エミリ姉ちゃん

「アンタなぁ、コレやるわ」


 近所のエミリ姉ちゃんが僕に折り畳み式のポケットナイフをくれたのは今から十年


ほど前の事。当時、僕はイジメにあっていた。悪質なイジメに。完全に無視される


か、トコトンまで殴られるか。金を取られたり、県のコンクールで賞を取った水彩画


を破られたり、中学二年の夏休み明けから突然、始まったイジメに僕は翻弄ほんろうされ、


くやし涙を流し、ときには血を流した。理由なんかなかったとあとになってから聞い


た。ただ僕の成績が少しばかり良かったことと、身長がかなり低かったこと、それだ


け。ただそれだけのことで僕の中学生時代は暗澹あんたんたる日々になってしまった。


 パチン。 歯切れのいい音を立てて刃渡り8センチほどのナイフを笑顔で開くエミ


リ姉ちゃん。小さいナイフだ。折り畳んだ状態でも10センチていど、正にポケット


サイズである。しかし、その刃先は薄く、凶悪なまでに鋭利で、スゥっと軽く引いた


だけで鮮血がしたたるような気がして、僕は腰を引いていた。


「何かすごいやろ? 軍用なんやて。アンタ知っとったかな? スタン・スライ君。


彼にもらったんよ」


「知らん、そんな人」


「そっか」

 

