第11話

 


 そこにあったのは、若い頃の順子を彷彿ほうふつとさせる女の顔だった。二十四、五だろうか、年齢と髪型こそ違え、背格好もよく似ていた。行弘をると、瞬きのない目を女に据えていた。だが、順子と目を合わせた女からは、微塵の驚きも窺えなかった。寧ろ、予期していたかのように落ち着いた視線だった。


「あ、渡辺ですけど、ご主人は」


 用件を思い出した行弘が口を開いた。


「会社さ泊まるど言ってますたが、夜遅ぐに帰ってぎで、もう出がげだが」


 用意していたような台詞せりふを吐き、落ち着き払っていた。


「そうですか。じゃ、出直すか」


 順子を見た。


「ご主人、今日は何時頃にお帰りですか」


 仮に高志が生きているなら、本人に会うまで帰りたくないと順子は思った。


「さあ……。七時ぐらいには帰るど思いますが」


 そう言いながら、順子の足元に置いた視線を上げた女の双眸そうぼうは、氷の破片のように冷たく尖っていた。反射的に目を逸らした順子は、咄嗟に行弘に向いて、判断を仰いだ。


「ですか。じゃ、夜、また来ます」


 そう言って、行弘が会釈をした瞬間、


「折角だがら、お茶でもどうぞ」


 女は一変して愛想を良くすると、下駄箱の横にあるラックからスリッパを抜いた。順子と目を合わせた行弘が、


「では、お邪魔します」


 と、作り笑いを浮かべた。順子も同様に笑い顔を作った。



 通されたフローリングの部屋は台所も兼ねていた。窓を覆っているチューリップ柄のレースのカーテンが、古い家の造りに不釣り合いだった。台所で茶を淹れている女の好みで、最近になって模様替えしたのが推測できた。ヒント探しのように、八畳ほどの部屋を見回してみたが、それらしきモノはなかった。


 最近結婚したのなら、挙式の写真とか高志とのツーショットの写真があってしかるべきだ。だが、壁にもサイドボードの上にもそれらしきモノはなかった。クリムトの絵と、薄紅のガーベラを挿した白い花瓶があるだけだった。


 ふと、テーブルの真ん中に置かれた陶器の灰皿を視て、順子はギクッとした。高志が吸っていた煙草と同じ銘柄の吸い殻が、他の吸い殻に紛れて一本だけあったのだ。順子は急いで、横に座って部屋を見回している行弘に肘鉄で知らせると、目配せした。灰皿を視た行弘は、その意味を把握すると、


(松田さんは生きてる!)


 そんな驚きの目を向けた。


(うん! 良かった~)


 順子はホッとした顔で口角を上げると、目で返事をした。その瞬間、すたすたとやって来た女が、さらうかのように灰皿を掴むと台所に持っていった。順子と行弘は驚いた目を合わせた。


「どうぞ」


 戻ってきた女は何食わぬ顔で、硝子がらすの灰皿を置いた。


「……あ、どうも」


 勧められた格好で、行弘が横に置いたコートのポケットから煙草を出した。順子が再び部屋を見回していると、お茶を運んできた女が湯呑みを置きながら、


「奥さん、ほだえチェックすねぐでも。高志どはまだ結婚すてましぇんよ」


 と、胸中を見透かした。順子がギョッとした目を向けると、


「渡辺じゃなぐで、芦川さんだべ? お名前」


 そう言って、今度は行弘を睥睨へいげいした。行弘が黙っていると、


「最初がら分がってますた。高志がら話聞いでだす」


 女はそう言いながら悠然とテーブルを挟むと、コーヒーの香りをさせたマイカップをテーブルに置いた。膝上丈のスカートから露出した脚を組むと、カーディガンのポケットから煙草と使い捨てライターを出した。


「おら、益美ますみって言います。若葉町のスナックで働いでいますた。そごで高志ど知り合って。あの人、おらの顔初めで見だ時、びっくりすてだ。その時思ったんだ、おらに似だそのへなのごどが好ぎだったんだど。それがらはぢょぐぢょぐ店さ来でくれるようになって。関係がでぎだ時、彼、寝言でおらのこど“ジュンコ”って呼んだわ。その時、おらに似でるへなの名前ジュンコだど知ったのよ。……悔すいっけ。高志抱いでだのはおらじゃなぐで、そのへなだど思うど。んだがら、今回の復讐劇企んだのよ。おめだづば困らしぇだぐで」


 益美と名乗る女はそう言って、順子を睨んでいた。


「じゃ、高志は元気なんですね?」


 思わず順子の口から出た。


「ええ。今朝もおらが作ったご飯食って会社さ行ったわ」


 益美は短くなった煙草を揉み消しながら、順子を一瞥した。


「良かった……」


 肩の力を抜くと、順子は安堵の微笑を漏らした。


「で、羽留ちゃんは?」


 行弘が口を開いた。


「さあ……。どごがでアパートでも借りでるんでねの」


 冷たい言い方だった。


「松田さんと正式に離婚したんですか? 羽留ちゃんは」


 行弘が続けた。


「ええ、すたわ。……ちょっと待ってけろ、おらが追い出すたどでも? 冗談でねわよ、離婚言い出すたのは高志のほうよ」


 益美の口から意想外の言葉が吐き出された。順子は信じられない顔をすると、行弘と目を合わせた。


「それに、一緒さ暮らさねがって言ったのも高志よ。よほど、ジュンコでいうへなに惚れでだのね。長年連れ添った奥さんと別れでまで、そのジュンコって人さ似だおらば選んだんだがら」


 益美の刺すような視線を想像した順子は、目を合わせることができなかった。


「それも、栃木がら帰ってすぐよ、その話すたのは。誰だってピンどぐるわ。あの人、正直さ言ってくれだのよ。ジュンコって人さ会いに栃木さ行ったって。そすて、最後にごう言ったわ。その人のごどは諦めるって」


 その言葉で、今度は行弘を見ることができなかった。順子は身動みじろぎ一つせず、俯いていた。

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