悩んだ挙句の決断

悠貴は,しばらく昼夜逆転の生活を送った。夜は,色々考えて眠れないから,昼間に寝てしまっていた。仕事中でも,気がついたらうたた寝してしまっている時があった。


仕事が終わり,家に帰っても,食欲はなく,また自分の病気について調べてしまう。調べて,希望の一筋を探すのだが,見つからない。調べれば調べるほど,暗くて惨めな気持ちになり,夜眠れなくなる。こういう悪循環に陥ってしまっていた。


交際相手の高橋恵梨に自分の病気のことを打ち明けることにした。この病気になってしまった以上,恵梨とのお付き合いを続ける訳にはいかない。しかし,事情を説明せずに,別れてしまうと,恵梨は自分に何か落ち度があったと勘違いしてしまう恐れがある。恵梨を自分のことで悩ませたくないから,正直に話した上で,別れた方がいいと思った。


恵梨とよく行く大学近くの喫茶店で,会うことになった。社会人になってから,足を運ぶのは初めてだった。


単刀直入に,恵梨に自分がALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されたことを話した。恵梨には,ALSとは,どういう病気なのか,話す必要がないのは,有難かった。大学を卒業して,すぐに介護士として働き始めた恵梨は,ALSなどの難病については,熟知している。


筋肉が少しずつ衰えていき,最後に呼吸するために必要な筋肉さえ動かなくなり,呼吸麻痺を起こし,呼吸器をつけないと,そのまま死に至る病気だと診断されたことは,まだ誰にも話していなかった。その説明を自分の口ですると,自分の死を自分で認めることになり,必死でしがみついている「自分は大丈夫かもしれない。」という正常化バイアス故の根拠のない自信まで折れてしまいそうだった。


恵梨は,突然過ぎる僕の報告には,最初絶句した。しかし,すぐに我に返って,介護士らしい励ましの言葉を言い,僕の不安や絶望の気持ちを解消しようとした。

「治らない病気だし,不安だと思うけど,筋肉麻痺は,死を意味するものじゃないから。呼吸器をつければ,生きていけるから,希望を捨てないでね。私もいるし,悠貴のご両親なら,きっと看病には協力的だと思うし。」


「僕は,呼吸器をつけないつもりだ。つけても,つけなくても,死んでいる同然の状態になるし,両親をはじめ周りに迷惑をかけることになるから。」

僕は,はっきりと自分の考えを述べた。


恵梨は,これを聞いて,少し間を置いてから,言った。

「今は,そう思っていても,その時になれば,気が変わるかもしれないし…とにかく,すぐに呼吸器をつけるような状態になるわけではないから,今は,まだそのことを考えなくてもいいんじゃない?」


「人によって,進行のペースは違うし,いつそういう状態になるのか予測できないから,考えておかないとダメだ。恵梨みたいに悠長に考えていられない。」

悠貴がきっぱりと言った。


「それもそうだけど…死を覚悟する必要はないよ。呼吸器を使えば,進行しても生きていけるし,周りの人とコミュニケーションを取り合うためのツールも色々開発されているし,今はそう思えないかもしれないけど,先が真っ暗というわけではないよ。希望はあるよ。」

恵梨は,僕の心境に配慮して,優しくて柔らかい口調で話した。


「自分で,体を全く動かせないのに,延命措置で呼吸器をつけられて,寝たきり状態になって,周りに世話をしてもらわないと自分では何もできない状態になって,それでも生きろって言うの!?それの一体どこに希望があると言うの!?

自分の体にとじ込められ,自分では何もできなくなって,話すことも息することも出来なくなって…それなのに,呼吸器をつければ心臓は動き続けるから,生きているというの!?無理やり生かされている本人の身になって考えて欲しいなぁ…そんなの,死んでいると同じじゃないか!」

悠貴は,ムキになり、取り乱した感情を抑えられずに,声を荒げて,暴走してしまった。


しかし,介護士の仕事のおかげで,患者対応が板についている恵梨は,少しも動じずに,根気強く,悠貴を励まし続けた。

「そんなことないよ…。」


悠貴は,恵梨が自分の患者のように対応しようとする態度に呆れて,遮った。

「もう,いいから!僕は,介護士の高橋恵梨に,僕の病気について相談したくて,呼び出したんじゃなくて,病気になったから,もう付き合えないと伝えるために呼び出したんだから…。」


恵梨は,これを聞くと,表情が変わった。

「あ,そう?」


長い沈黙が続いてから,恵梨がまた口を開けた。

「私は,悠貴が病気でも構わない。病気でも,大事な人だということは,変わらないし,好きな気持ちも変わらない。負担に思わない。

でも,悠貴がもう付き合わないと決めたのなら,それを尊重するしかないね…。」


恵梨は,どこまでも冷静だ。悠貴がどんなに取り乱しても,全く動揺しない。職場で鍛えられるというのは,こういうことかと悠貴は,思った。


それ以上,恵梨から激励を受けるのが情けなくて,「一人になりたいから」と言い訳をし,恵梨と解散することにした。


帰り際に,恵梨に呼び止められた。

「今,悠貴はとても不安で,怖いと思う…今はまだ気持ちの整理ができていないから,その気にはなれないかもしれないけど,また落ち着いて,私に何か出来ることがあれば,何なりと,何でも言ってね。自分は,一人だと思わないでね。」


悠貴は,「ありがとう。一つだけお願いするかもしれない…。」と有り難く言った。


しかし,言えなかった。自分は,死ぬつもりでいると。筋肉が衰え,呼吸麻痺を起こすのを待つなんて,癪だと。


アパートに帰って,すぐに母に電話した。父が2年前に単身赴任で岩手県へ引っ越してからというもの,母が寂しい思いをしているのではないかと心配し,頻繁に電話するようにしている。


母がすぐに出た。声は,元気そうだった。母の元気そうな声に釣られて,つい自分もテンションが上がり,元気に振る舞ってしまう。


本当は,好きな人,結婚して一緒に家庭を築きたいと思っていた人と別れて,自殺を決意して,この上なく惨めで暗い心境でいるのに,母親の前では,その自分を見せたくない。安心させたくて,元気な自分を演じてしまう。


だって,悩んでいる自分を見せてしまうと,今の気持ちを言ってしまうと,覚悟が緩んでしまう。

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