第10話

 


「……はい」


 女の声だった。


「あ、松田さんのご自宅でしょうか」


「……そうんだげんと」


「高志さんはいらっしゃいますか」


「んねず、おらねがどなださまだが」


「あ、失礼しました。渡辺と申します。昔の役者仲間でして」


 行弘は偽名を名乗ると、当意即妙とういそくみょうの台本を書いた。


「んだが。どだなご用件だべ?」


「元気でいるかと思って。失礼ですが、奥様でいらっしゃいますか」


「えっ? ……ああ、んだげど」


「何時頃お帰りですか?」


「さあ、聞いでおらねが」


「! ……ですか? ではまた電話しますので」


「あ、はい」


 女の返事と共に、行弘は受話器を置いた。


「どうだった?」


 順子が間髪をれずに訊いた。


「松田さんは生きてる」


「ほんとに? 良かった」


 順子は胸を撫で下ろした。


「それと、妻だと言う女は羽留ちゃんじゃなかった」


「えっ、どういうこと?」


「分からん。羽留ちゃんと離婚して、再婚したのかな? 若い声だった」


「なるほど。で、筆跡が違ってたんだ。……でも、何で行方不明なんて嘘を?」


「分からんよ。それと、俺が奥さんですかって訊いたら、狼狽うろたえてた。何か釈然としないんだよ。探る価値ありだ。それに、折角新庄に来たんだから、松田さんに会っていきたいし」


 煙草をくゆらせた。


「そうだね。それよりお腹空いた」


「俺も。ぶらっと出てみるか」


 行弘は煙草を消すと、コートを手にした。


 あけぼの町の飲食店街に行くと、中華料理店に入った。


「ここを出たら、また電話してみるか」


 ラーメンを啜りながら、行弘が見た。


「ん。帰ってるかもしれないしね」


 中華丼を頬張りながら、散蓮華ちりれんげでスープを掬った。




 店を出てから高志の自宅まで行くと、〈松田〉の表札を確認した。木造一戸建ての一階の窓からは明かりが漏れていたが、話し声はなかった。行弘は街路灯の下にある電話ボックスに入った。


「……はい」


「あ、先程の渡辺です。ご主人はお帰りでしょうか」


「いえ。今夜は会社さ泊まるどの電話があった」


「……そうですか。残念だな。……あ、会社の電話番号を教えていただけますか」


「えっ? ……あ、ちょっと待ってください」


 狼狽うろたえている様子が窺えた。暫く待たされると、


「あ、われ。電話番号ど住所書いであるのが見付がらねぐで」


 早口でそう言った。


「……そうですか。では、いずれまた電話をしますので。失礼します」


 ホテルの電話番号を教えようとも思ったが、〈渡辺〉と偽名を使った以上、そうも行かなかった。あれこれと素性を探られる前に、行弘は急いで受話器を置いた。


「今夜は泊まりで帰らないとさ。電話番号を訊いたら、書いたものが見付からないってさ。何か胡散臭うさんくさいな。松田さんに会わせたくないような感じなんだよ」


 ……やはり、高志は死んでいるのでは。それを知られないために、生きているように見せかけているのでは。何のために。順子の中に、そんな考えが不意に襲った。


 仮に高志と一緒に暮らしているとして、ではどうして、手紙には行方不明とあったのだろう。返事を寄越した時は行方不明だったが、その後に戻ってきたのだろうか。だったら、そのことを手紙に書くはずだ。だが、手紙には、“私達のことは放っておいてくれ”とあった。あまりにも矛盾している。どっちが事実なのだろうか。順子の頭は混乱していた。


 シャッターが下りているガレージからは、高志の帰宅の有無は確認できない。


「明日また出直すか?」


「……そうね」


 順子は、薄暗い明かりが漏れる一階の窓を瞥見すると、行弘の後についた。


 ……もし生きているなら、あなたの顔が見たい。もし死んでいるなら、自殺なの? それとも他殺なの? どっちなの? ……高志。順子は言い知れぬ不安と恐怖を感じながら、行弘の手を握った。


 ホテルに戻ったものの、濃霧に目隠しされているみたいで、気持ちがすっきりしなかった。


「ね、明日、私が直接会ってみるわ」


 雲散霧消うんさんむしょうを図るが如く、順子は思い切って言ってみた。どうしても自分の目で高志の生存の有無を確かめたかった。


「バカ、駄目だ。相手は人殺しかもしれないんだぞ。危ないよ」


 行弘が咎める言い方をした。


「だって、どんな女か見たいし、何で行方不明なんて嘘ついたのかも知りたいもの。勧誘のおばさんになって潜り込もうかな」


「バカ、探偵ごっこじゃないんだぞ。危険だ」


「じゃ、どうするの? 明日、帰っちゃうの?」


「いや。……二人で挨拶に行こう」


「なんてって?」


「帰るんで、挨拶をと思って、とかさ」


「ナイフとか持ってく?」


「バカ。……だが、万が一ってこともあるな。ペーパーナイフでも買っていくか」


「果物ナイフのほうが安いわよ」


「ふん。バカだな俺達。大の大人がさ――」


「だって、怖いもん」


「……やっぱ、持ってったほうがいいな」


 決断するかのように、煙草を揉み消した。


「ね。……何だか怖い」


「大丈夫だよ、俺がついてるから」


 そう言って向けた、愛嬌がある行弘の人懐こい目を、順子は心強く感じた。


「うん」




 翌日、失礼にならない時間を見計らって高志の家に行った。呼び鈴を押すと、


「はーい」


 若い女の声が返ってきた。順子が不安げな目を行弘に向けると、“大丈夫だから、心配するな”そんな返事の目をした。


「どなだ?」


 突っ慳貪つっけんどんな物の言い方だった。


「あ、昨夜電話した渡辺ですが、帰る前にご挨拶をと思って」


 行弘が早口で言った。


「……」


 中から躊躇ちゅうちょするような沈黙があった。そして、徐に開けられたドアの向こうに現れた女の顔を見て、順子と行弘は目を丸くした。

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