バー『湊』は今日も大忙し エピソード1

マルシュ

第1話

「私はね、どうやって奴を殺してやろうかと、毎日そればかりを考えて生きているんだよ。」と、男は僕に呟いた。

 その時、暗いカウンターバーの片隅で、僕はぎこちない手でシェイカーを握っていた。今日のお客さんは今のところその男だけ、店には僕と男の二人ぼっちだ。

「物騒な話ですね。誰を殺すんです?」

 本気で人を殺そうと思っている人間が、そんなことを見ず知らずの他人に話すわけはない。僕は気軽に男に聞き返した。

「悪い奴なんだ。皆から嫌われている。『この世の悪事という悪事に手を染めている』なんていうほどの大物じゃないが、少なくとも、私にとっては殺さねばならない男だ。」

 僕は、男の大仰な物言いにたまらず少し口元を綻ばせてしまった。だが、それに対して男は、苦悩が張り付いたようなその顔を歪めて、そのまま手で頭を抱えてカウンターに突っ伏してしまった。まるで、嘘や冗談で「殺す」などと言っているとは思えないような、そんな状態に見える・・・。

 まさか、まさかこの男、マジで誰か殺す気?いやいや、まさかね・・・。


 始まりはこんな感じだった。

 今朝、と言っても11時を回っていたが、店のオーナーであるマスターから、どうしても外せない用事ができ出勤が遅れるという電話があった。そんなことは初めてだった。1時間も遅れないから先に定時に店を開けてくれないかとマスターに頼まれ、僕はその夜一人でこの店を開けた。

 時刻は7時だった。

 普通なら8時ぐらいからしかお客さんは来ない。


 僕はこの「湊」というバーのアルバイトバーテンダーで、本業は大学生。ひと月前から、知人の紹介のこの店でアルバイトをすることになった。正直、シェイカーなんてそれまで触ったこともなかったし、カクテルの名前も作り方も全く知らなかったけれど、僕の採用面接時、マスターはそれを少しも気にしなかった。この業界、たぶん人手不足なんだと思う。 

 店を開けてすぐ、一人の男がやって来た。

 それが、今、目の前のカウンターに突っ伏している僕の知らない某氏だ。

 ヨレヨレのグレーのブルゾンに膝が出てしまってところどころ汚れがあるベージュのコットンパンツ、スリッパに毛が生えたような底のすり減った靴を履いている。みんなが知っている例のファストファッションの店で全て調達したに違いないような出で立ちの男を見て、僕はこの人を店に入れていいのか躊躇した。余りにもくたびれ過ぎていて、浮浪者一歩手前に見えたのだ。

 だが、なんとなくその情けなくハの字に曲がった眉毛と、同じようにハの字に曲がった口元に見覚えがあるような気がして、僕はいらっしゃいませと言いながら男を入り口まで愛想よく出迎えた。

 ひょっとすると常連さんかもしれない。マスターからは、ここの常連は変わった人が多いんだと聞いている。もし常連さんなら失礼は禁物だし、そして、僕はまだ全ての常連さんの顔を把握しているとは言い切れないし。

 

 ありがたいことに、男はビールを注文した。新米アルバイトバーテンダーの僕には、情けないけどまだまだカクテルなんて作る自信はない。何せ、まだシェイカーの8の字を絶賛練習中の身なのだ。

 男の注文にホッとして、僕はすぐにカウンターの上、男の目の前に瓶ビールとコースター、ビールグラス、小皿に入れたピーナッツを次々と並べた。

「どうぞ」と言うと、男は心ここにあらずな感じで「ありがとう」と返した。男がこっちを向いてチラと目があったその時、僕は男に何か悩み事があるのに違いないと気が付いた。だって、わかりやすく「困った」と顔全体で僕に語りかけていたから。まあ、長年いろんな人を見て来たマスターなら、もっと早くそれに気が付いていたかも、だけど・・・。

「なんだかお疲れのようですね。」と僕は男に話しかけた。練習用のシェイカーを手に、宙で8の字を描きながら。

 男は、「ここのところずっと。」と言って、手に持ったグラスのビールを仰った。

「ずっと悩んでいるんだ。もうずっと。」そう言いながら、空いたグラスに自分でビールを注いでいく。

 そして、この後「奴を殺す」と言う話になったのだ。

 