 エミリ姉ちゃんには変てこな知り合いが多い。かなり若い頃から放浪癖ほうろうへきのあった


彼女は、若い娘なら敬遠してしかるべき世界中のどんな場所にも平気で入っていき、


そして友達を作って帰ってきた。


「なぁ、見て」 いうなり、彼女は自分自身の手の甲にナイフを当てて、スゥっと引


いた。


「な、なにすんねん?!」 当然のように、彼女の甲からは真っ赤な血がプクゥっと


盛りあがる。


「わわわ! こりゃ、よう切れる。本物やねぇ」 あわてたようにハンカチで手を縛


ろうとするエミリ姉ちゃん。この人はときどき、こうしたわけのわからない言動をし


ては周囲の人間を驚かせる。職はわりあい転々としているようだが、一番長く続いて


いた某メーカーの服飾デザイナーをしていたころなど、明らかに人の三倍は働き、五


倍は勉強をし、そして、過労死寸前の状態で病院に搬送された。入院中もおとなしく


していられる人ではなく、何度も脱走未遂を繰り返し、病院一の有名人になったと聞


いた。


「エミリ姉ちゃん、髪、短くしたんやな」 意外に不器用で、すったもんだしている


彼女からハンカチを奪うと、僕はその細く、雪焼けした手にスルスルと巻いた。


「痛たた……うまいもんやね」 そして、少しソバージュのかかったショートヘアを


ナイフの刃先でもてあそぶ。


「やめえ!  危ないやないか!!」 思わず僕は、大声を上げてしまう。


「ゴメンな」そういいながら彼女はナイフを石段に置いた。


「……ったく、いい年してからに」 僕は怒ったフリをしながら、ハンカチの応急処


置を終えた。


「いい年した姉ちゃんが髪切ったから、失恋でもしたと思った?」エミリ姉ちゃん


は、そういって笑った。十近くも年上のはずなのに、めっちゃ可愛い笑顔だった。


「これはなぁ違うんよ、わたし今、スノボのインストラクターしとるやろ? で、あ


れや……」そう、彼女は今、冬はスノーボード、夏はボディボードのインストラクタ


ーをして暮している。そんなわけで一年中、真っ黒こげだ。


「先週な、模範をしめすすべりを生徒さんに見せとったら、髪がサササーって顔にか


かりよって、あわわわわーって間に転倒してなー」


「めっちゃカッコわる」


「なー、もう真っ赤になってもうたわ」


 僕は、はははと笑う。


「真っ赤やのうて、まっく──」


「真っ黒とかいうたら殺すよ。気にしとるんやから」 嘘こけ!!と思う僕。


「ま、わたしのことはええわ。今日よんだのは、アンタのことを話すためや」


「僕のこと……て、なに?」


 エミリ姉ちゃんは、かたわらのナイフを手にすると僕に刃を向けた。まだ彼女の血


痕が薄く残る刃先を。


「なんやねん?」


「どや? 恐いやろ?」


「だからなんや?」彼女はまた、パチンという音を立てて刃先を折り畳んだ。


「アンタ、今、つらいやろね。これでおどしたり、刺したり、そんなんしたい


ヤツ、いっぱいおるんやろね」


 僕は視線を落とした、はるか階下の石畳にまで。そして、小石を指先ではじいた。


からからから。 乾いた音を響かせながら、境内の石段を転げ落ちていく小石。正月


でもない限り、こんな遅い時間に真冬の神社を参ろうとする人がいるとは思えない。


エミリ姉ちゃんは、だから、この場所を選んだのかもしれない。


「アンタなぁ、つまらんこと、考えたらあかんよ。学校はいきたくないやろし、回り


は敵か、他人ばかり、級友なんて名ばかりで、かかわることを恐れる意気地なしばか


り……そんな風に思うとるやろ?」


 そこまでグダグダと考えていたわけではない。だが学校では、教師もふくめて好き


な人間がひとりもいなかったことだけは確かだ。


「なぁ、わたし、思うけど、長い人生ん中で本物の友達なんて、多分、ひとりかふた


りくらいしかできんモノなんよ。アンタをイジメて喜ぶアホも、見て見ぬフリのアホ


どもも、アンタの友達になる資格ないんや。アンタはネジくれたらあかんよ。アホな


連中のせいでネジくれてほしゅうないんや。そんな奴ら、見くだしとったらええね


ん」


 彼女は血に染まったハンカチを巻いた手で、刃先を閉じたナイフをポーンとほうり


上げ、逆の手でキャッチした。


「これを持ってたら、アンタ、どんな奴にもやられへんよ。コイツで刺せば、アンタ


は勝てる」


「で、でも、だって……」


「でも、使ったらあかん。ナイフの刃を開いてはあかんのよ」


「意味ないやん」


 ここでエミリ姉ちゃんは満面の笑みをうかべた。


「意味はある。アンタをイジメるアホどもなんか、アンタはやっつけられるんや。


アンタは強い。だから、やられてやってるだけなんや。クズなんぞ相手にせん! そ


う思うんや。無理にでも、そう思いこむんや。どや? できるか?」


「う、うーん、どうやろ」


「するのや! くやしいとき、悲しいときはポケットのこのナイフをギュッと握って


こらえるんよ。ええか?」


 僕は、エミリ姉ちゃんのわけのわからない迫力にされて、うん、とうなず


いていた。実は、彼女は社長令嬢というか、とにかく世間にも名の知られた会社社長


