卒業試験

 とうとう家に帰らないまま、8月の半ばを迎えた。

 今、振り返ってみれば伊豆の山奥での生活は充実していた。

 師匠の教え、石松との友情、世界の真の姿を垣間見たこと。

 時を忘れるくらいなにかに打ち込み、情熱を燃やすような経験。

 テレビやマンガ、ゲームでは決して得られない面白さ。

 絶対に忘れない。



「月末にはお父さんとお母さんが迎えに来るからそのつもりでいてくれ」

 師匠が言った。

 終りがあるのはわかっていたけど、ずっとわからないフリをしていた。

 

「なんだぁ、そんなシケた面している暇はないぞ。ケン坊はこれから叔父さんの卒業試験を受けてもらうんだからシャキっとしてくれ」

「卒業試験!?」

「うん、バッチリ合格してくれ。今のケン坊なら大丈夫」

「試験内容は? もし落ちたら?」

 唐突すぎる展開に思わず大声を出してしまう。


「ワッハハ、日時は今日の夕方。場所は道場。試験内容は叔父さんと立ち会え。戦いだ。スパーリングよりも本気の度合いが違う。全力でかかってこい。己の身に付けたすべてをさらけ出せ。叔父さんが納得できる戦いができたら合格だ」

「不合格になったら?」

「戦いのことは忘れて、これからは勉強をがんばれ」

 師匠は笑っているが冗談ではないらしい。

 大変なことになってしまった。

 だけどこの卒業試験をクリアできれば大きな自信になる。

 やるしかない。


 夕方になって道場に行くと中では師匠がすでにスタンバイしていた。

「おお、遅かったな。こちらは準備OK。さあいつでもかかって来い」

「シッ」

 師匠もそう言っているのでお言葉に甘えて奇襲を仕掛けた。

 つま先で金的を蹴り上げ、足の裏でひざ関節を叩き折り、エルボーで鼻っ柱をぶち抜く。

 急所狙いのフルコースだ。

 だけど師匠にはカスりもしない。


「おお、元気がいいねえ。急所を狙う思い切りの良さなんてもうサイコー」

 余裕しゃくしゃくの師匠。

 弁髪を振り子のように揺らしながら首の体操なんかをしている。

 そりゃ、勝てるとは思ってもいないけどこのままでは……。


「あ、言うのを忘れていた。叔父さんの弁髪はつかんだり引っ張ったりしないでくれよ。弁髪は叔父さん唯一の弱点なんだ。ケン坊は優しいからそんなことはしないと信じているけど一応念のため」

 師匠の突然の告白。

 これはいいことを聞いた。

 ニヤけそうになるのを必死で耐えた。

 迷いはない。

 狙うは一つ。

 赤いリボンが弁髪の先端に付いていてよく目立っている。


「もらったぁーッ!」

 叫びながら弁髪のリボンに手を伸ばす。

 しかし。

“スカッ”

 その手がつかんだのはただの空気。

 すかさず師匠がぼくの伸び切った腕をつかんで豪快な一本背負いを決める。

“ビターン!”

 という大きな音がして、ぼくは道場に大の字。


「ワハハッ、ケン坊は素直だなあ。素直すぎる。弁髪だけしか狙わないよう仕向けた罠だよ。それをあんな見え見えのウソに引っかかるなんて。叔父さんは心配になってきたよ。卒業試験の結果だが……当然失格。戦う才能はないのでこれからは勉強に力を入れるように。叔父さんの書斎は自由に使っていいからな」

 なんと無慈悲な師匠の言葉。

 師匠の言葉は絶対。

 ぼくは弟子なのだから従わないと。

 でも、やっぱり……。


「もう一度チャンスをください。練習での失敗は次に活かすために必要です。たかが一回負けただけです。なによりぼく自身が負けを認めていません」

 師匠に逆らったのはこれが初めてかもしれない。


「その意気や良し! 負けん気に免じて再試験を行う。次回は8月最後の週の火曜日。期待しているぞ」

 そう言って師匠は道場から出ていった。

 残された僕はしばらく動けなかった。

 兎にも角にもチャンスはもらえたんだ。

 このまま終われるものか。


 夜の11時。

 なかなか寝付けなかったので書斎で本を読むことにした。

 心理学や戦略・戦術の本がたくさんあったはず。

 一応は目を通したが今日の卒業試験ではあんな単純なウソに引っかかってしまった。

 そもそも戦いの真っ最中に自分の弱点をさらすバカはいない。

 しかしそれを信用してしまう大バカなら存在する。

 つまり、ぼくだ。

 せっかくなので、なぜ引っかかったのかを考えてみよう。

 まず戦いのセオリーとして、敵の嫌がることをする、弱点を攻めるのは当たり前。

 その心理を見事に突かれた。

 十分に落ち着いていれば引っかからなかったのに。

 卒業試験にこだわりすぎていて周りがよく見えていなかった。


 手っ取り早く敵を仕留めたいと思う時。

 必要以上に敵をいたぶりたいと思う時。

 こういう時、わざと自分の弱点をさらす戦法に引っかかってしまう。

 ぼくはこの戦法を『師匠戦法その1』として心に刻み込んだ。


 万巻の書を読むのもいいが、この身で経験した方がやっぱり勉強になる。 

 よし、見てろよ。

 次こそは絶対に。

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