第4話



 二人はいい気分になっていた。


「ご結婚は?」


「……いや、独身です。若い頃に別れて、それ以来一人です。今流行はやりのバツイチってヤツです」


 高志は適当に脚色をした。


「じゃ、よほど忘れられない人だったんですね」


「ま、いいじゃないですか。旅先では別人になりたいものですよ」


 ボロが出るのを恐れた高志は、その話題にピリオドを打った。


「……なるほど。なかなかのロマンチストですね」


「いやぁ、ただの物好きですよ」


「お仕事は?」


「……脚本を書いてます」


 呑んだ勢いで、若い頃の夢の一つを口にしていた。


「脚本家ですか? だから、ロマンチストなんですね」


「そんなことはないでしょうが……。小さな劇団の脚本を書いています」


「いいなぁ、夢があって」


「それだけじゃ食べていけないから、小説にも挑戦して、出版社に持って行ったら、自費出版をお勧めしますって、ていよく断られまして。自費出版できるくらいなら、わざわざ出版社に持って行かないですよ。ハハハ……」


 高志は調子に乗っていた。


「ハハハ……。そうですよね。直接、印刷会社に持って行きますよね」


「その前に校正をしないと。ハハハ……」


「ハハハ……。あ、校正か。そうですよね、誤字脱字があると読みづらいですもんね」


「印刷する前に見付けると思いますけどね。ハハハ……」


「ハハハ……。ですよね。誤字脱字に気付かないで印刷したら読者からクレームが来ますもんね」


「その前に、本屋が店に置かないですよ。ハハハ……」


「あ、そうか。そりゃそうですよね。ハハハ……」


 酒で気分を良くした二人は、ボケとツッコミのように息を合わせていた。



 ――睡魔に襲われて間もなく、ドアの開く音がした。行弘だと思い、目を閉じたままでいると、アルコールの匂いと共にべとついた唇が重なってきた。


「う……」


 拒むように胸を押すと、顔を背けた。短い沈黙の後にドアを閉める音がした。相手の正体を明らかにしたくなかった順子は、目を閉じたままでいた。


 ……もしかして、高志かもしれない。そう思わせたのは、指先に触れた着衣の感触だった。行弘はカーディガンを着ていた。だが、指先に触れたのは、丹前のような生地だった。当時の高志のキスがどんなだったかは覚えていない。ましてや二人とも同じ酒を呑んでいる。順子には明確な判断ができなかった。



 翌朝、目を覚ますと行弘の姿がなかった。布団も昨夜敷いたままの状態だった。高志の部屋で寝ているのだろうと思い、客の食事の支度をした。



 重そうに頭を抱えた行弘が二階から下りてきたのは、客が帰った後だった。


「誰んちに泊まったの?」


 味噌汁を温め直しながら顔を向けた。


「増田さんち。いやぁ、呑んだな。最後は一升瓶抱えてコップ酒だよ。あ~、頭いてえ」


「大声出したりして、お客さんに迷惑かけなかった?」


「大丈夫だよ、部屋離れてるから」


「ご飯食べる?」


「要らねぇ。味噌汁だけでいいよ」


 行弘は不味まずそうに吸っていた煙草を揉み消すと、順子が手にしたトマトジュースを飲み干した。


「お早うございます」


 がらがら声で高志が下りてきた。順子は高志から目を逸らすと、冷蔵庫から麦茶を出した。


「お早うございます。いや、おそようございますかな」


「アハハハ……」


 行弘のジョークに高志が笑った。


昨夜ゆうべの続きですか?」


「いや、昨夜はすいませんでした。遅くまでお付き合いさせて」


 味噌汁を啜りながら行弘が頭を下げた。


「いえ。楽しかったですよ」


「……どうぞ」


「あ、恐れ入ります」


 高志は、順子が盆に載せた麦茶を手にした。


「お食事は?」


「あ、じゃ、いただきます」


 コップに口を当てた高志が見た。順子は目を逸らすと、


「では、食堂のほうでお待ちください」


 そう言って流しに立った。


「俺も食堂行こ」


 椀を持ったままの行弘が、腰巾着こしぎんちゃくのように高志の後をついて行った。意気投合した二人の笑い声を聞きながら、順子は複雑な気持ちだった。



 味噌汁を食べ終えた行弘は湯浴ゆあみに行った。


「ったく。呑まないって約束したじゃない」


 行弘が居ないのをいいことに、順子が愚痴ぐちった。


「仕方ないだろ、勧められたんだから」


「ったく、意志が弱いんだから」


「……」


「余計なこと言わなかった?」


「……たぶん。な? 俺と別れてからどうした? 付き合ってた男とはうまくいったのか?」


 茶碗を持ったままの高志が上目で見た。


「何よ、そんな遠い昔の話。すぐに別れたわ」


「……お前は浮気っぽかったからな」


「ほら、またお前って言ったわよ、もう。おかわりは?」


「もう、いい」


「じゃ、お茶れるわね」


 茶葉の入った急須にポットを傾けた。


「……順子」


「ん?」


「……話があって来た」


 深刻な顔を向けた。


「何? 話って」


「覚悟をして来たんだ。女房と別れる。だから――」


 その瞬間とき、咳払いと共にスリッパの音がした。順子は咄嗟とっさに腰を上げると、茶碗を重ねた。


「あ~、いい湯だった」


 行弘がわざとらしい声を出した。


「増田さんもどうですか? ひとっ風呂浴びては」


「じゃ、そうしますか」


 高志は湯呑みを置くと腰を上げた。短い静寂せいじゃくの中に、遠ざかる高志のスリッパの音が消えた。途端、行弘が順子の腕を掴んだ。


「痛っ」


 行弘は無言で順子の腕を引っ張ると、部屋に連れ込み、敷きっぱなしの布団に押し倒した。


「何よ、どうしたの?」


 目を丸くした。行弘は返事もせずに服を脱ぐと、順子に重なった。そして、唇で順子の口を塞ぐと、スカートの中をまさぐった。――

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