 僕が戸惑って固まっていると、カウンターに突っ伏した男はおもむろに顔を上げ、「マスターは?」と聞いて来た。あと半時間ぐらいでやってくるだろう。

「もう少しで出勤しますが、御用でしたか?」と言う自分の口が、緊張で強張っているのがわかる。ああ、なんだかマスターの出勤が待ち遠しい。

「そう言うわけでもないんだが、見えないんでね。」

「すみません。」意味もなく僕は謝った。

「ところで、君は新人さん?」男は急に話題を僕に移した。

 僕は、大学生のアルバイトで時間が許す限りここで働いていること、実はまだ店に入ってひと月しか経たない見習いで、シェイカーの扱いも全然なことを話した。男は、なるほど、シェイカーの持ち方もなってないねと僕に微笑んだ。

 それから、男はぽつりぽつりと殺す話をしだした。

 

「夜通し考えて完璧な計画を立てる。そして、幸せな気持ちで眠る。昼過ぎに目が覚めて食事を済ますと、昨夜考えた計画を再考する。すると、その計画に小さな穴が見つかる。そして、また夜通し考える・・・。毎日それの繰り返しなんだ。」泣きそうな声で男は言った。

「完璧でないと・・・。でないとすぐに見破られてしまう。それではダメなんだ。そうだろ?」声が少し荒くなってきている。

 男は、僕の返事を待たずに続けた。

「美しき完全犯罪、誰にも邪魔させない、邪魔できない完璧な殺人計画こそが私には必要なんだよ。使い古されたアリバイ工作も密室トリックも、すぐにバレるし全く美しくない。」今度は囁くように、カウンターを挟んだ僕に説明した。

「知ってるかい?テレビドラマでよく、『包丁で心臓をひと突き』なんて言ってるけど、実際、心臓をひと突きで人を殺すなんてことはほぼ不可能だってことを。」男は、今度はニヤリと笑いながら話を続ける。

「肋骨、これが邪魔なんだ。横に向けて突き刺さないと、包丁は骨に邪魔されて心臓なんかには到達しない。それに、包丁を使う人間も、包丁を持つ前に布か何かで手をグルグル巻きにして防御しておかないと、自分の手に深い傷を負う羽目になるんだ。そんなのドラマでは教えてくれない。だろ?」男の目に狂気が宿った瞬間だった。


 この男、本気だ。僕は直感的にそう思った。今から殺すのか、いいや、もう誰か殺した後だ。そして、また誰かを殺そうとしている。 でも、なんでこんなことを僕に話すんだ?僕を巻き込むつもり?これまで僕は、人を殺すなんてこと全く考えたこともないし、ましてや完全犯罪なんて・・・。

 嫌な予感がする・・・。ああ、マスター、早く来て!遅いよ!

 

 僕の気持ちなど気にもせず、男はウイスキーを追加注文した。残りのビールをチェイサーにして、アイラのボウモアをやると言う。震える手でグラスにボウモアを注ぎ、僕はそれを男に差し出した。右手でグラスを持ち、左手で震える右手を持つという格好で。 


「私は奴をずっと追いかけているんだ。もうひと月になるよ。奴の一挙手一投足、全て把握している。なのに、どうして完璧な殺害方法が浮かばないのか・・・。自分でもわからない。いい加減な方法を使うと自分で自分の墓穴を掘ることになる。それだけはごめんだしな。」ボウモアのせいかどうか、男がぶつぶつ言うのは止まらなくなっていた。

 その頃、僕の頭もフル回転が止まらなかった。警察に通報する?いや、犯罪はまだ起こってないし・・・。でも、起こってからでは遅い。僕が男の計画を邪魔する?そんなの絶対絶対無理だ!

 嫌な汗が、僕の背中をツツっと流れ落ちた。


 男はまだぶつぶつ言っている。

「いつもはこんなに手こずらないんだ。ここまでじゃない。あいつの時だって。そうだ、あの女を葬り去ったあの時は、まさに全てが完璧だった。」

 えっ、この男、本当に?

