第17話

 


 ところが、次の朝を迎えても、高志が出頭したという報道はテレビにも新聞にもなかった。ここを出たのは昨日の朝だ。出頭したなら、朝刊なり、朝のトップニュースなりで報道するはずだ。順子の中に再び、暗雲が立ち込めた。


「……迷っているのかしら」


 先刻帰って行った客の器を洗いながら、ぽつりと溢した。


「……いざとなったら躊躇ちゅうちょするさ。まかり間違えれば犯人にされかねないんだから」


 新聞を捲りながら、行弘が瞥見べっけんした。


「そうね。……今、どこに居るのかしら」


「はぁ……。もう一度戻ってきてくれないかな」


 行弘は大きくため息をくと、新聞を畳んで客室の片付けに行った。


 順子も行弘と同じ気持ちだった。だが、高志は二度とここには来ない。そんな漠然とした決まり事のようなものを感じた。すると突然、虚無感に襲われ、洗い物を途中にして蛇口を閉めた。部屋に入ると、卓袱台ちゃぶだいに頬杖をついて窓から覗くコブシを眺めた。コブシが風に揺れた時だった。ふと、高志との想い出が甦った。




「……結婚しないか」


「私、まだ若いもん、結婚なんかしたくないわ」


「……おふくろにお前のこと言ったら、会いたいって」


「イヤよ。結婚しないのに会う必要ないじゃない」


「分かったから。結婚しなくてもいいからおふくろに会ってくれ」


「なんでよ」


「俺達付き合ってんだから、紹介するぐらいいいだろ」


「……分かった」




 高志は七人兄弟の末っ子で、長男とは親子ほどの歳の差があるそうだ。父子家庭で育った一人っ子の順子には、大家族というだけで違和感があった。結婚する気がない上に思慮がなかった順子は、老体でありながらわざわざ東京までやって来た高志の母親に、素っ気ない態度を取った。悪印象を与えたのが手に取るように分かるほど、母親は終始寡黙かもくだった。


 ホームから見送った時、窓から顔を向けた母親の目は、


「残念だけど、あなたを高志の嫁にはできません」


 と言わんばかりのかたくななものを感じさせた。間もなく、新しい恋人ができた順子は、短い書き置きをして、高志のアパートから出て行った。


 後に、高志は役者を諦めて故郷いなかに帰ったことを風の便りに聞いた。




 ね、どこに居るの? 電話でいいから、せめて無事で居ることを知らせて。ね、高志っ!


 心の叫びが高志に届くことを願いながら、順子は普段の生活に戻ることにした。



 だが、普段の生活に戻ることはできなかった。翌朝、食事を終えて間もなく、予期せぬ来客があった。


「ごめんくださーい!」


 女の声だった。


「はーい!」


 急いで厨房から駆け付けると、玄関に居たのは、同年代のぽっちゃりした女だった。女は初対面とは思えない人懐こい笑顔を向けて、


「芦川さんの奥さんだが?」


 山形訛りで訊いた。


「えぇ、そうですが」


「松田です。松田羽留子です」


「えっ!」


 驚きのあまり言葉を失った順子は、瞬きのない目を羽留子に据えた。


 ……この人が、高志の奥さんだった羽留子さん。


「突然さ申す訳ね。ご主人いらっしゃいますか」


「あ、はい。どうぞお上がりください」


 震える手でスリッパを出した。後ろめたさのようなものが順子を動揺させた。


「あなたーっ!」


 行弘を呼ぶと、食堂に案内した。


「今、お茶を淹れますので」


 そう言って、ストーブを点けた。


「は、羽留ちゃん!」


 食堂に来た行弘が、羽留子を視て吃驚びっくりしていた。


「久すぶりね」


「よく、来てくれたね。元気だった?」


「ん? まぁ。……知ってんべ? 事件のごど」


 羽留子が俯いた。


「え? ……あぁ」


 羽留子がどこまで知っているのか? それによっては言葉を選ばなくてはならない。行弘は隔靴掻痒かっかそうようとしていた。


「いいのよ、みんな知ってっから」


 羽留子はそう言って、笑顔を向けた。


「えっ?」


「こごがら帰ってすぐ打ぢ明げでくれだがら、みんな知ってるわ。奥さんとのごども」


「……そうか」


「羽留子さん、すみません」


 順子は湯呑みを置くと頭を下げた。


「奥さん、謝んねでください。昔のごどじゃねか。……それに、もう松田どは離婚すてるす」


「……」


 順子は行弘と目を合わせると、返す言葉を探した。


「ゆっくりできるんだろ?」


 行弘が気を利かせた。


「ん?」


「今日はお客さんの予約もないし、良かったら泊まってってくれ。同窓会に出席できなかったお詫びだ」


「そうだわ。ぜひ、泊まってってください」


 順子も、ゆっくり話がしたかった。


「どうも。んだげんと、遠慮すます。これがら野暮用もあるす」


「そんな。せめて、温泉だけでも入ってってください」


 順子が引き留めた。


「折角んだげんと」


 羽留子は一変して無表情になると、急いで腰を上げ、椅子の上に置いていたボストンバッグを開いた。


「これ、後で読んで」


 そう言ってテーブルに置いたのは、厚みのある白い封筒だった。


「お二人さ会えでよいっけ」


 羽留子はそう言って、笑顔にある悲しい目を向けた。


「……羽留ちゃん」


「……お気を付けて」


 順子は他に言葉が見付からなかった。




 小走りで橋を渡る羽留子の姿は、あっという間に小さくなり、ならの梢に消えた。


 振り返った行弘は目を合わせると、食堂に戻り、白い封筒に手を伸ばした。――

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