が始まる。
横目で彼がいることは分かった。心臓はいつもと違う鼓動を奏でる。それが止まるまで何もせずにただ息を潜める。客もまだ始まらない演奏に備え音がなくなった。静まったホールは違う世界かのように何も感じない。そんな時間が数分経つ。
そんな時。演奏は前触れもなく始まった。
最初の弾いたのは『ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op. 44』
英雄ポロネーズとは対照的な悲劇的な作品で「悲劇」と呼ばれるその曲はあまり有名ではない。有名どころで行くなら同じポロネーズの「英雄」の方がよく耳にするだろう。しかし私は「悲劇」の方が好きだ。
序奏での問いかけはそのまま。返答も回答も存在しない。怖くて聴けない自分と勝手に重ねて主題が思う存分に弾き乱れる事ができる。悲劇的だけど強い曲調も好き。
そんな曲を数十分演奏する。身体中から汗を流して弾き終える。次の曲までの間を縫って拍手が飛び交う。いつもは気にしないそれも何千人の内の一人のお陰で嬉しく感じる。
その後も八曲。休憩を挟みながら弾き終えた。本来であればこれで終わり。マネージャーもそう言っていた。だからここからは私のワガママ。
前もって準備をしていた。彼と一緒に行けると決まった時からホールに無理言ってもう一曲分の時間。その少しの時間の許可を得る為に頑張った。
たった一曲。あの時彼と紡いだ思い出と途中まで綴った曲調を私なりに形にした私だけのオリジナル。
「すいません。最後に一曲付き合ってください。私と初恋が作った幼い頃の思い出。『近すぎた初恋』」
マイク越しで言った私の言葉に会場が湧く。当然だ。予定時間外な上にそんな曲を発表したつもりもない。名前に類似はあってもこの曲は私だけのものだ。
これが終われば彼と朝まで……。とはいかないだろう。マネージャーにこっ酷く叱られるだろうし、私は終電で帰らないと行けない。明日にはまた授業が始まる。
だからこの曲が少しでも貴方に響いてくれる事を祈る。
曲調は一曲目の「悲劇」とさして変わらない。というか序奏に至ってはそのままの部分の方が多い。そもそもこの曲自体高校の時に完成させて以来そのままだったのを急遽れんしゅうしたのだ。そこから自分色を出す事は無理だった。
それでも曲としては不恰好なこの曲を弾き続けた。
それでも主題でこの曲は頭角を表す。答えの出ない方が今日としては自然だ。妄想が膨らんで付加価値が付くし、情緒もそっちの方がある。しかし、答えを出す。
それも一方的に強く、惨めに、押し付けるように。
そもそもこの曲は万人用ではない。正真正銘の“東雲翼”専用曲だ。普段しない粗めの演出も無理なタッチも難なくこなす。完成された曲と比べればお粗末で聞いてられないものだろう。それでも分かって欲しかった。
曲を弾き終えた時どんな曲よりも快感をかんじた。弾いていて楽しかったし、帰ったら訂正してしっかりとした曲に仕上げたいと思った。彼に届いたかは不明だが、今までの演奏で一番充実していた。
しかし、それとは裏腹に拍手は疎らだった。今までの丁寧で棘のない表現で人気を得た私が正反対の演奏をしたのだ。聴いていた他人に対して悪い事をしたと思う。
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