 本当に連続殺人犯?シリアルキラーなのか?それともプロのスナイパー?いや、デ○ーク東郷はこんなにおしゃべりじゃなかった。

 ああ、嫌になる。こんな切羽詰まった時に・・・。でも、往々にして誰でも、おバカな考えが頭をよぎってしまうもんだ。こんな時には。

 ま、て、よ・・・。

 このバー、ひょっとして殺し屋の事務所だったりして?ここでバイトしてからまだひと月、僕が知らないことも多い。実は、マスターが何人かのスナイパーを束ねて殺人を請け負っているとか。だからこの男、このバーにいる僕のことも仲間だと安心して?

 まさか・・・。そんな訳ない!

 

 僕は、自分の顔色がどんどん青くなっていくのがわかった。きっと、こんなに薄暗いバーの照明の中にあっても、酔っ払っている男にさえ、それははっきりとわかるはずだ。

 もう、なんだか生きた心地がしなくなってきた。


 男が最後に言葉を発してから、一体どれくらいの沈黙が流れただろう。

 そろそろ僕も限界だ。

 すぐに何もかも放り出して逃げ出したいけれど、僕は男がシリアルキラーだと知ってしまった。今逃げ出したりしたら、あっさり男にヤられるだろう。それに、僕の震える足は生まれたての小鹿のようにガクガクで、この店のリノリウムの床に踏ん張って立っているのがやっとだ。走り出すことなんて出来ない。2本の足を交互に前に出すことさえ・・・。

 今はもう少しそのまま踏ん張って、マスターの出勤を待つしかない。マスターが殺し屋の総元締めであっても、なくても。

 あぁ、なんだか息の仕方も分からなくなってきた。

 

「これだぁー。」と不意に殺し屋が叫んだ。

「完璧だ。まさに穴がない。これこそが奴にふさわしい死に方だ。こうやって殺せば、きっと誰からも文句は出ないはず。」そう叫び終わると、シリアルキラーの殺し屋は僕に向かってほくそ笑んだ。

 今この瞬間、この男は、これから起こすであろう『完璧な殺人』の方法を思いついたのだ。

 僕はもう、立っていられなくなっていた。

 

 ありがとう、お釣りはいらないと言って1万円札をカウンター越しに投げてよこし、男は店から走って出て行った。と同時に、男が開けたドアからマスターが店に入ってきた。壁にかかった丸時計は8時、ちょうど1時間の遅刻だった。

 

「ごめん、ごめん。今日は急に悪かったね。お店どうだった?一人で大丈夫だったかな。」人の良さそうな、いかにも善人ですよと言う顔でマスターが僕に聞いた。先ほどの強烈な体験が頭に残っていて、マスターに対して疑心暗鬼の僕が返事をしあぐねていると、「あれっ、どうした?体調でも悪いの?」と僕を気遣うそぶりを見せながら、それでもマスターは機嫌よくまだ話す。

「あの人。さっき出て行った人だけど、来てたんだね。ちょっと変わった人だよね?ここでも、いつも物騒なことをぶつぶつ言いながら飲んでるよ。」そう言って笑った。

 僕は我慢出来ずに、「マスター、今日はもうこれで上がらせてもらってもいいですか。少し調子が悪いんです。」と言ってすぐに店から出ようとした。本当に限界だ。

「了解。いいよ、もちろん。一人で帰れる?」善人の仮面を被った悪人が僕に聞いた。僕は多分うなずいたはずだ。早く、早くこの場を離れたい。

 焦って左足を戸口に向けたその瞬間、「あっ、ちょっと待って。このカウンターの1万円、さっきの先生の?」とマスターが僕に向かって叫んだ。

「せ、先生?」マスターの言葉を僕は頭で反芻しながら、同時に口にも出していた。

「そうだよ。推理小説書いてるX先生。あれっ、知らなかったの?テレビなんかにも時々出てる、結構有名な作家さんだよ。」

 マスターがそう言い終わるか終わらないかのうちに、僕はその場に、擦り切れた格子模様のリノリウムの床にへたり込んでしまった。 全身のチカラが抜け、目からは涙が流れ落ちて来ていた。

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