蘇へる千世子

tori tori

第1話 蘇へる千世子

ここ最近、嫌な夢を見る。

そのせいか、まともに眠れていない。

「顔色が悪いわよ、休んだ方がいいわ」

妻の千世子は、私の顔を覗き込んで心配そうに言った。

私が毎晩、悪夢にうなされるのはほかでもない、この千世子のせいなのである。

「そうだね、千世子は今から仕事かい?」

「なるべく早く帰って来るからね。何かあったら電話して頂戴ね」


千世子と結婚してからもう二十年が経つ。

子供もおらず、ずっと二人っきりで暮らしてきた。小さな取るに足らない不満ならあるが、概ね千世子に対する不満はない。

よく出来た女性である。家庭も仕事も見事に両立させている。

一方、私はと言えば、仕事を転々としていた。どんな職に就いても長続きしなかった。

実際は、妻に食べさせてもらっているに、等しかった。

けれど千世子は文句も愚痴もこぼさなかった。

とは言え、私にだってプライドがある。出来過ぎた妻と、うだつの上がらない夫。世間から後ろ指を指されている様な気分になり自己嫌悪に陥る事もあった。

三ヶ月ほど前の事である。

私は、妙な夢を見た。

悪夢を見るようになったのは、丁度そのころからである。


その日、私は千世子に紹介してもらった仕事の面接には行かなかった。

妻に仕事の面倒をみてもらう情けない夫。

私が面接に行かなかったと言っても、千世子はきっと何も言わない。

煙草を買って、ウロウロ近所を散歩していた時である。

見慣れない喫茶店を見つけた。

蔦の絡まった古い洋館の様な佇まいの、喫茶店だ。

こんな店、あったかしら?と私は店に入った。

客は無く、がらんとした店内。

私は、革のソファに腰掛けて、煙草に火をつけた。

少しして、ウエイターが注文をとりにやって来た。

「珈琲」

私がそう言うと、返事もなく男は立ち去って行った。随分不愛想な男だと思っていると

「彼は、いつもああなんですよ」

気が付くと私の目の前に、見知らぬ男が座っていた。

身なりのしっかりとした、初老の紳士風のその男は、図々しく私と同じテーブル席に着くと、カウンターに立っているウエイターに聞こえる様に、少し大きな声で紅茶を注文した。

「珈琲は苦手でしてね」

男はそう言うと、背広のポケットからハンカチを出して、額の汗を拭った。

「あのう・・・お知り合いでしたっけ?」

私は男に、恐る恐る聞いてみた。

「いいえ。今日が初めてですよ。僕は鈴木です」

「はあ・・・私は楠木と言います」

「これでもう僕たちは知り合いになったわけです」

なんだか変な男だが、この鈴木と言う男、不思議と嫌な感じはしない。

暫くして、珈琲と紅茶がやってきたが、相変わらずウエイターは不愛想に何も言わずカップを置いた。

「楠木さん、浮かない顔ですね」

「ああ・・・実は今日は、妻が紹介してくれた会社の面接だったんですけどね、気がのらなくて、行かなかったんですが、なんだかそのまま家に帰るのもね、それでこの店に立ち寄った訳です」

「奥様に怒られるのが怖いですか?」

「いいえ・・・寧ろ怒らない事が怖いというか・・・職を転々として、妻に食べさせてもらっているようなダメ亭主だというのに、文句も言わないというか・・・」

「其れは幸せな事じゃないですか・・・できた奥様で・・・」

 確かに、その通りだ。

「たまに、妻を見ていると無性に嫌な気持ちになるんです。いや、一番ダメなのは自分だってわかってはいるんですがね・・・」

「自尊心を傷つけられますか?」

「勝手な事を言ってますよね・・・」

 鈴木は、私の目をじっと見つめた。

「疎ましく思っているわけですな」

「そっ・・・そんな事・・・」

「解りやすい方ですな。図星ってお顔をしていますよ。あいつさえいなければ、こんな惨めな気持ちにもならずに済んだってね」

「そんな風には思ってませんよ」

とは言ったものの、鈴木に見つめられるとなんだか心を見透かされているような気持にもなって来た。

「確かに身勝手ではありますが、妻がストレスに感じる事もあります」

「殺しなさい」

 鈴木の言葉に驚いて、私は思わず立ち上がりそうになった。

「楠木さん、本当に殺すわけではありませんよ、そんな事をしたら、貴方の人生が終わってしまいますからね。夢の中なら殺せるでしょ?」

「夢?」

「夢の中で、奥様を消してしまえばすかっとするかもですよ。幾らやったって、夢ですから・・・」

そう言って鈴木はテーブルにお金を置いて立ち去った。

私は、そこで目が覚めたのだ。

実際には、千世子に起こされたのだ。

「今日は、面接の日でしょ?そろそろ仕度しなきゃ、間に合いませんよ」

あの喫茶店の出来事は夢だったのだ。


その夜、私は夢の中で千世子の首を絞めて殺した。

千世子を殺すと、今まで抱えてきた何か暗くて黒い感情が晴れたみたいに、穏やかな気持ちになった。目覚めると自然に千世子に優しくできた。

しかし、その日以来、夢はいつもその続きから必ず始まるのである。

千世子が段々腐っていくのである。

夢の中でも、鼻を突くような匂いがリアルに感じられた。

私は、ブルーシートに千世子を包み、ガムテープでぐるぐる巻きにした。

それでも匂いは部屋中に充満して、仕舞いには変な虫まで湧いてきている。

目が覚めれば夢で殺した筈の千世子が蘇っている。

毎日毎日、千世子の死体と過ごす夢を見続けた。

私は疲れ果てていた。

そして、夢の中で、千世子の死体をどう処理すればいいかばかりを考えて、後悔や悲しさを全く感じない事に気が付いたのだ。

勝手な話だが、私は千世子を愛してはいなかった。

いつだって、千世子の言動、一挙手一投足に苛立ち、疎ましくて仕方がなかったのだ。

目覚めればいつものように優しく、私に話しかけてくる千世子。


ある朝、私は夢を終わらせるべく、千世子にこう切り出した。

「別れよう」

千世子は驚くかと思ったが、意外に平常心であった。

「どうして?」

「君を愛してないって解ったんだ。愛してないどころか、私は君を殺したい程、疎ましく思っていたんだ」

「知っていましたよ」

私は、驚いたが、よくよく考えてみれば何気ない所で、態度に出ていたのだろう。

千世子は勘が鋭く、頭のいい女だ。気づいていたって何らおかしな話ではない。

「夢の中で君を殺してしまったんだ。そう、たかが夢だけれど、おかしな話だが、私が望んで見た夢なんだよ」

千世子は、青いビニールシートと、ガムテープを持って私の前に立っている。

「なんで・・・」

顔が強張って私は上手く言葉が出ない。

「ねぇ、貴方。どうしてこうしてる今の方が夢だと思わないんです?」

私が夢だと思っていた方が現実で、現実だと思っていた方が夢だったというのか?

「そんな筈は・・・」

「酷い人ね」

「私は・・・」

千世子は、いつものように優しい表情で私に微笑みかけた。

「目を覚まさなければ良いんですよ。ずっと夢の中で一緒にいましょ」

夢の中で千世子と永遠に一緒だと?

「君と永遠にいる位なら、死んだ方が幾分マシだよ」

笑顔の千世子を前に、私は笑うしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蘇へる千世子 tori tori @dodo44

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