高校入学と家族
––––八年前。
春はあけぼの、から続く清少納言の枕草子。意味的には春はあけぼの、つまりは夜明け頃が一番綺麗だと言うことだ。しかし、俺はそんな事を気にもせず、明らかに早すぎる朝に目を覚ました。
静まりかえったこの家の中に少年のため息が木霊する。夜までは不快な怒鳴り声や奇声が鳴り響いていたのにこの時間は当然のように静かだ。別々の部屋にいる両親は酔った勢いでよく喧嘩している。昨日もそうだった。
それでも少年は気怠そうな表情のまま、眠そうに目を擦りながら、しかし、欠伸や背伸びは一切すること無く、徐に階段を下る。
階段を下ればすぐにリビングに着く。昨日の荒れ方から察するに今日も、と思いながら鼻を抑えてリビングの扉を開ける。そして手馴れた感じでリビングにある窓と換気扇を開けて空気の入れ替えを行う。季節は春なので気持ち肌寒いがこの鼻につくアルコール臭と混ざったゴミの臭いに比べればまだ我慢できる。
窓を開け、臭いがある程度収まると缶・瓶のゴミ袋を取り出して片っ端から放り込む。中身が入っていようがいまいが関係ない。とりあえず、リビングに散らばったゴミというゴミを片付けていくと終わる頃には日が昇り始めていた。どんなに早く起きても毎日この工程を挟まないとろくに朝食もとれない。だが、そんな事を思うだけ無駄である事も知っている。だから何も言わずに無言で片付けてストレスを溜め込む。
それもこれも父が帰ってきたからだ。
つい半年まではここまで家の中は荒れていなかった。というのも我が家は父子家庭で、父は毎日自分の営業する飲食店を回っては顧客と酒を飲み交わしていた。
そんな父が今のように成り果てたのは再婚した継母のせいだ。父は元から酒の飲み方と言うのが上手な方ではなく、それに加えて自己中心的な部分があるので酒癖は悪かった。それは義母にも言える事で、本人達はそれを自重して“迷惑”をかけない為に宅飲みを毎日している。それも喧嘩しない為に互いの部屋で。
そしてその“迷惑”の矛先は息子である俺に向いた。だから昼間から飲みまくって呑まれて偶に、というかほぼ毎日喧嘩しているのだ。くだらないと思うと同時に家族という感覚が徐々に薄れていき、今では一日の間で言葉を交わす事なんて殆どない。
しかし、今日は、いや、昨日はそうなって欲しくなかった。何故なら今日は高校の入学式だった。入学試験で首席だったので新入生祝辞まで務める。少しの希望を持ってテーブルの上に入学式の書類を置いておいた。
来てくれるだろうかと内心期待していたが、その期待は当然のように打ち砕かれた。
「はぁ、そうだよな。父さんが俺に興味が無いことは分かっていたじゃないか……」
それでも少年は言葉を零す。幾らこの生活に慣れていると言っても中身はまだ高校生なのだ。
だが、ここから逃げる事は許されない。そもそも子供は親の支配下に置かれている。俺が身に付けているものもこれから行く学校に関係する備品も全てが親の金から来ている。子供は幾らバイトをしても高校生、学生である以上親からの依存を抜け出す事は出来ない。
だから今日もこうして迷惑の尻拭いをして、自分の分と両親の分の朝食を作る。食べているのかはこの際気にしていない。別に家計は貧しくもない、むしろ豊かな方だと思う。なのできっと両親は少年の作った料理が気に食わなければ、それなりの処理をする筈だ。それが人間的にどうなのか、と問われればそれは倫理的に駄目なのだろうが、それを阻止する力も度胸も気概も持ち合わせていない。
少年は朝食を済ませ、身支度を終わらせると少し早めに、と言ってもリハーサルが行われる時間にはギリギリの時刻に家を出た。
学校まではバスを乗り換えて一時間かからないくらいのここら辺では有名な私立学校だ。少年はその学校の国際教養科に進学する。別に浮ついた気持ちを持って居ないこともないが、少年は学校としての機関にそれほど期待も願望も持ち合わせておらず、あの両親を持っているせいか恋愛にも無頓着でこれまで初恋すらしたことが無い。
なので、高校生らしく青春を謳歌しようとも思っていなかった。ただ、早くあの両親から自立したい。そればかりを強く思い、願っていた。
バスを乗り換えて学校に着いたのは入学式よりも一時間程前。辺りに新入生らしい姿は当然見えず、少年は入学式が行われる場所ではなく、その練習が行われる校内の会議室に向かった。
扉の前に立つと今一度自分の服装を確かめ、深呼吸を挟んでノックをする。返事を確認すると扉を開ける。
入学式を主催するのは生徒会だ。だからこの会場に生徒が数人いるのに何ら疑問を抱かない。だから動揺も緊張もないままリハーサルに臨んだ。祝辞を軽く二度読んでリハーサルは終わった。
少し経てば本番が始まる。ステージ上から会場は一望できる。だから本当に見て欲しい人が居るか居ないかなんてすぐに分かる。父だけではない。母にも一応手紙を送った。いつも何を送っても返信がないのでこちらも期待薄だが、きてくれるだろうと思った。
なんたって息子だ。気になるに決まっている。だから、来て欲しかったし、そう願っていた。
いい祝辞だった。それが教師陣からの総評だった。結果的に父も母も姿は見せず、式は終了。すぐにクラスが発表され教室に移る。教室に行けば両親の有無は顕著だ。もしかしたら式だけ見て帰ったかも知れない。そんな無理のある慰めを自分にかけながらクラスに向かった。クラス委員に係整頓でこの日は終わった。
家に帰ればいつも通りの光景。きっと今日が入学式だったことすら知らなかったというのが目に見えたその光景に涙が零れた。声が出ているかも分からない。それ以上にこの家が五月蝿かった。だから涙と一緒に零れる磨り減った何かに気付かない。どれだけ自分が優れていても両親の目には映らない。それがどうしようもないくらいに苦しかった。たった一言で良かったのだ。望んだ言葉さえ一度でもかけてくれれば頑張れた。それなのに待っている言葉はいつまで経っても来る事はなく、遂には一生聞けなくなってしまった。
入学式が終わって暫くが経った頃。クラスの話題はGWで持ちきりだった。しかし、そんな誰かと遊ぶ時間がない俺からしてみればどうでもいい休日だった。どうせいつもと何も変わらない。
退屈で窮屈で悲しい毎日が続くだけ。それなら変わって欲しいと願った時、血相を変えた担任教師が何も言わずに俺を教室から連れ出した。
急ぎ足の教師に何も言わずに付いて行く。理由は知らないが、こういう時は黙っていた方がいい。すると待っていた理由が手短に伝えられた。
「御両親が事故に遭われた」
思考が固まった。もう放課後である為、アルコールは抜けているだろうから飲酒運転にはならない。だが、外に出る理由が分からない。酒ならいつも通り酒屋が大量に持ってくるし、食料も家には充分な貯蓄がある。
そもそも二日酔いで長い事外に出ようともしなかった人間がどんな心境の変化かと、疑った。今まで家から出ようともしなかったのに、何もかも人任せだったのに、どうして急にそんな事をしたのだろうか。それも早々に事故起こすなんて目も当てられない。
それでも安否は心配だったし、居なくなってほしいとは思えなかった。
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