第3話 消せないおっぱい 中編
恋をすると日常の景色が一変すると誰かが言った。
……バカらしい。
そもそも景色が見えるのは、物に当たって反射した光を目が受け止めているからだ。その光が網膜の上で像を作って、電気信号となって視神経を通り、脳がその物体を認識するからだ。
単純で明快な仕組み。だからこそそれらに干渉しなければ、目に見える物が変化するなんてあり得ない。
ましてや、愛だの恋だの、そんな抽象的な概念が、ロジカルでクリアーな現象に影響を与えるはずがない。
そう思っていた。
そう信じていた。
だけど……俺はそんな自分の考えを訂正しなくてはならない。ガチガチに凝り固まった、つまらない固定観念にとらわれた、自分の愚かさを認めなくてはならない。
だって……だって……っ!
幼馴染が下着を付けていないと知っただけで、こんなにも世界が色づいて見えるんだから!!
いやぁ、すごい。ノーブラ効果ほんとすごい。
もうね、あらゆることが輝いてんの。
「起立、礼、着席」の挨拶だけで興奮できるし、休み時間に清美の友人が彼女に飛びつく微笑ましいワンシーンですらAVの導入に見えるし、四限に控えている体育の時間なんか、もう今から待ち遠しくて仕方がない。
愛だの恋だのことはよく分からない。
だけど、気持ちや感情が目に見える景色を変えるということは十分に理解できた。
だって今この瞬間、二限目数学の時間に至るまで――俺はおっぱいの事ばかり考えていた気がするから。
斜め前に座った清美が、くいっとセーラー服の襟元を引っ張った。
やっぱり、ブラジャーがないとおっぱいの位置が定まらなくてソワソワするのかな。するだろうな。
俺だって、ノーパンだったらマイサンの位置が定まらなくて落ち着かないだろうし。
(……そういえばあいつ、四限目の体育はどうするんだ?)
確か今日の授業は男女合同で長距離走の練習だったはずだ。
揺れて跳ねての大騒ぎになる清美の胸を見るのは今からとても楽しみではある。
だが、ほんの少しだけ心配にもなる。
ほら、女子って擦れると痛いって言うじゃん?
ノーブラで長距離走るのは辛いんじゃないかなあって。
そうだ! 保健室から絆創膏をもらって、あいつにそっと渡してあげるというのはどうだろう?
うん、なんてさりげなくて紳士的で完璧な気遣いなんだ。
きっと清美も喜ぶに違いないぜ。
「それじゃあ次の問題は、誰かに解いてもらうからなー。しっかり取り組めよー」
おっと、こうしちゃいられない。
黒板に書かれている大小異なる二つの円が、もうおっぱいにしか見えないとかバカなことを考えている場合じゃない。
ボッチが平穏に高校生活を送るためには、いくつか気を付けなければならないことがある。
その一つがこれ。友達がいない人間は、目立ってはいけないのだ。
先生に当てられても無難にやり過ごし、グループ分けでは人数が余りそうなところにするりと入り込み、休み時間は誰にも絡まれないように教室の外に出るか、寝て過ごす。
そうやって自分の存在を薄めて薄めて、無難な人間になることこそが、ボッチで素敵な高校生活をやり過ごす唯一無二の最適解なのだ。
よし、できた。答えはπcmだ。「三角形ABCが円を切り取った時にできる図形の外周を求めろ」。意外と綺麗な答えになったな。
そういえばどうでもいいけど、πって響きはおっぱいに似てるよな。
名付けた人は欲求不満だったんだろうな。
「よし、じゃあここの問1の答えは――桔梗屋、何になった?」
「はい」
先生に当てられ、清美がすっと立ち上がった。
清美は学年トップの成績を誇る。この程度の問題なら、余裕で正解できるだろう。
本性を知らなければ完璧な、幼馴染の美しい後ろ姿を眺めながら、大きなあくびを一つ噛み殺し――
「答えは、おっ――」
あ、こいつやりやがった。
清美の言葉が、止まる。
教室に刹那の沈黙が訪れる。
ばっかやろう! なんて初歩的なミスしてやがんだ!
お前どうせあれだろ? πって響きはおっぱいに似てるなー。名付けた人は欲求不満だったのかなー。とか考えてたんだろ? 分かるよ! 俺も考えてたから!
でもさあ、だからってお前、答える時に「おっぱいcmです」とはならんだろ!
先生のことをお母さんって言い間違えるよりあり得ない間違え方だぞ! 英語の発音練習で、何回も「Chin」が流れてくすくす笑う方がよっぽど共感できるわ!
いやまあ、どっちもクッソくだらないんだけども!
とはいえ、もう清美に残された選択肢は一つしかない。
「おっ」まで言ってしまって、続く答えが「π」なのであれば、それはもうどうあがいても「おっぱい」になるしかない。
清美がどう誤魔化そうが、例えここで数秒の間を置こうが、「おっぱい」の単語はクラス全体に響き渡り、あの桔梗屋清美が「おっぱい」と言った事実だけが残ってしまう。
まさにこれは「おっぱいのジレンマ」であると言えた。何言ってるか自分でもよく分かんなくなってきたけど多分そうだ。
(まったくバカだなあいつも……。朝っぱらから全開で下ネタトークかますからだ)
自業自得とはまさにこのことだ。因果応報、
けれど……。
(……ま、納得はいかないよな)
ここまで完璧に優等生を演じてきた清美の正体が、こんなバカバカしい凡ミス一つでバレてしまうのは、どうにもすんなり飲み込めない。
そして何より――この危機に気付いているのは俺一人だけなのだ。
あいつの本性が下ネタ大好きの変態だと知っている、この俺、ただ一人だけなのだ。
(やれやれ仕方がない、ここは俺が一肌脱いでやりますか)
清美が言葉を止めてからここまでをわずか0.3秒(体感)で考えた俺は、後ろに誰もいないことを確認し、椅子を大きく倒し、せーのと勢いをつけた。
俺の体は椅子ごと後ろに派手に倒れて――
がっしゃぁああんっ!
という姦しい音と共に、教室中の視線が俺を射抜いた。
秘技! 椅子をかったんかったんやってたら後ろに転んじゃったやつ!
因みにこれをやるとものすごく恥ずかしいし、友達がいない場合は笑ってももらえないから倍の心的ダメージがぐっさぐっさ突き刺さるぞ!
俺レベルになると全く堪えないけどな!
「ええっと……志茂田、大丈夫か?」
「すみません、次から気を付けます」
「ま、まあ、授業受ける時は姿勢よくな」
特に誰からも弄られることもなく終了。
これがクラスの人気者だったら「何やってんだよ」くらいの声かけはあったかもしれないが、まあそれはどうでもいい。
重要なのは、これでみんなの意識が一度俺に向いたということだ。清美がうっかり漏らした「おっ」という発言は、既にみんなの記憶からは消えてしまっているだろう。
「どこまでいったんだったかな……。ああ、そうそう。桔梗屋、問1の答えは何になった?」
「……」
「桔梗屋?」
「……あ、すみません。問1、ですよね。答えは――」
こうして清美は、つつがなく授業を乗り切った。
まったく……こんな凡ミス、もうしないでくれよ。
俺はあんまり目立ちたくないんだからさ。
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