の一人娘だ。奔放ほんぽうとも取れる彼女の生き方は、親の財力があればこそ。


その上に成りたっていることを僕は知っていた。だから、そんな絵空事のような話も


できるのだ。僕は、少しだけ意地の悪い気分になって彼女にたずねた。


「そうやって、こらえて、こらえて、たたかれて、打ちどころ悪うて、僕が死んだ


ら? どないすんねん?」


 彼女は、一瞬だけ顔をしかめ、眉根をよせていった。


「もし、アンタを死なすようなアホがおったら、わたしが、そいつを殺したるわ」


「はぁ?」


「ホンマや」


 彼女の目を見てわかった、エミリ姉ちゃんの黒目がちの大きな瞳は、めっちゃマジ


だった。──ホンマにマジや、この人。


「ならな……」 エミリ姉ちゃんはポケットからビニールテープを出し、折り畳んだ


ナイフにぐるぐると巻いた。「本当なら、こよりとか巻くんやろうけど、あんなんす


ぐ破れてしまうからなぁ……はい、アンタのや」


 ビニールテープで封印されたナイフを受けとった僕は、なんだかアホらしいよう


な、恥ずかしいような複雑な気持ちだった。


「ほれ、ちゃんとポッケにしまい。で、ギュッと握ってみい?」


 姉ちゃんのなすがままの僕は、ズボンの右ポケットに突っこんだ折り畳みナイフを


ギュッと握った。


「どうや? 強くなれたやろ?」 そんな気がした。そんなはず、ないのに……。


「どう? どう?」


 僕が笑ってみせると、エミリ姉ちゃんは真っ黒こげの顔に白い歯がキラリと光る、


そんなとびきりの笑顔を見せてくれた。こんな風に女の子が笑ってくれるなら、僕は


死んでもいい。生まれて初めてそんな風に思った。


 ──それほどとびきりの笑顔だった。


 エミリ姉ちゃんが死んだ。だった。遺書はなかった。皮肉というべきか、あれ


からの僕のほうはというと、どんなイジメにもシカトにもたえられた。彼女の笑


顔を思えば、どんなことでも平気になれたのだ。


 三年前、エミリ姉ちゃんは結婚した。披露宴で会った彼女は、それなりに幸せそう


に見えた。それが少しばかりさびしかったりもしたものだった。


 そしてやはりそれなりに盛大であった彼女の一周忌に参列した僕は、酔いをさます


ために出た寺の裏庭で聞いてしまった。


「あい つ男友達も多くってさ、それもワールドワイドでね。夜中でも平気で電話か


かってくるしさ。時差あるから、仕方ないやろ? なんていわれてもね……どこでど


んな男と寝まくってたのかと思うとゾッとするよ。妙な病気もってないかとかさ──


正直、死んでくれて──一周忌もすませたし──そろそろ俺も──いや、あてはある


さ、いくらでも──」 耳をふさぎたくなるようなエミリ姉ちゃんの旦那の言葉。


 僕はポケットの中のナイフをギュッと握った。


 それから、それとなく近所に聞いてまわった僕は、初めて知った。彼女の結婚、あ


れは、いわば政略結婚だった。実は彼女の父親の会社は、業績不振でつぶれかけてい


たのだそうだ。それがあの結婚のあと、なんとか持ちなおしたのだという。しかし彼


女の父親はざまあない。彼女の死で縁故を失い、先月、倒産したのだと聞いた。


 それはそれでいい。が、エミリ姉ちゃんの旦那を僕は許せなかった。むろん夫婦間


になにがあったのかは知らない。しかし父親のためを思い、別れることなどいい出せ


なかったであろう彼女を自殺に追いこみ、死したあともなお侮辱ぶじょくの言葉を吐いた


あの男を僕は許せなかった。


「もし、アンタを死なすようなアホがおったら、わたしが、そいつを殺したるわ」


 今度は……僕の番……。


 僕は、その日のバイトがひけたあと、あの男の豪邸の前で彼の帰りを待った。調べ


てあった通り、彼を乗せた黒塗りの外車が目の前を過ぎた。彼は門の前で必ずおりて


運転手を帰す。そして呼び鈴を押す。すると子供を抱いた彼の二度目の奥さんがパタ


パタと走ってきて門を開く。絵に描いたような幸せそうな光景。 だが、幸せの形は


人それぞれ、さまざまであるはず!  僕は走った!!


 ポケットから折り畳みナイフを引きぬき、ボロボロのビニールテープをはがし取


る。 僕は、一直線に走る。 彼の心臓を目指して!!


「──!?」 夫婦は、僕の存在に気づくことなく、門の中に消えていった。


 ……思えば、約十年もの間、常にポケットの中にあって、ビニールテープに密閉さ


れていたあげく、年がら年中、冷や汗、油汗まみれの手にギュッと握りしめられつづ


ていたナイフ。この十年間、一度も開かれたことのなかったナイフ。 そうであった、


がさつな姉ちゃんは、自分の血をぬぐいもせずにコイツを封印したんだ……。


 よく見ると、思いきり赤黒いさびがうき出ていた。これじゃあ開くわけない


やん……つぶやいた僕は、近くにあった電信柱にもたれて、夕闇に染まる空を見上げ


た。僕は、泣きながら笑っていた。


 真っ黒こげな顔をしたエミリ姉ちゃんが、とびきりの笑顔を返してくれたような気


がしたから。

  

                              (終)

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