第31話 ごらん、下ネタの花がエモく咲いている。 前編

 清美は美術館脇にある広場にいた。

 階段を登り切ったからだろう。息を切らし、フェンスに寄り掛かっている。

 額から流れ落ちる汗を拭きとりながら、俺は清美に近づいた。


「来ないで」

「清美……」

「来ないでよ……」


 視線を地面に落し、泣きそうな声音で、懇願するように清美は言った。

 いつもの凛とした雰囲気はどこにもない。とても小さな背中がそこにはあった。


「なあ、清美。事情を説明してくれよ。俺、何が何だかさっぱり分からなくてさ」

「言いたくない」

「なんでだよ、俺ってそんなに信用ないか?」

「そういう問題じゃない……そういう問題じゃ、ないのよ……。だって言ったら……全部終わっちゃう……」


 全部、終わる。

 いったい、何が終わると言うのだろう。

 俺と彼女の間の、なにが変わるというのだろう。

 分からない。考えたところで、答えは見つからなかった。


「なあ、教えてくれよ。もし何か困ってるなら力になりたいんだ」

「力に……?」

「ああ。だって、俺とお前は幼馴染じゃないか。だから――」

「ふふ……ふふふ……」 


 突然、肩を震わして清美が笑い始めた。

 楽しくて笑っているのではなく。

 可笑しくて、可笑しくて、笑うしかなくて。

 だから笑っているように見えた。


「面白いこと言うのね、征一君」


 そして、振り向いた。



「何もかも全部、



「……え?」


 その言葉が栓をしていたかのように。

 シャンパンのコルクが飛び出した後のように。

 清美の口から、言葉が次々と零れ落ちる。


「全部全部あなたのせいなのに……あなたが全ての始まりなのに、何もかも忘れて、何もなかったみたいな顔をして、それで今度は私の力になりたいなんて……あはは……ほんとよくできた冗談だわ」

「ちょっと待ってくれ。俺のせい? 俺が始まり? 一体なんの話だよ!」

「ええ、知ってるわ。知ってるわよ。あなたが忘れてしまっていることくらい。でも、それでいいと思ってた。だからこそ隠し通せると思ってた。それなのに――」

「清美、教えてくれ! 俺が何を忘れてるって言うんだ! 俺が何をしたって言うんだ!」


 記憶がない。覚えがない。

 ただただ困惑する俺に、清美は言う。

 半ば、独り言のように。


「校庭に咲いていた桜の木、覚えているかしら。昔の卒業生から贈られた、とても立派な、一本だけ植えられた桜の木。小学校六年生になったばかりの春、私とあなたはその桜の木の下で、私たちはを話した」


 一拍。


「これだけ言っても、思い出せない?」


 いや、それなら覚えている。

 覚えているさ。

 だって俺は――


「……そう、やっぱり覚えてないのね。あれが……あの時の会話が、全ての始まりだというのに」


 ――俺はその日、

 だから、あれが原因なはずがない。

 お前が下ネタを話すきっかけであるわけがないんだ。


 脳の奥がちりちりと爆ぜる。

 唐突に、姉さんとの会話がフラッシュバックする。


『玲愛ちゃんと付き合うことに罪悪感がある?』

『たぶん……イエス』

『じゃあ、最後の質問。その罪悪感に、清美ちゃんは関係ある?』

『……? なんでそこに清美が』

『イエスかノーで、答えるんだよ?』

『……ノー』

『ノーなの?』

『ノーだよ』


 ……まさか、そういうことなのか?


『俺が何か、忘れていることでもあるのか……?』


 俺はあの日のことを十全に覚えていなくて、失念していて、忘却していて。

 そこに何か、とても、とても大切なことが隠されているとでも言うのだろうか。


 考える。

 記憶の海に飛び込んで、必死にあの日のことを思い出す。


 とても天気の良い日だった。

 青い空を背景に、満開を迎えた桜の木が意気揚々と咲き誇っていた。

 舞い散る花びらが、俺と清美の間をはらはらと散り落ちていた。

 俺は彼女に――好意を伝えた。


『だ、だからさ、清美――俺と、付き合ってくれよ』


 そう伝えた。確かに伝えた。その記憶に間違いはない。


 なら、その前は?

 そこに至るまでに、俺は清美とどんな会話を交わした?

 そもそもどんな経緯を経て、俺は清美に告白しようと思ったんだ?


 ……思い出せ、思い出せ思い出せ思い出せっ……!


「……いいわ、こうなったらもう全部教えてあげる」


 思い出せ、思い出せ思い出せ思い出せっ、思い出せよっ……!!


 そんな大事なことを!

 たった一人の幼馴染を変えてしまった出来事を!

 忘れたままにしておくんじゃねえよ……っ!


「あのね、征一君。私が自分から下ネタを学ぼうと思ったのは――」


 ――刹那。

 目の前の光景に、あの日の記憶が重なった。


 高校生の清美と、小学生の清美。

 あどけない表情の清美と、少し大人になった清美。

 二人の口が、同時に開く。


 そして、言う。



「『』って、あなたが言ったからよ」


 

 ――思い、出した。

 

 唐突に、鮮明に、はっきりと、明瞭に、まるでそれが、昨日の事であるかのように。


『征一君は、ほんとに友達がいらないの?』

『いらないよ。誰かに合わせたり、誰と一緒にいるのは、嫌だから』

『でも、一人は寂しいと思うわ』

『そんなこと、ねえよ。……ま、まあ、一人くらい近くに誰かいて欲しいとは思うけどさ』

『……! そ、そうでしょ! 私もそう思う!』

『だからさ、清美』

『だったら、征一君』


 その時。

 続く言葉を発したのは、清美の方が数秒早かった。


『私が友達になってあげましょうか?』

『い、いやそれは無理だろ』


 そして俺は、反射的に返事をした。

 清美の顔をろくに見ないまま、早口に矢継ぎ早に、言葉を連ねた。


『……え?』

『友達って言ったら普通、同性同士でなるもんだろ? だから無理だよ』

『そ、そんなことないわ! 男の子と女の子でも、友達にはなれるわよ! だから――』

『無理なんだよ!』


 俺は、怖かったんだ。

 清美と友達になってしまえば、それ以上の関係にはなれない気がして。

 もう永遠に、清美とは恋仲になれない気がして。

 必死に清美の言葉を否定したんだ。


『ほ、ほら男と女じゃ価値観ってやつが違うだろ』

『価値観?』

『た、例えばそうだな……』



『下ネタとか、言い合えないだろ?』



『下ネタ……』

『そ、そう、下ネタだよ! 友達って言うのは、そういうバカな話ができるやつのことを言うんだよ』

『私……下ネタなんて、分からない……』

『だろ? だから……だからさ』



『清美――俺と付き合ってくれ』

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