第2話

 


 あいつとはその順子のことだ。二十年以上も忘れていたこの感情は何だ。急に会いたくなった。あの、鼻っ柱が強い順子に会いたくなった。仮にこれを書いたのが順子じゃなくてもいい。順子と似た筆跡の持ち主に会ってみたかった。


 運送会社で長距離トラックのドライバーをしている高志には、家を空ける口実はいくらでもあった。


「――東京までだ。ついでに友達にも会うから、二、三日行ってくる」


「気付げでね。おみやげ楽すみにすてっから」


 生成色きなりいろのセーターに花柄のちゃんちゃんこを着た羽留子が、八重歯をのぞかせた。



 いつものように、会社まで使う自家用車に乗ると、見送る羽留子に手を挙げた。――駅前の駐車場に車を置くと、新幹線に乗った。――新宿で野暮用やぼようを済ませると、東武鉄道で鬼怒川に向かった。


 封筒にあった〈郁清荘いくせいそう〉までの足はタクシーか、一時間待ちのバスしかなかった。メモ用紙に書いた宿の名を観光案内で言って、行き方を教えてもらうと、景色を堪能しながら歩いた。


 予約なしだ。突然行って、順子のはげしい感情をあじわいたい。高志はそんな考えだった。


 春の山路は爽快だった。崖下の川辺には色鮮やかな山吹が咲き乱れ、黄色い帯のように続いていた。小さな橋を渡った正面にある〈郁清荘〉は、深山に身を隠すようにひっそりと佇み、茜色の空に染められていた。


 高志は胸の鼓動を抑えながら、人の声すらしない閑散とした宿から聞こえる包丁の音に耳をそばだてると、戸を開けた。


「ごめんくださーい!」


「はーい!」


 女の声が返ってきた。だが、その、はーいだけでは、順子かどうか判断できなかった。やがて、板張りの廊下をやって来るスリッパの音が近付いてきた。


 目の前に現れたのは、高志が描いたシナリオどおりの顔だった。高志を見るなり、順子は笑顔から一変すると、鳩が豆鉄砲を食ったように、瞬きのない丸い目を据えていた。


「……高志?」


 予期せぬ客に驚きながらも、当時の面影を手繰たぐり寄せてみた。びんに白いものがあったが、少ししゃくれたあごも、柔和な面持ちも当時のままだと、順子は思った。


「ああ。久し振り。やっぱり君だったか」


「……やっぱりって?」


「山形に手紙書いたろ?松田羽留子は、俺の女房だ」


「え? 嘘。ホントに? ……すごい偶然。で、何しに来たの?」


「何しにって言い方はないだろ? 君に会いたくてさ」


「泊まっていくの?」


 高志が提げた鳶色とびいろのボストンバッグを視た。


「ああ。二、三日の予定だ」


「それはいいけど、名前とか住所とかどうする?山形の松田じゃ、あなただとバレちゃうし」


「そうだな。……じゃ、大田区の増田にでもしとくか」


「じゃ、ここに書いて」


 宿帳とボールペンを帳場から取ると、廊下の隅にあるテーブルに置いた。


「元気だったのか?」


 適当な住所と名前を書きながら、順子を見た。


「ええ。あなたは?」


「……あれから色々あったさ」


「こっち」


 高志の手からボストンバッグを受け取ると、階段を上がった。目の前にあるタイトスカートの腰回りは少しふっくらしていたが、整った容姿も、せっかちな性格も、当時のままだと高志は思った。



 高志の部屋を廊下の突き当たりにすると、窓際にボストンバッグを置いた。順子は窓を開けると、橋の下に浮かぶ山吹に目をやった。


「……順子」


「ん?」


 振り返ると、高志の顔が目の前にあった。


「……今、幸せなのか」


「ええ、幸せよ。あなたは?」


「……分からん」


「あっ、夕飯の支度しないと」


 思い出したように言うと、部屋を出た。



 高志との邂逅かいこうは、何故かしら順子を不安にさせた。二年間の高志との同棲生活は、紆余曲折うよきょくせつとして、すっきりしないものが介在していた。順子にとって高志は、恋人と言うより、むしろ肉親に近い存在だった。だが、それも二十年前に終わっている。行弘と結婚して二年になる。子供はなかったが、順子は幸せだった。


「ただいまー」


 行弘が買い出しから帰ってきた。


「あ、お帰り。お客さん、一人増えたから」


 ねぎを刻みながら言った。


「誰?」


「知らない。初めてだって。ぶらっと旅してて、ここ見付けたんだって」


 順子は早口で適当なことを言った。


「……ふうん。男?」


「うん、中年男。二、三日泊まるんだって」


「すげえ、上客じゃん。まとめ買いしてきて良かった」


「手、洗った?」


「これから。今帰ってきたばっかじゃん」


 行弘は、ぶつぶつ言いながら洗面所に行った。順子は肩の力を抜くと、葱を刻んだ。



 食堂のテーブルに料理を並べていると、


「皆さん、下で食べるんだろ?」


 と、厨房のテーブルで新聞を広げている行弘が訊いた。


「……ううん。一人のお客さんは部屋で食べるって」


「さっきの初めてって言う人?」


「ええ」


 運び盆に岩魚いわなの塩焼きや山菜の天ぷらを載せた。


「どんな人だ?」


「どんなって、普通の人よ」


 盆を手にすると、階段を上がった。



 行弘は、宿帳を開いてみた。


〈東京都大田区――

 増田武

 03――〉


 行弘は考える顔をすると、もう一度、宿帳に記された名前を視た。



 ノックすると、ドアを開けた高志が笑顔を向けていた。


「部屋じゃなくても良かったのに」


「駄目よ。主人にバレないようにして」


「何をそんなに心配してるんだ?」


「そういう言い方やめてよ。勝手に来といて」


 睨み付けた。無神経な高志に腹が立った。


「いい? 分かった? ここに来た以上、私のやり方にして。じゃなきゃ、今すぐ帰って」


 他の客が食堂に下りて、二階には誰も居ないのを良いことに、順子は声を荒らげた。


「……分かった」


「すぐ食べるの? 呑むの?」


「じゃ、ビールでも呑むかな」


 途端、高志が表情を緩めた。


「その代わり、一本だけね。酔うとボロが出るから」


「ああ。君の言うとおりにするよ」


 口角を上げた。


「にやけないで」


 順子は素っ気なくドアを閉めた。

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